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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
貢ぐ女の、勝訴

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第4話「立証責任」



立証責任は、訴える側にある。

疑う者が、証拠を出さなければならない。

大学一年のとき、最初に習った。


以来、二十年以上、わたしはそれで飯を食ってきた。

被害を訴える人の隣に座り、証拠を並べ、加害者を追い詰める。


「あなたは悪くない。悪いのは、向こうです」


法廷で、何何百回と言ってきた台詞だ。

なのに。

あの糸目の男の声が、まだ抜けない。


「弁護士さんなら——自分の依頼も、受けてあげたら」


神宝町の古びた喫茶店。

珈琲 鈴蘭。

時代に取り残されたような店だった。


白檀の匂い。

雨音。

一本だけ立っていた線香。

煙の向こうの、白い顔。


わたしは答えなかった。

ドアベルを乱暴に鳴らして、立ち去った。

それが、もう三日前だ。


依頼を受ける、という言葉は知っている。

誰の依頼を、と問われて答えに詰まったのは、初めてだった。


◆◇


棘は抜けない。

抜けないなら、見ないことにする。

わたしは、いつもそうしてきた。


その夜、透のためにすき焼きを作った。

牛肉は百グラム千八百円の、いいもの。

透がテレビで見て、食べたいと言ったからだ。


「うまい」


透が肉を頬張って言う。

三十四歳。

整った顔。

わたしより、十二歳若い。


「律子の作るやつが、いちばんうまいわ」


わたしは笑った。

頬の奥が、少し引きつる。

最近、笑うのが下手になった。


それでもいい。

この人が、ここにいてくれるなら。


わたしだけが、ここまで来た。

司法試験に四回落ちて、五回目で受かった。

団地の四階から、ひとりで抜け出した。

誰にも頼らずに。


そのわたしが選んだ人だ。

間違っているはずがない。


立証責任は、疑う側にある。

わたしには、この人を疑う証拠がない。

そういうことにした。


◆◇


洗い物をしていて、見つけた。

ゴミ箱の底。

生ゴミの下。


銀色の、安物の腕時計。

ベルトの革がひび割れている。

文字盤のガラスに、細かい傷。


生ゴミの汁が、革に染みていた。

脂のすえた匂いがした。


母の形見だった。

もう動かない。

電池が切れて、十年は経つ。

それでも、わたしは捨てなかった。


寝室の引き出しの、いちばん奥にしまっていたはずだった。


濡れた手が止まる。

息が止まった。

一秒か、二秒。


判決主文を聞く前の法廷みたいに、部屋が静かになる。


「透」


声が掠れた。

家の中だと、声がうまく出ない。

法廷では、あんなに通るのに。


「これ」


腕時計を差し出す。

透はスマホから顔を上げなかった。


「ああ、それ」


あくび混じりに言う。


「ゴミ箱、漁ったの? きったね」


◆◇


「捨てたの、あなた」


「うん」


透は悪びれなかった。

悪びれるという機能が、最初からついていないみたいに。


「だってさ、あんなダサいの置いといてもしょうがないじゃん」


スマホを置く。

わたしを見る。


「新しいの買ったろ? この前。あのブランドの。あっちのほうが、ぜんぜんいいって」


あれは。

あれは、わたしがあなたに買ってあげた時計だ。

十二万した。

あなたが欲しいと言ったから。


「あれは、あなたのでしょう」


「えー、おそろいみたいでいいじゃん」


透が笑う。

無邪気に。

なんの影もなく。


その笑顔の前で、わたしの中の何かが、静かに切れた。


◆◇


「ふざけないで」


声が出た。

家の中で、初めて。


「あれは、母の形見なの。動かなくたって、わたしの——」


「うわ、こわ」


透が両手を上げる。

「なんだよ急に。たかが時計じゃん」


「たかがじゃない」


二十年、人のために使ってきた声だった。

怒りは、熱ではなかった。

もっと冷たいものだった。


判決文の一行目に、主文を書くときのような、取り消せない冷たさ。


この人に、貢いだ。

養った。

家賃も、食費も、遊ぶ金も、全部出した。


それでも足りなくて。

わたしの母まで、捨てられた。

動かない針ごと。

生ゴミと一緒に。


「あなたは——」


言いかけた。

その瞬間、透の目が潤んだ。


◆◇


「……ごめん」


透の声が、急に小さくなる。


「俺、ほんとダメだな」


肩が落ちる。

うつむく。


「律子の大事なもの、分かんなくて。俺、ほんと、気が利かないっていうか」


声が震える。


「こんな俺といたら、律子まで駄目になるよな」


顔を覆う。


「俺なんか、いないほうがいいんだろうな」


部屋の空気が、ぐにゃりと歪んだ。


さっきまで、わたしが訴える側だった。

わたしが、証拠を握っていた。

被害品は、この手の中にあった。


なのに。

立場が入れ替わる。

一秒もかからずに。


気づけば、わたしは透の背中に手を伸ばしていた。


「……違う。違うの、透」


わたしの声。


「わたしが悪かった。大きな声出して、ごめんね」


◆◇


謝っていた。

わたしが。

形見を捨てられた、わたしが。

怒っていたはずの、わたしが。


「ね、機嫌なおして」


透の背中をさする。

透は指の隙間から、ちらりとわたしを見た。


その目に、涙はもうなかった。

わたしは、それに気づかなかった。

気づきたくなかった。


◆◇


夜中。

透は寝室で眠っている。

寝息は規則正しい。


わたしはリビングで、ひとりだった。

母の腕時計を、テーブルに置く。

動かない針が、十時二十分を指したまま。


怒りは、行き場を失っていた。

法律で武装してみる。

それが、わたしの得意技だ。


「……器物損壊」


声に出す。


「三年以下の懲役、または三十万円以下の罰金」


いや。

婚姻関係ではない。

内縁ですらない。

ただの、わたしが貢いでいる男。


精神的苦痛。

慰謝料。

財産的損害。

不法行為。


相場を頭の中で計算する。

数字は出る。

いくらでも出る。

判例も引ける。

準備書面なら、一晩で書ける。


なのに。

わたしは、それを誰に請求すればいい。


被告席に座らせるべき男は、いま、わたしのベッドで寝息を立てている。

わたしが買った羽毛布団の中で。


◆◇


依頼人には、いつも言う。

あなたは悪くない、と。

その台詞を、自分には一度も使ったことがなかった。


立証責任は、訴える側にある。

わたしは、訴える側なのか。


それとも。

被害を被害だと言えない人が、被害者になれるのか。


法律は、訴えない者を救わない。

わたしは、それを誰よりも知っている。


知っていて、訴えられない。

二十年かけて研いだ刃が、自分の喉元ではなまくらになる。


「立証責任は、どっちにある」


誰もいないリビングで呟いた。

自分が被害者であることを、証拠を出して立証できる気がしなかった。


いちばん近くにいるのに。

いちばん分からない。


わたしだけが、ここまで来た。

その、わたしが。

自分の事件だけ、解けない。


◆◇


スマホが光った。

深夜一時。

知らない番号。


メッセージが一行。

『夜分にすみません。真鍋透さんの件で、お話があります』


指が止まる。

真鍋透。

あの人の件で。


わたしは、誰にも透のことを相談していない。

同僚にも。

家族にも。

ひとことも。


なのに、向こうから来た。

わたしが訴える前に。


差出人の名前は、女だった。

もう一通、続けて届く。


『お金のことで、困っています』


母の腕時計が、テーブルの上で沈黙していた。

止まった針は、まだ十時二十分を指している。

訴えていたはずの側が、一秒で謝る側に回る。第4話は、その入れ替わりの速さだけを、できるだけ静かに書きました。


 別の女からの一行が、深夜に届いたところで終わります。続きは次回に。

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