第3話「神宝町の、線香」
その街では、地図アプリが少し迷った。
駅で降りて、案内の矢印が二度、向きを変えた。
右だと言ったあとで、左だと言い直す。
わたしは画面を閉じた。
古い書店の軒が、低く並んでいる。
木造の喫茶店。
錆びた看板。
路地の奥で、誰かが植木に水をやっていた。
車の音も、人の声も薄い。
時間が、少しだけ止まっている街だった。
わたしの住む街では、信号が一分ごとに人を急かす。
ここでは、誰も急いでいない。
依頼は、相続だった。
神宝町の古書店主が亡くなった。
独居。
身寄りは遠縁が一人。
遺品整理の立ち会い。
弁護士として、わたしはここへ来た。
◆◇
店の鍵を開けると、紙の匂いがした。
古い本の、乾いた匂い。
埃ではない。
手入れされたものの匂いだった。
棚はきちんと揃っていた。
背表紙の高さが、指で測ったみたいに並んでいる。
帳面が、机の上に開いたままだった。
几帳面な細い字。
昨日の日付で止まっている。
奥の小さな台所には、茶碗が一つ。
箸が一膳。
湯呑みが一つ。
布巾は、きちんと畳まれて掛けてあった。
流しに、洗い残しはない。
水滴の一つまで拭き取られている。
独りなのに、満ちている。
誰も見ていないのに、整っている。
冷蔵庫を開けると、出汁を取ったあとの昆布が、容器に入れてあった。
明日も使うつもりだったのだ。
明日が来ないことを知らずに。
◆◇
わたしは、自分の家の台所を思った。
透の分だけ、出汁を取る。
透の分だけ、皿に盛る。
透の好きな薄味で。
透の好きな、白く角の立った米で。
湯気の立つ皿をテーブルに置く。
彼はスマホを見ながら、それを崩していく。
うまい、とも言わない。
それでも、わたしは明日も出汁を取る。
自分の分は、ない。
わたしは立ったまま、コンビニの袋から何かをつまむ。
いつ食べたのか覚えていない。
味も覚えていない。
この店主は、独りで、自分のために出汁を取っていた。
わたしは、二人でいて、自分の分を忘れている。
どちらが独りなのだろう。
ふいに、そんなことを考えた。
考えるのをやめて、書類に目を落とす。
仕事をする。
仕事をしていれば、たいていのことは考えなくて済む。
◆◇
外に出ると、雨だった。
降り出しが早い。
傘は持っていない。
軒を伝って、明かりのある店へ駆け込んだ。
珈琲 鈴蘭。
ガラス扉に、蔓草の細工。
中は暗く、あたたかかった。
扉を閉めると、雨の音が遠くなる。
古い柱時計が、ことり、ことり、と鳴っていた。
ほかに音はない。
静かすぎて、息を整えた。
ここでは、肩に入れた力が誰にも見えない。
誰にも見せなくていい。
そう思った途端、肩がひとつ落ちた。
奥の窓際の席に、男がひとり座っていた。
糸目。
痩せた身体。
白い顔。
煙草を指先で回している。
歳は分からない。
五十にも、四十にも見える。
テーブルの真ん中には、白い小さな皿。
その上に、線香が一本。
白檀の甘い匂いが、雨の匂いに混じっていた。
◆◇
空いた席は、その隣しかなかった。
わたしはコーヒーを頼み、鞄から書類を出した。
仕事をしている顔を作る。
見られている気がした。
「お仕事、ですか」
男が言った。
語尾が、少し伸びていた。
「ええ。弁護士をしておりまして」
いつもの声を出す。
少し低く。
少し自信ありげに。
依頼人に見せる、敏腕の顔。
「あー、はい、はい」
男はそれだけ言った。
うなずきもしない。
感心もしない。
「神宝町は、いいところですね」
「ええ。静かで」
「静かなところは、嘘がよく響くんですよー」
ペンが止まった。
◆◇
人の嘘は、職業柄、すぐ分かる。
なのにこの男は、わたしの嘘を一秒で値踏みした。
わたしは嘘などついていない。
弁護士なのは本当だ。
敏腕かどうかは、自称の範囲だけれど。
それでも、背中が薄く冷えた。
男は糸目のまま、コーヒーを一口飲む。
それから、わたしの手首を見た。
ブランドの時計。
透に買わされた時計だ。
文字盤の数字より、ベルトの値段のほうが高い。
その下に、わたしは別の感触を覚えている。
昔、ここに巻いていた安物の腕時計。
母の形見だった。
団地の狭い台所で、母が最後まで外さなかった時計。
文字盤は曇って、秒針はたまにつっかえた。
最近、見ていない。
どこへしまったのか、思い出せない。
しまった記憶すら、ない。
「いい時計ですねぇ」
男が言った。
「……ありがとうございます」
「ええ」
線香の煙が、まっすぐ立っている。
風のない店の空気を、細く割るように。
「ええ」
男は、もう一度、相槌だけ打った。
それから、煙草を灰皿の縁に置く。
「前のは、どうしたんです」
わたしは顔を上げた。
「前の、とは」
「前の時計ですよー」
男は、自分の手首を指で軽くなぞった。
「ここに、跡がありますからねぇ」
わたしは、自分の手首を見た。
ブランドの時計の奥。
皮膚に残った、細い白い線。
安物のベルトが長く巻かれていた跡。
誰も気づかない跡だ。
わたしですら、忘れていた。
◆◇
頬が熱くなった。
なぜ、と思う前に熱くなっていた。
彼は知らないはずだ。
あの腕時計が母の形見だったことも。
それを、わたしがいつのまにか外していたことも。
透が、新しい時計を見せて笑った日のことも。
知らないのに、突いた。
跡だけを見て、一番やわらかいところを突いた。
法廷で、わたしは人の急所を突く。
言葉の矛盾。
供述の揺れ。
証拠の空白。
そのいちばん細いところへ指を入れて、開く。
それで飯を食ってきた。
突かれる側に回ったことはなかった。
こんなに静かに。
こんなにやわらかく。
「失礼な人ですね」
わたしは書類を鞄にしまった。
コーヒーは半分残したまま。
男は止めなかった。
謝りもしなかった。
ただ、糸目のまま線香の煙を見ていた。
◆◇
コートを羽織る。
雨はまだやんでいない。
それでも出たかった。
この店の甘い匂いから。
この男の糸目から。
この白い線を見つけられた手首から。
扉に手をかける。
蔓草の細工が、指に冷たい。
頬はまだ熱かった。
怒りなのか、羞恥なのか、自分でも分からない。
振り返らずに、扉を押した。
その背中に、声がかかった。
「奥さん」
わたしは止まった。
「弁護士さんなら——」
男の声は、低く、ゆっくり伸びた。
「自分の依頼も、受けてあげたらどうです」
振り返る。
窓際の席。
白い皿。
立ちのぼる、一本の線香。
その向こうに、男はいた。
いる。
けれど、煙草の煙がちょうど顔の前を横切って、糸目も白い顔も、煙の向こうに溶けていた。
雨の音が戻ってくる。
「自分の依頼」
わたしは、その言葉を口の中で繰り返した。
意味が分からない。
分からないのに、胸の奥が鳴った。
わたしはいつも、誰かのために闘ってきた。
依頼人のために。
透のために。
勝った自分を証明するために。
自分のために闘ったことは、あっただろうか。
扉が閉まる。
白檀の甘い匂いが、外の雨に断ち切られた。
手首のブランドの時計が、やけに重かった。
静かなところは、嘘がよく響くんですよー。糸目の男のその一言が、今回いちばん書きたかった場所です。
線香を一本立ててから話を聞く、この気づかせ屋の慈恩は、神宝町の他の話にも煙草の煙のように現れます。彼に会った街の別の人たちの話も、作者ページに。
「自分の依頼も、受けてあげたら」。煙の向こうに消えた問いを、律子はまだ口の中で転がしています。
( ˘ω˘ )




