表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
貢ぐ女の、勝訴

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

95/152

第3話「神宝町の、線香」



その街では、地図アプリが少し迷った。

駅で降りて、案内の矢印が二度、向きを変えた。


右だと言ったあとで、左だと言い直す。

わたしは画面を閉じた。


古い書店の軒が、低く並んでいる。

木造の喫茶店。

錆びた看板。


路地の奥で、誰かが植木に水をやっていた。

車の音も、人の声も薄い。

時間が、少しだけ止まっている街だった。


わたしの住む街では、信号が一分ごとに人を急かす。

ここでは、誰も急いでいない。


依頼は、相続だった。

神宝町の古書店主が亡くなった。


独居。

身寄りは遠縁が一人。

遺品整理の立ち会い。


弁護士として、わたしはここへ来た。


◆◇


店の鍵を開けると、紙の匂いがした。

古い本の、乾いた匂い。

埃ではない。

手入れされたものの匂いだった。


棚はきちんと揃っていた。

背表紙の高さが、指で測ったみたいに並んでいる。


帳面が、机の上に開いたままだった。

几帳面な細い字。

昨日の日付で止まっている。


奥の小さな台所には、茶碗が一つ。

箸が一膳。

湯呑みが一つ。


布巾は、きちんと畳まれて掛けてあった。

流しに、洗い残しはない。

水滴の一つまで拭き取られている。


独りなのに、満ちている。

誰も見ていないのに、整っている。


冷蔵庫を開けると、出汁を取ったあとの昆布が、容器に入れてあった。

明日も使うつもりだったのだ。

明日が来ないことを知らずに。


◆◇


わたしは、自分の家の台所を思った。

透の分だけ、出汁を取る。

透の分だけ、皿に盛る。


透の好きな薄味で。

透の好きな、白く角の立った米で。


湯気の立つ皿をテーブルに置く。

彼はスマホを見ながら、それを崩していく。

うまい、とも言わない。


それでも、わたしは明日も出汁を取る。

自分の分は、ない。


わたしは立ったまま、コンビニの袋から何かをつまむ。

いつ食べたのか覚えていない。

味も覚えていない。


この店主は、独りで、自分のために出汁を取っていた。

わたしは、二人でいて、自分の分を忘れている。


どちらが独りなのだろう。

ふいに、そんなことを考えた。


考えるのをやめて、書類に目を落とす。

仕事をする。

仕事をしていれば、たいていのことは考えなくて済む。


◆◇


外に出ると、雨だった。

降り出しが早い。

傘は持っていない。


軒を伝って、明かりのある店へ駆け込んだ。

珈琲 鈴蘭。

ガラス扉に、蔓草の細工。


中は暗く、あたたかかった。

扉を閉めると、雨の音が遠くなる。


古い柱時計が、ことり、ことり、と鳴っていた。

ほかに音はない。


静かすぎて、息を整えた。

ここでは、肩に入れた力が誰にも見えない。

誰にも見せなくていい。


そう思った途端、肩がひとつ落ちた。


奥の窓際の席に、男がひとり座っていた。

糸目。

痩せた身体。

白い顔。


煙草を指先で回している。

歳は分からない。

五十にも、四十にも見える。


テーブルの真ん中には、白い小さな皿。

その上に、線香が一本。

白檀の甘い匂いが、雨の匂いに混じっていた。


◆◇


空いた席は、その隣しかなかった。

わたしはコーヒーを頼み、鞄から書類を出した。


仕事をしている顔を作る。

見られている気がした。


「お仕事、ですか」


男が言った。

語尾が、少し伸びていた。


「ええ。弁護士をしておりまして」


いつもの声を出す。

少し低く。

少し自信ありげに。

依頼人に見せる、敏腕の顔。


「あー、はい、はい」


男はそれだけ言った。

うなずきもしない。

感心もしない。


「神宝町は、いいところですね」


「ええ。静かで」


「静かなところは、嘘がよく響くんですよー」


ペンが止まった。


◆◇


人の嘘は、職業柄、すぐ分かる。

なのにこの男は、わたしの嘘を一秒で値踏みした。


わたしは嘘などついていない。

弁護士なのは本当だ。

敏腕かどうかは、自称の範囲だけれど。


それでも、背中が薄く冷えた。


男は糸目のまま、コーヒーを一口飲む。

それから、わたしの手首を見た。


ブランドの時計。

透に買わされた時計だ。

文字盤の数字より、ベルトの値段のほうが高い。


その下に、わたしは別の感触を覚えている。

昔、ここに巻いていた安物の腕時計。

母の形見だった。


団地の狭い台所で、母が最後まで外さなかった時計。

文字盤は曇って、秒針はたまにつっかえた。


最近、見ていない。

どこへしまったのか、思い出せない。

しまった記憶すら、ない。


「いい時計ですねぇ」


男が言った。


「……ありがとうございます」


「ええ」


線香の煙が、まっすぐ立っている。

風のない店の空気を、細く割るように。


「ええ」


男は、もう一度、相槌だけ打った。

それから、煙草を灰皿の縁に置く。


「前のは、どうしたんです」


わたしは顔を上げた。


「前の、とは」


「前の時計ですよー」


男は、自分の手首を指で軽くなぞった。


「ここに、跡がありますからねぇ」


わたしは、自分の手首を見た。

ブランドの時計の奥。

皮膚に残った、細い白い線。


安物のベルトが長く巻かれていた跡。

誰も気づかない跡だ。

わたしですら、忘れていた。


◆◇


頬が熱くなった。

なぜ、と思う前に熱くなっていた。


彼は知らないはずだ。

あの腕時計が母の形見だったことも。

それを、わたしがいつのまにか外していたことも。

透が、新しい時計を見せて笑った日のことも。


知らないのに、突いた。

跡だけを見て、一番やわらかいところを突いた。


法廷で、わたしは人の急所を突く。

言葉の矛盾。

供述の揺れ。

証拠の空白。


そのいちばん細いところへ指を入れて、開く。

それで飯を食ってきた。


突かれる側に回ったことはなかった。

こんなに静かに。

こんなにやわらかく。


「失礼な人ですね」


わたしは書類を鞄にしまった。

コーヒーは半分残したまま。


男は止めなかった。

謝りもしなかった。

ただ、糸目のまま線香の煙を見ていた。


◆◇


コートを羽織る。

雨はまだやんでいない。


それでも出たかった。

この店の甘い匂いから。

この男の糸目から。

この白い線を見つけられた手首から。


扉に手をかける。

蔓草の細工が、指に冷たい。


頬はまだ熱かった。

怒りなのか、羞恥なのか、自分でも分からない。

振り返らずに、扉を押した。


その背中に、声がかかった。


「奥さん」


わたしは止まった。


「弁護士さんなら——」


男の声は、低く、ゆっくり伸びた。


「自分の依頼も、受けてあげたらどうです」


振り返る。

窓際の席。

白い皿。

立ちのぼる、一本の線香。


その向こうに、男はいた。

いる。


けれど、煙草の煙がちょうど顔の前を横切って、糸目も白い顔も、煙の向こうに溶けていた。


雨の音が戻ってくる。


「自分の依頼」


わたしは、その言葉を口の中で繰り返した。

意味が分からない。

分からないのに、胸の奥が鳴った。


わたしはいつも、誰かのために闘ってきた。

依頼人のために。

透のために。

勝った自分を証明するために。


自分のために闘ったことは、あっただろうか。


扉が閉まる。

白檀の甘い匂いが、外の雨に断ち切られた。

手首のブランドの時計が、やけに重かった。

静かなところは、嘘がよく響くんですよー。糸目の男のその一言が、今回いちばん書きたかった場所です。


 線香を一本立ててから話を聞く、この気づかせ屋の慈恩は、神宝町の他の話にも煙草の煙のように現れます。彼に会った街の別の人たちの話も、作者ページに。


 「自分の依頼も、受けてあげたら」。煙の向こうに消えた問いを、律子はまだ口の中で転がしています。


( ˘ω˘ )

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ