第2話「不当利得」
返してもらえないと分かっているお金を、法律用語で包んで自分に貸す。第2話は、その「上手な嘘」の話でした。
神宝町には、"気づかせ屋"がいるそうです。律子がそこへ足を運ぶかどうかは、次回。続きを置いておきたい方は、ブックマークしておくと取りこぼしません。
写り込んだ若い手を、彼女はまだ「状況証拠が一枚だけ」と退けています。心証が形成されるのは、もう少し先で。
(´ー`)
不当利得、という言葉が好きだ。
法律上の原因がないのに利益を受けた者は、その利益を返還しなければならない。
きれいな条文だと思う。
受け取ったものは、返す。
奪ったものは、戻す。
理由のない利益は、理由のある場所へ返される。
世界が本当にそうできているなら、どれほど楽だっただろう。
法律上は、そうだ。
現実では、誰も返さない。
わたしはそれを、四十六年生きて知っている。
知っていて、それでもこの言葉が好きだった。
返してもらえる前提で組み立てられた、その建て付けが。
「親が入院したんだ」
透が言った。
台所で、わたしの背中に向かって。
わたしはコーヒーを淹れていた手を止めなかった。
止めると、考えてしまうから。
「いくら」
「……三十万、あれば」
通帳を見ない癖がついている。
見ないから、減っていることに気づかずに済む。
残高は、見なければ存在しない。
立証責任は、気づいた側にある。
そう思うことにしている。
わたしは振り向いて、笑った。
透の前でだけ、わたしの声は甘くふやける。
法廷でなら絶対に出さない、間延びした母音。
「いいよ。出してあげる」
これは贈与ではない。
貸付け。
立派な金銭消費貸借契約。
返還の合意は、口頭でも成立する。
利息の定めはない。
期限の定めもない。
期限の定めがないということは、いつ返してもらってもいい、ということだ。
いつでも、という言葉は、永遠に、によく似ている。
封筒に新札を入れた。
透は「ありがとう」も言わずに、それを尻ポケットにねじ込んだ。
札の角が、布の内側で折れた気がした。
返してもらえないと分かっているお金を、わたしは法律用語で包んで、自分に貸していた。
◆◇
事務所には、ひとりで来る依頼者がいる。
予約もなく、午後の遅い時間に。
その日もそうだった。
くたびれたダウン。
油で光る袖口。
乾いた唇。
神宝町から来た、と男は言った。
古い書店をやっていた父が死んで、相続でもめている、と。
相続。
わたしは座り直した。
話を聞く態勢に入る。
「兄貴が、店ごと売るって聞かなくて。でも、あの店は……」
男の指が、膝の上で何かをこすっていた。
会えなくなった人の手を、まだ握っているみたいな指だった。
「お父様のお店なんですね」
「はい。父が、四十年」
男の声が少し詰まる。
「本だけじゃないんです。あそこ、町の人が来る場所で。父も、最後まで、店は残せって」
遺言書はない。
不動産名義は父。
相続人は兄弟二人。
兄は売却希望。弟は存続希望。
法的には、難しくない。
けれど、法律だけで片づければ、たぶん何かが壊れる案件だった。
そのとき、ドアが開いた。
透だった。
昼に渡した三十万のことなど、もう顔には残っていない。
コンビニの袋を提げて、わたしの事務所に当然みたいに入ってきた。
依頼者の男を、ひと目見る。
それから、わたしのデスクに袋を置き、聞こえる声で言った。
「ああいうの、関わると損だよ。金になんないでしょ」
男の指が止まった。
わたしの中で、何かがちりっとした。
初めてだった。
透の言葉に、わたしの皮膚が小さく逆立ったのは。
「透」
たしなめる声を出そうとした。
けれど、半分だけ出て、引っ込んだ。
男は立ち上がった。
「すみません。今日は、やっぱり」
「いえ、あの」
引き止めるべきだった。
分かっていた。
けれど透が隣にいるだけで、わたしの声は細くなる。
男は頭を下げ、出ていった。
神宝町の住所が書かれたメモだけが、机に残った。
不当だ、と思った。
今のは、不当だ。
けれど、何の法益が侵害されたのか、わたしには言葉にできなかった。
◆◇
夜。
透はソファに沈んでいた。
わたしは台所で、立ったままゼリー飲料を一本飲み干していた。
座って食べる時間が、いつからか惜しくなっている。
昼の苛立ちが、喉の奥に残っていた。
言ってやろう、と思った。
あれは良くなかった。
依頼者の前で言うことではない。
人を値段で見る言い方は、間違っている。
論理立てて。
冷静に。
証拠を示すように。
透の隣に座る。
言いかけた。
その前に、透がわたしの肩へ頭を乗せてきた。
「律子さんがいないと、俺、ダメなんだ」
ぽつん、と。
子どもが暗い部屋で親を探すような声だった。
「ほんと、ダメんだよ。律子さんだけなんだ」
喉の奥で、ちりっとしていたものが溶けた。
溶けていくのが、自分でも分かった。
氷が手のひらで形を失うみたいに、わたしの輪郭が、彼の重みのぶんだけぬるくなる。
必要とされている。
わたしを、必要としている。
団地で育って、きょうだいで唯一、士業の試験に合格した女。
あの家で、わたしだけが特別になれた女。
その特別を、この人は毎晩、確かめさせてくれる。
だから、いいのだ。
三十万も。
昼の言葉も。
依頼者が帰ったことも。
全部、この一言の前では損益相殺されてしまう。
わたしは透の髪に指を入れた。
「ダメじゃないよ。大丈夫」
甘くふやけた、自分の声を聞いた。
◆◇
透が風呂に入っているあいだに、わたしは彼のスマホを見てしまった。
見るつもりはなかった。
テーブルの上で、画面が光ったのだ。
通知が一件。
外字や英数字の並ぶ、SNS。
指が勝手に動いた。
わたしの意思ではない。
少なくとも、そういうことにしたかった。
彼の投稿が並んでいた。
知らない海。
知らない夕焼け。
知らない店の、グラス。
撮ったのは、いつだろう。
わたしと行っていない海だった。
その一枚の隅に、女の手が写り込んでいた。
細い指。
淡い色の爪。
わたしのものでは、絶対にない若い手。
心臓が、一度、大きく鳴った。
わたしは即座に反証を組み立てた。
たたまたま写り込んだ他人の手かもしれない。
店で隣り合っただけかもしれない。
撮影者の手ではない可能性もある。
この一枚だけでは、立証には足りない。
状況証拠が一つあるだけでは、心証は形成されない。
考えすぎ。
考えすぎだ。
画面を消した。
黒くなったガラスに、白い顔が映った。
わたしの顔だった。
血の気の引いた、よく知らない女の顔だった。
「考えすぎ」
口の中で、もう一度言う。
味のしない言葉だった。
◆◇
翌朝。
事務所で、昨日の男が置いていったメモを拾い上げた。
神宝町。
古書店。
相続。
受けるかどうか、まだ決めていない。
決めかねている自分が、めずらしかった。
あの男は、法律相談に来た。
わたしは、法律家として座っていた。
なのに帰した。
透の一言で。
その事実が、じわじわと胸の奥を汚していた。
住所の欄を目でなぞる。
「神宝町……聞いたことない街」
ひとりごとのつもりだった。
給湯室から戻ってきた事務員が、湯気の立つカップを置きながら言った。
「あそこ、変な噂ありますよ」
「噂?」
「ええ」
事務員は声を少し落とした。
「『気づかせ屋』っていうのが、いるんですって」
カップの湯気が、細く揺れた。




