第1話「勝訴のあとで」
第1話「勝訴のあとで」
判決主文を読み上げる裁判官の声は、いつも拍手に似ている。
原告の請求を認める。
離婚を認める。
慰謝料。財産分与。親権。
すべて、こちらの主張どおり。
完勝だった。
わたしは表情を変えない。
弁護士は、法廷で喜ばない。
喜ぶなら、廊下に出てからでいい。
法廷の空気は乾いていた。
書記官のキーボードが、かたかたと鳴っている。
被告席の男が、こちらを睨んでいるのが視界の端でわかった。
見ない。
見る価値のある目ではなかった。
わたしの準備書面に隙はなかった。
通帳の入出金。録音。診断書。日記。写真。LINEの履歴。
証拠は、積み木のように積み上げた。
一段ずつ。崩れないように。誰にも否定できない形で。
向こうは、最後まで崩せなかった。
立証責任を果たすとは、そういうことだ。
感情を、事実に変える。
傷を、証拠に変える。
人生を、裁判所が読める形式に並べ直す。
わたしは、それが得意だった。
隣で、依頼者の女性が肩を震わせていた。
四十二歳。
三人目の夫から十五年、言葉で殴られ続けた人だった。
初めて事務所に来た日、彼女は湯呑みを両手で包むように持っていた。
自分の手が何かをこぼすことまで、怖がっている手だった。
わたしは、その背中に手を添えた。
「終わりましたよ」
彼女は、まだ信じられないという顔で、わたしを見上げた。
「先生……わたし、これから、どうやって……」
その問いに返す言葉は、もう用意してある。
「大丈夫。あなたは、一人でも生きていけます」
彼女が泣いた。
声をあげて、子どもみたいに泣いた。
わたしはその涙を、勲章のように眺めた。
◆◇
エレベーターを待つあいだ、彼女は何度も頭を下げた。
「先生がいなかったら、わたし、あの家から一生出られませんでした」
「出られましたよ。あなたが出ると決めたから、わたしは勝てたんです」
謙遜の形をした、自慢だった。
わたしは、その言い方が好きだった。
彼女の夫は典型的だった。
外面はいい。妻には金を渡さない。
毎晩、「お前は何もできない」と刷り込む。
そうして、自分でドアを開ける力まで奪っていく。
調停の席で、わたしは内心、診断書を書くように見立てていた。
これは、共依存だ。
殴る側も、殴られる側も、相手なしでは立てなくなっている。
他人のそれは、面白いほどよく見える。
夫のDVから逃げてきたのに、半年後、同じ男のところへ戻ろうとした依頼者もいた。
わたしは彼女に言った。
「それ、共依存ですよ。あなたは殴られることで、必要とされていると感じている。手を離しましょう」
彼女は、はっとした顔をした。
涙ぐんで、何度も頷いた。
言葉ひとつで、人の鎖が見える。
どこが鎖で、どこが本人の手なのか。
わたしには、見える。
わたしは賢い。
わたしだけが、ここまで来た。
団地の四階。いちばん奥の部屋。
父は、わたしが八つのときに蒸発した。
母は昼にスーパーのレジ、夜に弁当工場で働き、わたしたちきょうだい四人を育てた。
夜中に帰ってくる母の、油の匂い。
兄は工場。
弟は職を転々。
姉は早くに家を出た。
士業の試験に合格したのは、四人のうち、わたしだけだった。
合格通知を見せた日、母は台所で、声を出さずに泣いた。
あの背中を、わたしは一生忘れない。
わたしだけが抜け出した。
その一点が、わたしの背骨だった。
四十六になった今も、それだけがわたしを立たせている。
◆◇
帰り道。
駅からマンションまでの坂を上る。
昼間、あれほど颯爽と歩いていたはずの足が、ここでは重い。
ふと、口から漏れた。
「……もう、いいかな」
何が「いい」のか、自分でも分からない。
言ったそばから、首を振る。
勝訴した日に、何を弱気になっているのだ。
ショーウィンドウに女が映った。
四十六。
スーツ。
それなりの肩書き。
それなりの靴。
それなりの顔。
ただ、顔色が悪い。
燃え残った灰みたいに白い。
わたしは、その女と目を合わせなかった。
◆◇
夜八時。
マンションのドアを開けると、テレビの音と、男の背中があった。
「おかえりー」
透はソファに沈んだまま、振り向きもしない。
手元のコントローラーだけが、かちゃかちゃと鳴っている。
「ただいま。お腹すいたでしょ」
法廷であれだけ通った声が、家では小さく掠れる。
まるで、別の人間が話しているみたいに。
返事は少し遅れてきた。
「腹減った。まだ?」
まだ、とは。
たった今、帰ってきたのだけれど。
わたしは、それを飲み込んだ。
冷蔵庫を開ける。
牛すじは、朝のうちに霜降りにして、生姜と一緒に煮込んである。
判決後の対応を頭の中で整理しながら、片手間に鍋の様子を見ていた朝だった。
火にかけ直す。
甘辛い湯気が立つ。
白いごはん。味噌汁。出汁巻き。小鉢を三つ。
よく冷えたビールも一本。
透は煮込み料理が好きだ。
だからわたしは、勝訴の朝でも起きて煮る。
彼の「うまい」の一言のために、二時間を惜しまない。
「できたよ」
透がようやく立ち上がった。
わたしの夫ではない男が、わたしの作った夕食を、おいしそうに食べる。
わたしは台所に立ったまま、ゼリー飲料を一本吸った。
立証責任は、いつもわたしにある。
この家で、わたしが必要だという証拠を、わたしが毎日、提出している。
そう思えば、立ったまま飲むゼリーも悪くなかった。
◆◇
透は十二歳下だ。
三十四。
何者でもない。
中身が透けて見えるくらい、何もない。
出会ったのは六年前。
くたびれたバーで、彼はわたしのグラスに向かって、ぽつりと言った。
「律子さんって、特別だよね」
その一言で、わたしはつかまった。
働かなくていい、と言ったのは、わたしのほうだ。
あなたは、あなたのままでいて。
そう言ったとき、わたしはそれを度量だと思っていた。
稼げる女の余裕だと思っていた。
箸を止めて、透が言う。
「律子さんがいないと、俺、ほんとだめだわ」
頬が、勝手にゆるむ。
わたしを必要としてくれる人。
ここまで来たわたしを、まるごと置いておける場所。
通帳の残高が、去年よりずいぶん減っているのは知っている。
知っているから、見ない。
見なければ、減っていないのと同じだ。
立派な弁護士の、立派な論理だった。
◆◇
食べ終えて、透が伸びをした。
「あのさ、律子さん。俺、来月から働くわ。マジで」
皿を下げる手が止まる。
「ほんと?」
「ほんと。知り合いに紹介してもらえそうでさ。だから、もうちょっとだけ」
わたしは笑った。
信じた、というより、信じたかった。
彼が脱いだジャケットを持ち上げる。
ハンガーにかけようとしたとき、ポケットから紙が一枚、ひらりと落ちた。
拾う。
細長い、薄い紙。
数字が印字されている。
パチンコ店のレシートだった。
今日の日付。
昼の時刻。
わたしは、それを見た。
見たのに、見なかった。
「ジャケット、しわになるよ」
そう言って、レシートをポケットに戻した。
他人の共依存は、面白いほどよく見える。
自分のだけが、どうしても見えない。
手首の腕時計が、かちりと鳴った。
母の形見の、安物だ。
文字盤が、少し曇っている。
◆◇
ベッドに入ると、透はすぐ寝息を立てた。
わたしは天井を見ていた。
今日、勝った。
あの女性は、一人でも生きていける。
わたしが、そう言ってあげた。
わたしは笑える。
わたしには、必要としてくれる人がいる。
隣で、透が寝返りを打った。
寝言が漏れる。
「……ん……ゆい、ちゃん……」
ゆい。
わたしの知らない名前だった。
わたしは目を閉じた。
聞き間違いだ。
空調の音だ。
そう、立証する。
反証は、明日考えればいい。
他人の鎖はよく見えるのに、自分の手だけは見えない。桐生律子という女の、その「見えなさ」から、この話は始まります。
彼女は燃えカスの守り人シリーズの一編、神宝町に流れ着く何人目かの依頼人です。同じ街を舞台にした別の人たちの話も、別作品として置いてあります。よければ、作者ページからどうぞ。
寝言の「ゆい、ちゃん」を、彼女はまだ空調の音だと立証しています。次から、その反証が始まります。




