第十話 失敗した人生なんてない
それから、二年が過ぎた。
桜の咲く季節に、直人は、ひさしぶりに、神宝町を訪れた。
二度目の挑戦で、直人は、教員採用試験に合格していた。今は、高校で、数学を教えている。
教師になって、はじめて受け持った、数学の授業。
ある午後のことだった。
いちばん後ろの席に、すっかり数学をあきらめている生徒が、ひとり、いた。
二次関数のグラフが、どうしても、つかめないという。
直人は、焦らなかった。
黒板に、放物線を一本描き、その生徒の机まで行って、いっしょに、ひとつずつ、たどっていった。
「ここが、こうなって。だから、ここで、こう曲がる」
その生徒の鉛筆が、ふと、止まった。
しばらく、じっと、グラフを見つめている。
それから。
「……あ、そういうことか」
その生徒が、顔を、上げた。
霧の晴れたような、その目。
あの研究室の後輩と、あの塾の因数分解の子と、まったく同じ目だった。
その瞬間、直人の胸の奥で、いつものように、何かが、まっすぐに立ち上がった。
(ああ、これだ)
(この一瞬のために、自分は、ここにいる)
二年前、あの四畳一間で言い当てられた、あの言葉。
人が、わかる瞬間。
それを、いまの直人は、毎日、生きていた。
あれから、健太との付き合いは、変わらず、続いている。
東京と地元と、離れてはいるが、帰省するたびに、こうして、二人で飲む。
合格を報告したとき、健太は、自分のことのように、げらげらと笑って、喜んだ。
そして、いつもの調子で、こう言った。
「ほら見ろ。外に出て、よかっただろ」
あの夜、くしゃくしゃのメモを差し出してくれた男は、いまでも、直人の、いちばん古い友人だ。
春。新しいクラスの、新しい生徒たち。
始業式の日、校庭の桜が、満開だった。
その桜を見上げたとき、ふと、あの卒業式の日の桜を思い出した。
あのときは、桜が、自分のためには咲いていない、と思った。
けれど、今年の桜は、なぜだろう、ほんの少しだけ、違って見えた。
ふと、美香のことを、思い出した。
あの春に、駅前の喫茶店で、静かに別れた人。
風の便りに、彼女が、遠い街で、所帯をもったと、聞いた。
それを聞いたとき、胸が痛まなかった、と言えば、嘘になる。
けれど、恨む気持ちは、ひとつも、わかなかった。
いちばん苦しかったとき、長いあいだ、隣にいてくれた。
それだけで、じゅうぶんだった。
彼女の春が、どこかで、ちゃんと咲いていればいい。
いまは、心から、そう思える。
失ったものを、失ったままで、それでも、恨まずにいられる。
そうなれたこと自体が、たぶん、この二年という時間の、答え合わせのひとつだった。
その、教師として迎えた最初の桜を見送ってから、直人は、電車に乗った。
神宝町の、あの路地。煤けた、雑居ビル。
ジオンの部屋は、二年前と、何ひとつ変わっていなかった。
四畳一間。物がない。うっすらと漂う、煙草の匂い。
そして、あの日とまったく同じように、貧しい部屋には不釣り合いな、きちんとしたスーツとネクタイ。
二つ歳を取っても、この男の身なりだけは、変わらず律されていた。
「ごぶさたしてます」
直人がそう言うと、ジオンは、伏せた目のまま、軽くうなずいた。
直人のことを覚えているのか、いないのか。それすらわからない、薄い反応だった。
直人は、椅子に腰を下ろし、これまでのことを報告した。
無事に教師になれたこと。はじめて受け持った生徒たちのこと。
いちばん手のかかる生徒のこと。職員室での、小さな失敗のこと。
話しながら、直人は、自分でも、気づいた。
二年前、この部屋で、絶望ばかりを並べていた自分が。
いまは、生徒たちの話を、ひとつでも多く聞いてほしくて、前のめりになっている。
ジオンは、あいかわらず、伏せた目のまま、ただ静かに、それを聞いていた。
あの日と、同じ姿勢で。
ただ、聞く側と話す側の、心の重さだけが、すっかり、入れ替わっていた。
それから、直人がぽつりと、言った。
「あの内定取り消しが、ずっと、自分の人生で最悪の日だと、思ってました」
ジオンは、ふっと、口の端だけで笑った。
「まあ。人生、後ろ向きにしか、答え合わせできませんからね」
後ろ向きにしか、答え合わせができない。
その言葉を、直人は、心の中で、そっと繰り返した。
「あれがなかったら」
直人は、続けた。
「俺、今の仕事、してません。あの子たちにも、会ってない」
「最悪だと思ってた日が、結局、いちばん大事な日でした」
ジオンは、何も言わずに、煙を吐いた。肯定も、否定も、しなかった。
ただ、ほんの少しだけ、目元がやわらいだような気が、した。
「ありがとうございました」
直人は、深く頭を下げた。
「じゃあ」と立ち上がり、ドアを開ける。外は、すっかり春だった。
直人は、新学期の、桜の方へと、帰っていった。
部屋に、ジオンひとりが、残された。
灰皿の上で、指のあいだの煙草の灰が、長く伸びていた。
まだ、客もろくにいない。自分が本物かどうかも、わからない。まだ、何者でもない、四畳一間の若い男。
ジオンは、誰にともなく、ぽつりと呟いた。
「ぼくも……」
ひと呼吸、おいて。
「そうだと、いいんですけどね」
あの時は、失敗だと思った。
それが、ほんとうに失敗だったのかどうかは、ずっと後ろを向いて、ようやくわかる。
直人の答え合わせは、終わった。
ジオンの答え合わせは、まだ、何ひとつ、終わっていない。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。『失敗した人生なんてない』は、たぶん少しだけ嘘です。正しくは――『あの時は、失敗だと思った』。本当に失敗だったかどうかは、ずっと後ろを向いて、ようやくわかる。そういう話でした。この結末がどこかに残ってくれたなら、★での評価をいただけると、とても励みになります。一話ずつの積み重ねが、この物語をいちばん遠くへ運んでくれます。そして、答え合わせがまだ終わっていないジオンのその後は、『燃えカス外伝』もよろしくでーす ^^) _旦~~




