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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
内定取り消し

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第八話 遠回り


 結局、ジオンは、最後まで、何ひとつ決めてはくれなかった。


 ああしろ、こうしろ、とは、一度も言わなかった。


 ただ、直人が帰りぎわに立ち上がったとき、その背中に向かって、ぼそりとひとことだけ、投げかけた。


「遠回りに見える道ほど、たいてい、その人の道ですよ」


 それだけ、だった。


 帰りの電車の中で、直人は、ずっとその言葉を、転がすように考えていた。


 人が、わかる瞬間。設計ではなく、その瞬間が好きなのだと、あの男は言った。


 ずいぶん、迷った。今さら進路を変えるなんて、と。まわりはもう、とっくに社会人だ。


 それでも、あの日言われてからふいによみがえった、あの胸のあたたかさが、どうしても忘れられなかった。


 心を決めて、直人は、まず、両親に話すことにした。


 メーカーをあきらめて、教師を目指す。今から、教員免許を取り直す。


 言えば、また、甘えるな、と言われるかもしれない。


 二十四にもなって、何を世迷いごとを、と。


 その晩、直人は、夕食のあとの食卓で、思いきって、切り出した。


 母は、箸を止めて、心配そうに、直人の顔を見た。


 父は、いつものように、黙って、コップの酒を口に運んでいた。


 話し終えても、しばらく、誰も、何も言わなかった。


 台所の時計の音だけが、こつ、こつ、と鳴っていた。


 やがて、父が、コップを置いた。


「……教師か」


 ぼそりと、それだけ言った。


 直人は、身構えた。


 次に来る言葉が、甘えるな、であることを、半ば、覚悟していた。


 けれど、父の口から出たのは、ちがう言葉だった。


「それは、内定を取り消されたから、逃げて選んだ道か」


 責める口調では、なかった。


 ただ、ほんとうのところを、確かめようとしていた。


 直人は、すこし考えてから、首を横に振った。


「ちがう。……逃げじゃ、ない」


「人にものを教えてるときの自分が、いちばん、まともでいられる気がするんだ」


 言葉にしてみて、はじめて、それが自分の本心だと、はっきりわかった。


 父は、しばらく、直人の目を見ていた。


 それから、ふっと、息をついた。


 あの内定の晩、台所でひとり酒を飲んでいたときと、同じ息のつき方だった。


「なら、いい」


 父は、それだけ言って、また、コップに手を伸ばした。


「金のことは、しばらくなら、なんとかする。やってみろ」


 口の重い父が、その晩、口にした言葉は、それだけだった。


 けれど、直人には、じゅうぶんだった。


 甘えるな、と、父は言わなかった。


 あれほど大勢の人に言われ続けたその言葉を、いちばん言われると思っていた父だけが、最後まで、言わなかった。


 母は、台所の隅で、こっそりと、目元をぬぐっていた。


 直人は、教員免許を取るために、動きはじめた。


 大学に、科目等履修生として通い直し、足りない単位を、ひとつずつ埋めていった。


 昼はその勉強に充て、夜は、学習塾で講師のアルバイトをした。


 はじめて子どもたちの前に立った日、直人は、自分でも驚くほど、緊張しなかった。


 むしろ、教室に立つと、不思議と、息がしやすくなった。


 不採用通知の前では、あれほど縮こまっていた自分が、ここでは、まっすぐに、立っていられた。


 生活は、苦しかった。わずかな貯金は、みるみるうちに減っていった。


 同級生たちは、もう初任給やボーナスの話をしている。それなのに、自分だけが、また学生のような暮らしに逆戻りしていた。


 遠回り。


 その言葉の意味を、直人は、毎日、噛みしめた。


 ほんとうに、これでいいのか。その不安は、いつまでたっても、消えなかった。


 恋人は、もう、いなかった。


 あの春に、駅前の喫茶店で、静かに別れていた。


 携帯には、まだ、美香の連絡先が残っていた。


 けれど、その名前が画面に灯ることは、もう、何か月も、なかった。


 あのとき、引きとめる言葉を、直人は、持っていなかった。


 待っていてほしい、とは、どうしても、言えなかった。


 いつ実るとも知れない遠回りに、人ひとりの時間を、巻きこむわけには、いかなかった。


 それは、未練がないからでは、ない。


 むしろ、未練しか、なかった。


 ただ、もう、誰かに嘘だけは、つきたくなかった。


 だから直人は、その遠回りを、ひとりで歩くと、決めた。


 けれど。


 ある夜のことだった。


 塾の、小さな教室。直人は、ひとりの中学生に、数学を教えていた。


 何度やっても、因数分解が解けない子だった。わからない、と言っては、すぐに鉛筆を投げ出そうとする。


 直人は、焦らなかった。いっしょに、ひとつずつ、式をほどいていった。


 ここを、こうして。次は、これをまとめて。


 その子の鉛筆が、ふと、止まる。しばらく、じっと考え込む。


 それから。


「あ……わかった」


 その子が、ぱっと顔を上げた。


 さっきまで曇っていた、その目。霧の晴れたような、その目。


 その瞬間。


 直人の胸の奥で、何かが、まっすぐに立ち上がるのを感じた。


 ああ、これだ。


 仕事って、こんなに、楽しかったのか。


「先生、ありがとう」


 その子が、照れたように笑った。


 ありがとう、なんて。直人にとっては、長いあいだ、言われ慣れない言葉だった。


 けれど、その、たったひとことを。


 直人は、あの内定通知をもらった日よりも、ずっと深いところで、覚えていた。


 あの一枚の封筒は、結局、未来をくれなかった。


 でも、この「ありがとう」は。


 たしかに今、この手の中に、あった。


 帰り道、夜道を歩きながら、直人は、ふと、空を見上げた。


 就職活動のころは、夜空を見上げる余裕など、一度もなかった。


 星が、いくつか、出ていた。


 遠回りに見える道ほど、その人の道。


 あの四畳一間で言われた言葉が、いまになって、すこしずつ、体の芯まで、しみてきていた。


 派手な逆転は置きませんでした。因数分解がひとつ解けた!みたいな、それだけの夜です。でも直人には、内定より大きかった。ここから彼の二年が始まります。最後まで、見届けてやってください。

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