第六話 同じ側
ジオンは、まず、何も言わずに、直人の話に耳を傾けた。
直人は、ぽつり、ぽつりと、これまでのことを話した。
桜の咲く前に、内定が取り消されたこと。あれからずっと、不採用ばかりが続いていること。
会う人みんなに、甘えるな、と言われたこと。そして、ある夜、消えたい、と思ってしまったこと。
話しているうちに、自分でも驚くほど、次から次へと言葉が出てきた。
これまで、誰にも、ちゃんと最後まで聞いてもらえなかったからかもしれない。
甘えるな、と言った就職課の職員のこと。
いい経験だと思え、と言った恩師のこと。
次はどうするんだ、と静かに尋ねた、父の背中のこと。
近所じゅうに自慢して、それを取り消せずにいる、母の声のこと。
そして、駅前の喫茶店で、最後に薄く笑った、美香のこと。
ひとつ話すたびに、胸の底に溜まっていた澱が、すこしずつ、形をもって、外へ出ていく気がした。
ジオンは、その澱を、ひとつも、せきとめなかった。
ただ、伏せた目のまま、直人の言葉の、いちばん下の段にあるものを、静かに掬いとっているようだった。
ジオンは、相槌すら、ほとんど打たなかった。
ただ、伏せた目のまま、じっと、直人の声を聞いていた。
その静けさが、はじめのうちは、ありがたかった。
けれど、話しているうちに、直人は、だんだん腹が立ってきた。
淡々と聞かれれば聞かれるほど、自分の絶望が、軽く扱われているような気がしてきたのだ。
この男に、いったい何がわかる。
ちゃんとした身なりをして、こうして自分の城まで構えて、涼しい顔で人の相談を聞いている、この男に。
「……あんたみたいな人には」
気づくと、直人は、吐き出すように言っていた。
「わからないでしょう。全部、順調にきた人には」
「足元が、底から抜けるって、どういうことか」
一度あふれた言葉は、もう、止まらなかった。
「毎朝、起きても、行く場所がない。誰からも、必要とされていない」
「自分なんて、いっそ最初から、いなければよかった」
「そんなこと、考えたこと、ありますか。一度でも」
声が、みっともなく、裏返った。
言ってしまってから、しまった、と思った。
相談に来たはずなのに、これではただの八つ当たりだ。
けれど、ジオンは、怒らなかった。
むしろ、その言葉が出てくるのを、待っていたようにすら見えた。
ゆっくりと煙草に火をつけ、細く煙を吐いて、しばらく黙る。
それから、彼は静かに言った。
「いや。わかりますよ」
目は、伏せたままだった。
「ぼくも、つい去年まで、潰されてました。会社に」
直人は、思わず顔を上げた。
「新卒で入った会社が、とんでもないところでね。毎日、終電。休みもない」
「人格をまるごと否定されるのが、仕事みたいなところでした」
「上司の機嫌ひとつで、その日の生き死にが、決まる。そんな毎日でした」
「気がつくと、自分が何を考えていたのかすら、思い出せなくなっていました」
「三年。毎朝、駅のホームに立つたびに、思ってましたよ。ひとあし踏み出せば、楽になるな、って」
淡々と。
ピシッとネクタイを締めたその男が、それを口にした。
言葉の重さと、涼しい横顔とが、まるで釣り合っていなかった。
「結局やめて、こうして自分の城を構えた。でも、城っていっても、見ての通り、この四畳一間ですよ」
「やめると言ったとき、親には、それこそ、甘えるな、と言われましたよ」
ジオンは、口の端で、すこしだけ笑った。
「だから、その言葉だけは、ぼくは、人に言わないと決めてるんです」
「客なんて、ほとんど来ません」
ジオンは、狭い部屋を、軽く見回して、笑った。
「来ても、全員、人生詰みかけです」
「ぼくが本物かどうか、正直、ぼく自身、まだわからないんです」
軽い口調だった。まるで、天気の話でもするような。
なのに、その言葉は、直人の絶望と、ちょうど同じ重さで、同じ側に、そっと置かれていた。
対岸から、えらそうに説教をする男ではなかった。
同じ、底の見えない川の、こちら側に立っている男だった。
そう気づいたとき、直人の胸の奥で、ぴんと張りつめていた何かが、ほんの少しだけ、ゆるんだ。
「だから」
ジオンは、言った。
「対岸から、言ってるわけじゃ、ないですよ」
直人は、もう、何も言えなかった。
ただ、さっきまでの怒りが、いつのまにか行き場を失って、静かにほどけていた。
しばらく、ふたりのあいだに、沈黙が落ちた。
窓の外で、夕方の商店街が、ことことと、小さな音を立てている。
「……どうして」
直人は、ようやく、声を絞り出した。
「どうして、あんたは、こんな仕事を」
ジオンは、すぐには答えなかった。
灰皿の縁で、煙草の灰を、とん、と落とす。
「さあ。ぼくにも、まだ、よくわからないんですよ」
はぐらかすような口ぶりだった。
「ただ、駅のホームで、もうだめだと思ったとき」
「誰かひとりでいいから、対岸じゃない場所から、声をかけてほしかった」
「それだけは、覚えてるんです」
それ以上は、ジオンは、語らなかった。
語らないことのほうが、よほど、雄弁だった。
この男もまた、同じ川の、底の見えない水を、覗き込んだことがある。
直人には、それが、もう、疑いようも、なかった。
「向いてない」は、突き放しではありません。いちばん近くで見ていないと、言えない言葉です。彼のあの目を覚えてしまった方は、ほかの神宝町の話や外伝へ。同じ目で、別の誰かを救っています。




