第四話 空白
卒業して、直人は、実家に戻った。
四年間住んだひとり暮らしのアパートは、引き払った。
家賃を払い続ける理由が、もう、どこにもなかったからだ。
最後に大家へ鍵を返したとき、この部屋からまっすぐ社会人になっていくはずだったのに、と思った。
そう信じて疑わなかった半年前の自分が、今となっては、ひどくばかみたいに思えた。
実家の、自分の部屋は、何ひとつ変わっていなかった。
中学のころのままの勉強机。日に焼けて色のあせた時間割。壁に貼りっぱなしの、古いポスター。
まるで、その部屋の中だけ、時間が止まっているようだった。
変わってしまったのは、そこへ戻ってきた、自分だけだった。
もう「卒業生」でも「内定者」でもない。何の肩書きも持たない、ただの人間。
無職。
その二文字が自分のことを指しているのだと、直人は、なかなか認められなかった。
それでも、毎朝、決まった時間に、目だけは覚めた。
体のほうが、まだ、学生だったころの習慣を覚えていた。
けれど、起き上がって出かけていく場所が、どこにもなかった。
パソコンを開く。求人サイトを開く。希望条件を入力して、応募する。
不採用。
新卒の枠は、もうとっくに締め切られていた。
かといって、中途採用で胸を張れるような経験も、何ひとつなかった。
履歴書の職歴の欄には、書くことが、何もない。
ぽっかりと空いたその欄が、まるで自分そのもののように、直人には見えた。
ごくまれに、面接までこぎつけることもあった。
けれど、そういうときは、決まって同じことを聞かれた。
「前の内定先は、どうして辞退なさったんですか?」
(辞退じゃ、ありません。内定取り消しでした)
そう正直に答えるたびに、相手の顔が、ほんの少しだけ、曇った。
その小さな曇りを、直人は、何度も、何度も、見せられた。
取り消されたのは会社の都合のはずなのに、まるで自分のほうに、何か欠陥でもあるみたいに。
いつのまにか、それは、はっきりとした自分の傷になっていた。
お前は要らない、と。
世の中ぜんぶから、そう言われているような気がした。
不採用。
不採用。
不採用。
不採用。
届く通知は、どれも、判で押したように丁寧な言葉で書かれていた。
『今後のご活躍を、心よりお祈り申し上げます』
お祈り、という言葉を、直人はいつしか、嫌いになった。
活躍など、自分にできる気が、まるでしなかったからだ。
やがて、求人サイトを開くこと、そのものが、こわくなっていった。
開けば、また、お前はどこにも要らない、と書いてある。
応募すれば、また、あの曇った顔が、どこかで待っている。
マウスのカーソルが、応募ボタンの上で、止まったまま、動かなくなる。
結局、何もしないまま、ブラウザを閉じる。
閉じても、当たり前のように、何ひとつ始まらなかった。
両親も、半年が過ぎるころには、だんだん何も言わなくなった。
最初のうちは、焦らなくていい、お前のペースでいい、と励ましてくれていた。
けれど、その励ましの言葉も、いつのまにか、消えていた。
まるで腫れ物に触るように、両親は、直人の部屋の前を、足音を忍ばせて通り過ぎる。
その遠慮のにじんだ足音のほうが、どんな励ましの言葉よりも、ずっと重たかった。
友人の健太からは、東京から、ときどき連絡が来ていた。
今度帰ったら飲もう、とか。そっちはどうだ、とか。
はじめのうちは、直人も、当たり障りのない返事をしていた。
けれど、だんだん、その短いメッセージを開くことすら、おっくうになっていった。
元気にやっている健太に、いまの自分の何を話せばいいのか、わからなかった。
無職で、毎日ただ天井を見ている。
そんな現状を、まぶしい場所にいる友人に、どうしても打ち明けられなかった。
既読のまま、返事をしない日が、増えた。
やがて、直人は、健太からの連絡そのものを、そっと避けるようになった。
心配してくれているのは、わかっていた。
わかっていて、なお、その心配が、重かった。
いちばん遠ざけたくない相手まで、自分の手で、遠くへ押しやってしまう。
そうやって、直人の世界は、また少し、狭くなった。
美香からの連絡も、少しずつ、減っていった。
どちらが悪い、というわけでは、なかった。
ただ、たがいに話せることが、なくなっていったのだ。
直人には、報告できるような前進が、何ひとつなかったから。
(元気にしてる?)という短いメッセージに、「うん」とだけ返す。
その繰り返しが続き、やがて、そのやりとりさえ、間遠になっていった。
一度だけ、ふたりは、ちゃんと会った。
いつもの、駅前の喫茶店だった。
向かい合って座っても、どちらも、なかなか言葉が出てこなかった。
以前なら、いくらでも話すことが、あったはずなのに。
コーヒーが、ゆっくりと冷めていった。
先に口を開いたのは、美香だった。
「直人くんは、悪くないよ」
うつむいたまま、美香は、そう言った。
「ほんとに、悪くない。……でも」
その先を、美香は、言わなかった。
言わなくても、直人には、わかってしまった。
もう、これ以上は、たがいに、支えきれない。
責めるでも、なじるでもなく、ただ、静かに、力が尽きていた。
「うん」
直人は、それだけ言った。
「今まで、ありがとう」
不思議と、声は、震えなかった。
怒りも、恨みも、わいてこなかった。
ただ、長いあいだ隣にいてくれた人が、ゆっくりと、手の届かないところへ離れていく。
それを、黙って見ているしか、なかった。
美香は、最後に、少しだけ、笑った。
あの内定を伝えた夜、自分のことのように喜んでくれた、あの笑顔の、ずっと薄くなった名残だった。
店を出て、ふたりは、反対の方向へ歩いた。
一度も、振り返らなかった。
それが、ふたりの、終わりだった。
空白だけが、毎日きちんと、二十四時間ぶん、直人のもとに届いた。
壁のカレンダーの数字だけが、律儀に進んでいった。
季節がひとつ、まるごと過ぎ去っても。
直人は、まだ、その部屋の中に、いた。
「不採用」を四回だけ続けて書きました。本当は96ぐらい続くのですが、読むのもつらいので四回でやめました。よければブックマーク押してやってくださいま。




