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燃えカスの守り人  作者: K3
地鎮

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第二話 甘えるな


 封筒が届いた翌日から、直人は、何日も部屋から出られなかった。


 布団にくるまったまま、ただ天井の木目を、ぼんやりと眺めていた。


 時計の針が進む、かちかちという音だけが、やけに大きく耳についた。


 食欲も、わかなかった。


 母が黙って枕元に運んでくる食事に、ほとんど箸をつけられないまま、また布団に潜り込んだ。


 それでも、報告だけは、しないわけにいかなかった。


 内定先への連絡は、大学を通して手続きをする決まりになっていたからだ。


 重い体を引きずるようにして、直人がいちばん最初に向かったのは、大学の就職課だった。


 窓口で、取り消しの通知を差し出すと、応対した職員は、短く息を吸い込んだ。


「気の毒に……」と、その人は言った。


 その一瞬だけは、ほんとうに、気の毒そうな顔をしていた。


 けれど、すぐに、見慣れた事務的な表情へと戻ってしまった。


「こういう例はね、今年は、君だけじゃないんだよ」


「不景気だから。どこの会社も、苦しいんだ」


「気持ちを切り替えて、また次を探そう。ね」


 切り替えて。


 その軽いひとことが、直人には、どうしても飲み込めなかった。


 切り替えるといっても、四年かけてやっと掴んだものを、いったいどうやって。


 その問いだけが、胸の中で、行き場をなくしていた。


 世話になったゼミの教授にも、直人は事情を報告した。


 恩師は、腕を組んでしばらく考え込んでから、ゆっくりと口を開いた。


「まあ、社会に出れば、理不尽なことなんて、それこそ山ほどあるからな」


「これも、いい経験だと思っておけばいい」


「あんまり、甘えるなよ」


 甘えるな。


 その言葉を、直人は、そのとき初めて、まともに浴びた。


 そして、これから先しばらく、いろんな人の口から、まったく同じ言葉を、何度も聞かされることになる。


 数日して、直人は、重い気持ちのまま、実家にも帰った。


 駅の改札の外で、母が待っていた。


 直人の顔を見るなり、母は、言葉に詰まってしまった。


 あれほど近所じゅうに電話をかけて自慢してまわった声を、今度はいったい、どう取り消せばいいのか。


 その戸惑いだけが、迎えに来た母の顔に、貼りついていた。


 ごめんね、とも、大丈夫よ、とも言えないまま、母はただ、直人の鞄を持とうと手を伸ばした。


「いいよ」と、直人は小さく断った。


 その夜の食卓は、いつになく静かだった。


 味噌汁をすする音だけが、台所に低く響いていた。


 やがて、父が、箸を置いて、ぼそりと言った。


「……次は、どうするんだ」


 責めるような口調では、なかった。


 ただ淡々と、事実だけを、確かめるように尋ねただけだった。


 なのに、直人には、それが、いちばんこたえた。


 次。


 その「次」が、どこを見渡しても、見えなかったからだ。


「まだ、わからない」


 そう答えるのが、やっとだった。


 父は、それ以上は、何も聞かなかった。


 黙ったまま、コップに酒を注いだ。


 あの内定の晩に、嬉しそうに封を切った、上等な酒の残りだった。


 瓶は、もう半分以上、減っていた。


 あれを父は、自分が大学にいるあいだ、どんな気持ちで飲んでいたのだろう。


 今はもう、祝いの酒ではなく、ただ何かを薄めるように、ちびちびと口に運んでいた。


 親戚からも、見舞いのつもりらしい電話が、かかってきた。


「災難だったなあ」


「でも、まあ、こういうご時世だ。みんな苦しいんだよ」


「会社だって、好きで取り消したわけじゃ、ないだろう」


「人間万事塞翁が馬、って言うだろう。今に、いいこともあるさ」


「はい……。はい……」


 直人は、ただ相槌だけを、繰り返していた。


 誰ひとり、悪意なんて、持っていなかった。


 みんな、よかれと思って、言葉をかけてくれていた。


 そのことが、かえって、いちばん苦しかった。


 もし、はっきりと悪い誰かがいてくれたなら、その相手を恨むことくらいは、できた。


 けれど、怒りをぶつける相手は、どこを探しても、いなかった。


 みんな、正しかったからだ。


 甘えるな。


 みんな苦しい。


 誰も悪くない。


 言われたことは、ぜんぶ、その通りだった。


 ただ、ひとつだけ。


 誰も。


 怖い、とだけは、言わせてくれなかった。


 来月から、自分がどこにも所属していないこと。


 毎朝、起きる理由が、ひとつもなくなってしまうこと。


 あれほど弾んでいた母の自慢が、まるごと嘘になってしまうこと。


 美香の前で、もう二度と、胸を張れないこと。


 その、足元が音もなく抜け落ちていくような感覚を、誰ひとりとして、聞こうとはしてくれなかった。


 切り替えろ、と、みんなが口をそろえて言った。


 でも、切り替えた先に立つべき場所が、直人にはどこにもなかった。


 美香にも、会った。


 いつもの、駅前の喫茶店。


 美香は、努めて明るくふるまってくれた。


「直人くんなら、大丈夫だよ」


「次は絶対、もっといいところが見つかるって」


「うん」と、直人はうなずいた。


「ありがとう」とも、言った。


 けれど、その「大丈夫」も、やっぱりどこか、薄いガラス一枚ぶん、遠かった。


 その夜。


 直人は、布団の中で、生まれて初めて、はっきりと、こう思った。


 死にたい、わけじゃない。


 死ぬのは、こわい。


 そうじゃ、なくて。


 消えたい。


 いっそ最初から、自分なんて、いなかったことになりたい。


 そうすれば、母も、父も、美香も。


 誰も、恥をかかずに済む。


 誰も、悲しまずに済む。


 そこまで考えて。


 そんなことを考えている自分自身に、直人は、いちばん、ぞっとした。


 「甘えるな」と言った人たちに、悪意はありませんでした。たぶん、それがいちばん苦しいところです。今日はこの回に、お願いごとは置きません。ここまで読んでくださっただけで、じゅうぶんです。


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