第一話 桜が咲く前に
その年は、桜がなかなか咲かなかった。
三月の半ばを過ぎても、街路樹の枝は、固い蕾を結んだまま、灰色の空へ突き出していた。
山田直人は、アパートの窓から、その枝を見上げるのが好きだった。
もうすぐだ。
あの蕾が、いっせいにほどける。
そのころには、自分の人生も、ちゃんと始まっているはずだった。
地方の、国立大学。
機械工学科の、四年生。
決して、器用な学生ではなかった。
要領のいい同期が、さっさと内定を決めていくなか、直人は何社も落ちた。
筆記で落ち、面接で落ち、最終で落ちた。
四十社を超えたあたりから、数えるのをやめた。
いちばんこたえたのは、ある最終面接だった。
志望動機を聞かれて、頭が真っ白になった。
好きだ、という気持ちだけが先に立って、言葉が、何も出てこなかった。
帰りの電車で、窓に映った自分の顔を、直視できなかった。
それでも、諦めなかった。
子どものころから、機械が好きだった。
歯車が、決められた順番で、決められた仕事をする。
その正しさが、世界のどんな理不尽よりも、ずっと信じられた。
だから、機械をつくる会社に、どうしても入りたかった。
最後の最後で、その願いは、かなった。
誰もが名前を知っている、大きな機械メーカー。
内定の電話が鳴ったのは、去年の初夏だった。
受話器の向こうの声が「採用」と言った瞬間、直人は、アパートの廊下に、ずるずるとしゃがみ込んだ。
膝に、力が入らなかった。
「受かった……」
「やっと、受かった……」
その晩、実家に電話をかけた。
母は、最初、言葉にならなかった。
ただ、受話器の向こうで、ずっと、泣いていた。
それから、人が変わったように、動きはじめた。
近所じゅうに、電話をかけてまわったのだ。
「うちの直人がね」
「ええ、あの、誰でも知ってる会社」
「いえいえ、本人はのんびりした子で」
商店街の八百屋にも、隣の奥さんにも、めったに会わない親戚にも。
母の声は、何年ぶりかに、弾んでいた。
父は、何も言わなかった。
昔から、口の重い人だった。
ただ、その晩だけ、いつもより一段高い棚の酒を買って帰ってきて、台所で、ひとり、静かに飲んでいた。
コップを傾けるたび、ふっ、と息をつく音だけが、聞こえた。
それが、父なりの、祝いの形だった。
恋人の美香とは、大学のサークルで出会って、三年になる。
就職活動のあいだ、直人がいちばん荒れていた時期も、彼女はずっと隣にいてくれた。
不採用が続いて、八つ当たりのように黙り込んだ夜も、怒らなかった。
ただ、温かいお茶を、黙って机に置いてくれる人だった。
内定を伝えると、美香は、自分のことのように喜んだ。
「やったね」
「ほんとに、やったね」
笑いながら、少しだけ泣いていた。
その週末、ふたりで、安い居酒屋に行った。
乾杯のあと、美香が、ぽつりと言った。
「これで、やっと、直人くんが笑うね」
そう言われて、はじめて気づいた。
自分がこの一年、ろくに笑っていなかったことに。
配属先は、まだわからなかった。
けれど、ふたりで地図を広げて、知らない街の名前を、指でなぞった。
「あの街かもしれない」
「この街かもしれない」
「どこへ行っても、追いかけるから」
美香は、そう言ってくれた。
人生が、始まるはずだった。
四月から、社員寮に入る。
研修があって、配属があって、はじめての名刺を持つ。
最初の給料で、両親に、何かを贈ろうと思っていた。
母には、軽いショールを。
父には、いつもの安酒ではない、ちゃんとした酒を。
そういう当たり前の未来が、もう、手のなかにある気がしていた。
その手から、それは、音もなく、こぼれ落ちた。
二月の終わりごろから、ニュースで、いやな言葉を何度も聞くようになった。
景気の、冷え込み。
大手の、採用見直し。
はじめは、よその国の話のように聞いていた。
自分には、関係ないと。
同じ内定先の同期から、一度だけ、短いメールが来た。
「――なんか、不穏な噂、聞いた?」
直人は、気のせいだ、と返した。
返しながら、指先が、わずかに冷たくなっていた。
夜、布団の中で、何度もニュースサイトを開いた。
自分の会社の名前を、検索した。
何も、出てこなかった。
出てこないことが、かえって、こわかった。
大学の就職課に相談に行っても、はっきりした答えはなかった。
「大丈夫だと思いますよ」と、職員は目を合わせずに言った。
その「思いますよ」が、やけに長く、耳に残った。
だが、桜の咲く前に、最後の封筒が届いた。
集合ポストから抜き取った瞬間、わかった気がした。
白い、事務的な封筒だった。
会社のロゴが、隅に小さく刷られていた。
角が、きっちりと折られていた。
なぜか、封を切る指が、少しだけ、もたついた。
中の紙は、一枚きりだった。
『拝啓 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます』
形式ばった挨拶の、すぐあとに、それはあった。
『誠に遺憾ながら』
そこから先は、何度読んでも、頭に入ってこなかった。
経済情勢。
やむを得ぬ事情。
慎重に検討を重ねた結果。
言葉の上を、目だけが、何度も滑っていった。
意味だけが、つかめなかった。
いや。
ほんとうは、わかっていた。
たった一行に、すべてが書いてあった。
内定取り消し。
部屋が、しん、と静かになった。
自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。
直人は、その場に座り込んだまま、動けなかった。
どれくらい、そうしていただろう。
気づくと、部屋は、すっかり暗くなっていた。
電気をつける気にも、なれなかった。
天井の木目を、ただ、見ていた。
壁の向こうから、どこかの家のテレビの音が、ぼんやりと聞こえてくる。
笑い声の起きる、バラエティ番組。
世界は、何も変わっていなかった。
変わったのは、自分の手のなかの、一枚の紙だけだった。
社員寮は、ない。
名刺も、ない。
最初の給料も、ショールも、ちゃんとした酒も。
ぜんぶ、なかったことに、なった。
ポケットの中で、携帯が震えた。
母からだった。
出られなかった。
なんと言えばいいのか、わからなかった。
近所じゅうに電話をかけてまわった、あの弾んだ声に。
窓の外で。
蕾は、まだ、固いままだった。
咲くのを、待っている。
直人の春だけが、咲く前に、終わっていた。
読んでくださってありがとうございます。内定取り消しそのものより、あの一通で人生が止まったと感じた人が、その後どこへ行くのか――それだけを書こうと思っています。直人の行き先が気になったら、ブックマークで静かに見届けてやってください。




