第107話 地鎮(9)
第九章「地鎮」
崩れた佐藤さんに、わたしはゆっくり話した。
「この会社が助かる道は、ひとつだけです」
掘るのをやめる。
社長の死を公にする。
出されなかった骨を、ちゃんと弔う。
それだけだ。
むずかしい呪文も、派手な祓いも要らない。
要るのは、見ないふりをやめることだった。
「でも、それを決めるのは、わたしではありません」
わたしは陰陽師だ。
霊は祓える。
穴も納められる。
けれど会社は救えない。
違約金も雇用も、わたしにはどうにもできない。
それは生きている人間の領分だ。
陰陽師が踏み込んでいい線を、わたしは知っている。
お父様に、いちばん厳しく仕込まれたのが、そこだった。
視えるからといって、人の人生まで、決めてはいけない。
「決めるのは、あなたたちです」
◆◇
佐藤さんは、長いこと黙っていた。
違約金のこと。
何百人の暮らしのこと。
一族の体面のこと。
三年抱えてきたものが、いっぺんに肩にのしかかる。
決めれば、ぜんぶ自分の責任になる。
逃げ場はもうない。
死んだ社長の名前は、もう使えない。
言い出せば、会社は傾くかもしれない。
誰かに恨まれるかもしれない。
けれどこのまま掘れば、もっと多くのものが、地面の下へ引かれていく。
川村さんのように。
佐藤さん自身のように。
どちらの道にも、痛みがある。
ただ、片方の痛みだけが、人を、人のままにしておいてくれる。
それでも佐藤さんは、顔を上げた。
机に向かう。
紙を一枚、引き寄せる。
判子には、手を伸ばさなかった。
代わりに、ペンを取った。
震える手で、一行、書く。
工事を、一時中止する。
現場監督、佐藤。
判子では、なかった。
署名だ。
生きた人間の、自分の名前。
三年ぶりに、この会社で、生きている誰かが、自分の名で、何かを決めた。
その瞬間。
会社じゅうに満ちていた「続けろ」の圧が、ふっとゆるんだ。
糸が一本、切れる音がした。
社員たちが、きょとんと顔を見合わせる。
胸のざわつきが、急に消えたらしい。
それまで自分たちを急かしていたものの正体に、まだ誰も気づいていない。
それでいい。
気づかなくて、いい。
◆◇
工事は、止まった。
わたしは最後に、もう一度、地下へ降りた。
今度は、祓うためではない。
送るためだ。
封の壁の前に、符を並べる。
けれどもう塞ぐためには組まない。
開けて、迎えて、送り出すために組む。
地鎮。
土地を鎮め、迷う者を、あるべき場所へ還す。
家業のいちばん初めに習う、いちばん大事な作法だった。
わたしは壁に手を当てた。
そして、深く頭を下げた。
「お待たせ、しました」
六十年。
誰にも数えられず、弔われず、暗がりで扉にされてきた人たち。
わたしは、その気配の一つひとつに語りかけた。
もういいんですよ。
もう誰も引き込まなくていい。
あなたたちは、ただの亡くなった人だ。
扉でも礎でもない。
ちゃんと送ります。
六十年も遅くなって、ごめんなさい。
壁の奥で、空気がほどけていくのが分かった。
固まっていたものが、すこしずつ、ただの骨に戻っていく。
土に還れる、ふつうの骨に。
長いあいだ張りつめていた糸が、ゆっくりと、ゆるんでいった。
◆◇
けれどひとつだけ、連れ戻さなければいけないものがあった。
川村さんの、半分だ。
穴の、いちばん深いところ。
「ここではない場所」の縁に、彼の魂の片側が、引き込まれたまま漂っていた。
放っておけば、もう戻れない。
送るより先に、これを、引き上げないといけない。
わたしは穴の縁に手を伸ばした。
冷たい。
指の先から、ぞっとするものが這い上がってくる。
引く力が、わたしの腕と肩をつかんだ。
こっちへ来い。
お前も半分、置いていけ。
やさしい声で、そう囁く。
やさしいから、こわい。
——あぶない。
いえ。
あぶない。
足が、縁からすべりかけた。
世界の布の、薄いところ。
その向こうが、すぐ足の下に、口を開けている。
わたしは左手で符を握りしめた。
家の符。
祖父の代から、震える手で受け継がれてきたもの。
痛いほど握る。
爪が手のひらに食い込む。
その痛みが、こちら側にわたしをつなぎとめた。
視えるだけの小娘でも、踏みとどまる場所だけは知っている。
「川村さん!」
名前を、呼んだ。
名前は、いちばん古い、いちばん強い呪だ。
穴の奥で漂っていた半分が、びくりと震えた。
自分の名を、思い出したのだ。
◆◇
もう一歩、踏み込めば、届く。
けれどもう一歩で、わたしも持っていかれる。
迷った、その時だった。
暗がりの奥から、別の手が伸びてきた。
川村さんの半分を、こちらへ、ぐっと押し出す。
社長だった。
三年、頭を抱えていた、あの地縛の男。
解けかけた彼が、最後の力をふりしぼって、見ず知らずの若い作業員の魂を、生者の側へ押し返してくれた。
死んだ人にできる、いちばんやさしいこと。
それを選んでくれた。
わたしはその半分をつかんだ。
引き上げる。
腕がちぎれそうだった。
それでも離さない。
離せば、二人とも、向こうだ。
ずるり、と、重い手応えが戻ってきた。
川村さんの魂が、ひとつにつながった。
地上のどこかで、抜け殻だった彼が、ふっと、まともな息を吸う気がした。
わたしはしりもちをついた。
腕がまだ震えている。
たった一人ぶんの魂を引き戻すだけで、これだ。
お父様の言うとおり、まだまだだ。
それでも、戻した。
半分でも、戻したのだ。
◆◇
穴は、閉じた。
壊したのではない。
納めただけだ。
街より古いものを、二十歳の小娘が壊せるわけがない。
ただ、もう誰も引き込まないように、ちゃんと蓋をし直した。
応急の蓋では、ない。
弔いの、上の蓋だ。
六十年前の遠縁が、間に合わなかったぶんも、すこしだけ、取り返せた気がした。
最後に、社長を見た。
もう頭を抱えていなかった。
机の前に、静かに立っている。
憑きものの落ちた顔だった。
自分の名前が、ようやく、自分のものに戻ったのだ。
わたしは頭を下げた。
「お疲れさまでした。——もう休んでください」
社長は、すこし笑ったように見えた。
それから、ゆっくりと薄くなって消えた。
歴代の写真の、ほんとうの側へ帰っていった。
三年ぶりに、ひとりの男が、ようやく来ない社長をやめた。
◆◇
次の月曜。
社長室の机に、決裁書は置かれていなかった。
判子も。
署名も。
何も。
ただ、朝の光が、空っぽの机を静かに照らしていた。
三年ぶりに、この部屋は、誰の名前も騙っていなかった。




