第106話 地鎮(8)
第八章「名を騙る」
わたしは衝立のうしろから出た。
「——佐藤さん」
その手が、びくりと止まった。
判子を握ったまま、男がゆっくりと振り返る。
午前四時の青い闇のなかで。
やつれた顔がこちらを見ていた。
何度も見てきた、現場監督の顔だ。
一度でいいから社長に来てほしいと、わたしに頼んだあの人の顔。
その人がいま、死んだ社長の判子を握っている。
「……見られて、しまいましたか」
佐藤さんは笑おうとして失敗した。
口の端だけが、ひきつって、すぐにもとに戻った。
◆◇
「いつからですか」
わたしは訊いた。
「社長が亡くなった、次の週からです」
佐藤さんはもう隠さなかった。
隠す相手も、隠す気力も、尽きていた。
「最初は、苦しまぎれでした」
決裁が要る。
判を押す人が、もういない。
それで、机に残っていた社長の印鑑を、つい握った。
一度、押してしまった。
会社は、それで回った。
誰も気づかなかった。
「だから、次の月曜も、押しました」
佐藤さんの声は、平坦だった。
「その次も。気づいたら、三年です」
やめる機会は、とうになくなっていた。
一度はじめた嘘は、続けるしかない。
続けるほど、引き返せなくなる。
それは、地下の壕とよく似ていた。
蓋の上に、また蓋。
佐藤さんも、自分の嘘の上に、毎週、新しい嘘を重ねていた。
その三年で、佐藤さんはずいぶん、いろんなものを失ったはずだ。
眠る時間。
家に帰る理由。
自分が誰なのか、という感覚。
社長の代わりを続けるうちに、佐藤という人間は、すこしずつ薄くなっていった。
いまここに立っているのは、現場監督の佐藤さんではない。
社長の判子を押すためだけの、一本の影のようなものだった。
◆◇
「あなたが、決めればよかったのでは」
わたしは言った。
佐藤さんは首を振った。
何度も。
強く。
「わたしには、無理です。そんな大それたことは」
「でも、現に、あなたが決めていました」
「いいえ」
佐藤さんは、声を荒げた。
「わたしは、ただ、社長ならこうするだろうと。それを代わりに書いただけで」
わたしは黙って、その人を見た。
——出ましたわね。
いえ。
出た。
これが、この会社の、本当の病だ。
誰も自分の名前で決めたくない。
決めれば責任を背負う。
失敗すれば、自分のせいになる。
だから、みんな、いない人に預ける。
社長に。
死んだ社長に。
来ない社長という、便利な空っぽに。
会社を支える方法は、二つある。
自分の肩で支えるか。
誰かの名を借りて寄りかかるか。
佐藤さんは、後ろのほうを選んでいた。
たぶん、本人も気づかないうちに。
死んだ人の名前という、楽な柱に。
柱を自分だと思いこむ人がいる。
逆に、柱をほかの誰かに押しつけて、寄りかかる人もいる。
どちらも、同じ病だ。
一人で全部を抱えこむか。
一人に全部を預けるか。
会社というのは、たぶん、そのあいだのどこかで回すものなのだ。
佐藤さんは、振り切れていた。
預けるほうに。
それも、口のきけない死者に。
◆◇
悪い人ではない。
むしろ、いい人だ。
何百人の暮らしを、三年、たった一人で守ってきた。
英雄と呼んでもいい。
けれど、わたしには視えていた。
佐藤さんの、判子を握った手。
その手首に、細い糸が巻きついている。
手から、肘へ。
肩へ。
背中をつたって、床へ。
床から、地の底へ。
——あの、穴へ。
わたしは息をのんだ。
川村さんと、同じだった。
佐藤さんも引かれている。
穴に。
ただし、川村さんよりずっと巧妙に。
魂をごっそり奪うのではなく、ほんの少しずつ。
「続けろ」という囁きを、佐藤さんのいちばん弱いところに、流し込んで。
会社を守りたいという、その必死さの、ちょうど裏側に。
◆◇
「佐藤さん」
わたしは、できるだけ静かに言った。
「それ、本当に、あなたが続けたかったんですか」
「……分かりません」
佐藤さんは、自分の手を見た。
「いつからか、月曜になると、体が勝手に動くんです。気がつくと、ここで判を押している。誰かにそうさせられているみたいに」
やはり、だ。
二人とも、使われていた。
判を押す、生きた佐藤さん。
名前を貸す、死んだ社長。
どちらも、自分の意志で続けているのではない。
穴が、続けさせている。
掘れと。
蓋を開けろと。
そのために、いちばん都合のいい手と、いちばん都合のいい名前を、借りていた。
生者の手と、死者の名。
両方を、一度に。
「あなたが、書かせていたんじゃ、ありません」
わたしは言った。
「書かされていたんです。あなたも、社長も。二人とも」
◆◇
佐藤さんの目から、ふいに力が抜けた。
たぶん、ずっと思っていたのだ。
これは自分の罪だ、と。
死者を冒涜し、会社を嘘で延命させている、と。
三年、その重みで背中を丸めてきた。
罪だと思えるうちは、まだ自分の意志だと信じられた。
でも、半分は違った。
佐藤さんは駆られていた。
気づかないうちに。
穴に、いちばん優しい言葉で。
それを知って、楽になったのか、もっと苦しくなったのか。
佐藤さんの顔からは読み取れなかった。
「最後に、ひとつだけ」
わたしは言った。
「お伝えしておきます」
わたしは机のほうを見た。
地縛の社長が、まだ、そこにいた。
頭を抱えて。
三年、ずっと。
自分の名が、自分の願いと逆のことに使われるのを、止められないまま。
「社長は、続けろなんて、一度も言っていません」
わたしは佐藤さんの目を、まっすぐ見た。
「ずっと、休ませてくれ、と言っています」
地縛の男の、震える肩を、わたしはもう一度見た。
「もう、いいかげん休ませてくれ、と。——あなたにも同じことを言いたかったはずです。あなたも、もう休んでいい、と」
佐藤さんの手から、判子がことりと落ちた。
暗い床を、朱肉の赤が血のようににじんで転がる。
佐藤さんはその場に膝をついた。
声を立てずに、肩を震わせて。
三年、たった一人で、誰かの名前を借りなければ立てなかった男が、はじめて、自分の重さで崩れた。
わたしは落ちた判子を拾わなかった。
それは、もう、佐藤さんが拾うものだ。
あるいは、もう、誰も拾わなくていいものだ。
三年ぶりに、月曜の机は、空っぽのまま朝を迎える。
でも、これで終わりではなかった。
佐藤さんの手を止めても、穴はまだ、そこにある。
続けろと囁く声も。
弔われない骨も。
頭を抱えた社長も。
本当の仕事は、ここからだった。
——いえ。
ここからだ。




