第105話 地鎮(7)
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それでは、本編をお楽しみください。
第七章「死んでいた社長」
社長は三年前に死んでいた。
その事実は、もう、わたしと佐藤さんだけのものではいられなくなっていた。
わたしが社長のことを訊いて回ったせいだ。
古参が口をつぐむ。
佐藤さんの顔色が変わる。
そういう小さな波紋が、いつのまにか社員のあいだに広がっていた。
社長は本当はどうなっているのか。
誰かが小声で言いはじめる。
一度こぼれた問いには、もう、ふたができない。
会社の空気がざわつきはじめた。
あの濁った気配とは別の、生きた人間の不安だ。
昼休み、若い社員がひとり、わたしを廊下に呼び止めた。
声をひそめて、こう訊いてくる。
社長は、もう、いないんですか。
わたしは答えなかった。
答えは、わたしが言うことではない。
けれど、その目の怯えだけで、噂がどこまで来ているかは分かった。
佐藤さんも、限界が近かった。
三年、たった一人で抱えてきた嘘だ。
それが足元から崩れはじめている。
隠せば隠すほど、ばれたときの傷は深くなる。
本人が、いちばんそれを分かっている。
会うたびに、顔が土気色になっていった。
時間がなかった。
秘密が表に出れば、現場は混乱する。
混乱すれば、誰かがまた地下に引かれる。
その前に、片をつけなければいけなかった。
◆◇
わたしはもう一度、社長室へ入った。
今度は目的が違う。
社長が死んでいると、もう分かっている。
なら、視るべきものがあった。
死んだ社長は、どこへ行ったのか。
扉を閉めた。
明かりはつけない。
机の前に立って、目を深く開く。
いた。
革の椅子に男が座っていた。
線の細い神経質そうな男。
写真で見た三代目だ。
三年前から、ずっとここにいたのだ。
来ない社長は、ほんとうは、この部屋から一度も出ていなかった。
地縛。
死んだ場所ではなく、いちばん心を残した場所に縛られている。
◆◇
わたしは身構えた。
覚悟していたのは、もっとおそろしいものだった。
会社のために死してなお働く、執念の亡霊。
「続けろ」と命じる暗い意志。
そういうものだと思っていた。
けれど、違った。
男はただ、うなだれていた。
両手で頭を抱えている。
机に肘をついて。
何かに耐えるように。
あるいは悔やむように。
その肩が小刻みに震えていた。
泣いているのかもしれない。
死んだ人が三年、たったひとりで、暗い部屋で泣いている。
それは、わたしが見てきたどんな怪異よりも、しずかで、つらい眺めだった。
わたしは、そっと一歩、近づいた。
男は顔を上げない。
わたしのことなど見えていない。
生きている者の姿は、地縛の死者にはたいてい届かない。
彼が見ているのは、三年前の、あの机の上だけだ。
届かなかった、自分の手の先だけだ。
——この人は、続けろなんて言っていませんわ。
いえ。
言っていない。
わたしにははっきり分かった。
この社長の残留は、命令などしていない。
むしろ逆だ。
男は何かを止めたがっている。
止めたくて、止められなくて、頭を抱えている。
◆◇
机の上に、男の手が伸びかけていた。
決裁の置かれる場所。
そこへ震える手を伸ばして——けれど、届かない。
死者の手は、紙一枚、動かせない。
何度も伸ばして、届かなくて、また頭を抱える。
それを三年、繰り返している。
わたしは視ながら、読んだ。
この人は知っていたのだ。
足の下に何が埋まっているか。
創業の礎のことを。
弔われない骨のことを。
封のことを。
一族のいちばん奥の秘密を、三代目だけが継いでいた。
ひとりで背負っていたのだ。
父からも祖父からも、口で伝えられたのではないだろう。
たぶん、社長になってはじめて知らされる。
この会社の足の下に、何が眠っているか。
歴代の主だけが知る、たったひとつの、重すぎる引き継ぎ。
誰にも言えない。
社員にも、家族にも。
だから、この人は人を遠ざけた。
来ない社長になった。
本当は、来られなかったのではない。
近づけば、秘密が漏れる。
それが、こわかったのだ。
だから再開発に、ずっと反対だった。
掘れば封がほどける。
出してはいけないものが出てくる。
それを誰よりも恐れていた。
工事を止めたかったのは、ほかでもない、この社長本人だ。
その人が死んだ、まさにその週から、彼の名で「工事続行」の判子が押されはじめた。
自分の願いと正反対の言葉に、自分の名前を使われている。
止めてくれと言いたいのに、続けろと書かれつづける。
地縛の男が頭を抱えているのは、たぶん、そのせいだった。
死んでもなお、いちばん嫌なことに、自分の名が使われている。
わたしは、すこし、腹が立った。
死んだ人を、こんなふうに、こき使うなんて。
骨も、社長も、この会社は、いつもそうだ。
送りもせず、ただ、都合よく使う。
◆◇
誰が、この人の名を、こんなふうに使っているのか。
答えは、もう目の前まで来ていた。
あとは、その手を押さえるだけだ。
心当たりは、あった。
けれど、決めつけたくはなかった。
さっきまで幽霊だと言い張って、外したばかりだ。
今度は目で見て、確かめる。
誰が、何のために、三年も死者の名を握ってきたのか。
それを知らずに、祓いも弔いもない。
次の日曜の夜。
わたしはまた社長室に潜んだ。
今度は眠らない。
眠らないために、手のひらに符の角を食い込ませた。
痛みは眠気より強い。
それくらいは、修行で知っている。
暗闇のなかで、地縛の社長が、相変わらず頭を抱えていた。
わたしは心の中で、その人に話しかけた。
もうすぐです。
あなたの名前を、返してさしあげますわ。
——いえ。
返す。
きっと、返す。
夜が更けていく。
地縛の男の震えだけが、暗がりに、ずっと続いていた。
◆◇
午前四時。
空がいちばん暗くなる時刻だ。
廊下に、足音がした。
ひとつ。
慎重で、慣れた足音。
この部屋へまっすぐ近づいてくる。
何度も繰り返してきた足取りだ。
迷いがない。
逆に、それが、こわかった。
扉が音もなく開いた。
影がひとつ、滑り込む。
机へ歩み寄って、ふところから何かを取り出した。
書類。
そして、社長の判子。
手が動く。
迷いのない手つきで、紙に朱を押した。
「工事続行」。
それを、いつもの場所にそっと置く。
長いあいだ、毎週、そうしてきたのだろう。
手は、もう、考えていなかった。
考えなくても、できてしまうのだ。
その手つきには、悪意も企みもなかった。
むしろ、祈りに近かった。
毎週、同じ時刻に、同じ場所へ来て、同じ一行を置いていく。
それは、もう、儀式だった。
誰かが何かを、必死で生かしつづけようとする、ささやかで、痛ましい儀式。
わたしは衝立のうしろから、その手を見ていた。
白くもなく、黒くもない。
骨でもない。
透けても、いない。
血の通った、あたたかい、生きた人間の手だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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