第104話 地鎮(6)
第六章「月曜の判子」
壕のことは、いったん置いた。
弔いの支度には、まだ時間がかかる。
その前に片づけたい謎があった。
人のほうの謎だ。
毎週月曜、社長の机に置かれる決裁。
「工事続行」。
誰が置くのか、誰も見ていない。
来ない社長。
届く判子。
この一本の糸をほどかないと、先へは進めない。
わたしはこういう謎が、嫌いではなかった。
むしろ得意なほうだ。
◆◇
まず、日付を並べた。
佐藤さんに頼んで、過去の決裁をぜんぶ出してもらう。
月曜ごとの「工事続行」。
いちばん古い一枚を見て、わたしはすこし笑ってしまった。
決裁が机に現れはじめたのは、ちょうど三年前。
社長が会社に来なくなったのと、同じ時期だった。
社長が消えたその週から、判子だけが律儀に通いはじめている。
ならば、置く現場を押さえればいい。
◆◇
日曜の夜。
わたしは社長室に忍び込んだ。
月曜の朝には、決裁がある。
なら、日曜の夜から朝までのあいだに、誰かが必ず来る。
来たところを、この目で見てやる。
わたしは部屋の隅の、衝立のうしろに身を潜めた。
符を一枚、握って。
暗い部屋は、嫌いではない。
怪異は暗がりでこそ地金を出す。
人だって、同じだ。
社長の椅子が、暗がりにぼんやり浮いていた。
三年、誰も座っていない椅子。
それでも毎日、誰かが埃を払っているらしく、革はにぶく光っている。
使われていないのに、手入れだけはされる。
生き物の世話に似ていた。
椅子の主が、いつ帰ってきてもいいように。
あるいは——もう帰らないと、認めたくないように。
待った。
一時間。
二時間。
空調の、低い音。
廊下の、遠い足音。
何も、起こらない。
わたしは、まばたきをした。
ほんの、一瞬のつもりだった。
◆◇
気がつくと、窓の外が、白んでいた。
朝だ。
眠ってしまったのだ。
修行が足りない。
お父様に知られたら、半年は説教される。
わたしは、舌打ちをした。
そして、机を見た。
決裁が、置いてあった。
ゆうべは、なかったものだ。
社長の判子で、「工事続行」。
いつもどおり、そこにある。
わたしが、すぐそこにいたのに。
眠っていたのは、ほんの数分のはずだった。
なのに、いつのまにか、置かれている。
背筋が、ひやりとした。
——見られていたのは、こちらかもしれませんわね。
いえ。
こちらだ。
誰かが、眠ったわたしの、すぐ脇を通って、この紙を置いて、消えた。
足音も、気配も、残さずに。
◆◇
張り込みは、失敗した。
けれど、考える材料は、増えた。
来ない社長。
三年前からぱったり。
判子だけが届く。
生きた人間の気のしない墨。
社長室には三年、誰もいない。
それでも整えられ、使われたふりをしている。
答えは、明らかではないか。
社長は、もう亡くなっている。
三年前に。
未練を残した社長の霊が、毎週、自分の机に戻って、判を押している。
死してなお、会社のために。
来ない社長は、来られない社長だったのだ。
なんと哀しくも、美しい話だろう。
——わたくし、数日で真相に到達してしまいましたわね。
いえ。
到達した。
お父様が見たら、さすが我が娘、とおっしゃるかしら。
……たぶん、言わない。
あの人は誉めない。
それでも、わたしはひとり、得意になっていた。
得意になっている人間は、たいてい足元が見えていない。
◆◇
念のため、社長の死を確かめることにした。
佐藤さんに、まっすぐ訊いた。
社長は本当に生きていますか、と。
佐藤さんの顔が、ぐにゃりと歪んだ。
怒るでも、笑うでもない。
長いあいだ抱えてきたものを、見透かされた人の顔だった。
「社長は、三年前の春に亡くなりました」
絞り出すような声だった。
「自宅で。心臓を患っておられて。誰にも言えなかった」
葬式は身内だけで、ひっそりと出した。
会社には伏せた。
再開発の、大事な時期だった。
社長が死んだと知れれば、銀行が引く。
施主が逃げる。
会社が終わる。
だから、隠した。
最初は、ほんの数日のつもりだったという。
葬式が済むまで。
契約の山場を越えるまで。
けれど、越えても、次の山場が来た。
言い出す機会は、いつも、すこし先へすこし先へと逃げていった。
気づけば、三年。
いまさら切り出せば、嘘をついてきた年月のぶんだけ、罪が重くなる。
だから、言えない。
佐藤さんの肩は、その三年の重みで、すっかり丸くなっていた。
「三年も、ですか」
「三年も、です」
佐藤さんはうつむいた。
「もう、後戻りができなくなって」
わたしの推理は、半分当たっていた。
社長は、死んでいた。
やはり。
——また、同じだ。
いえ。
また、同じだ。
源造は、弔うべき骨を地面の下に隠した。
蓋をして、見ないことにした。
この会社は今度、死んだ社長を、同じように隠している。
机の上に、生きているふりの蓋をして。
骨も、社長も、ちゃんと送られないまま、宙ぶらりんにされている。
この一族は、人を送るのが、よほど下手なのだ。
◆◇
けれど、残りの半分で、わたしはつまずいた。
幽霊が判を押している。
そう思い込んでいた。
なら、あの墨に社長の気が残っているはずだ。
死者の未練ほど、濃く紙に染みつくものはない。
怒り。
執着。
心残り。
霊が触れた紙は、必ず何かを語る。
なのに、あの決裁には、それがなかった。
わたしはもう一度、いちばん新しい決裁を視た。
じっと。
隅から隅まで。
からっぽだった。
生きた人間の気もない。
死んだ人間の気もない。
幽霊の指の跡すら、ない。
ただ、社長の名前と判子の朱が、冷たくそこにあるだけ。
幽霊は、押していない。
社長の霊は、この紙にいっさい触れていなかった。
——では。
自慢の推理は、音を立てて崩れた。
哀しくも美しい話は、どこにもない。
あったのは、もっと生々しい何かだ。
◆◇
社長は、三年前に死んでいる。
その霊が押しているのでもない。
なのに毎週月曜、机の上には、社長の判子で「工事続行」と書かれた紙が置かれつづけている。
死んだ人は、押せない。
幽霊も、押していない。
なら、生きた誰かが押している。
三年ものあいだ、死んだ社長の名を借りて。
誰にも見られず、月曜の朝が来るたびに。
その人は、何を思って、あの判子を握ってきたのか。
誰でも、できることではない。
社長室に自由に出入りできる人。
社長の判子の、ありかを知っている人。
そして何より——会社を潰したくないと、誰よりも強く願っている人。
その条件に当てはまる顔を、わたしはもう、何人か知っていた。
いちばん近くに、いつもいる顔も。
わたしは、得意になっていた自分が、急に恥ずかしくなった。
それから、ぞっとした。
——いったい、誰が。
いえ。
誰が押しているのか。
今度こそ、本気で突き止めなければいけなかった。




