第102話 地鎮(4)
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それでは、本編をお楽しみください。
第四章「封じられた壕」
壕を上がっても、あの壁が頭から離れなかった。
閉じ込めるための壁。
わたしの家に血のつながる、古い封。
六十年前。
ここに「視える側」の誰かがいた。
その人は何を閉じ込めたのか。
それを知らないと、先へ進めない。
知るには、読むしかなかった。
視るのは目だ。
表に出ているものを見て取る。
読むのは、もっと奥だった。
封の組み方を指でたどる。
その奥にあるものの正体まで、手繰り寄せる。
家業でいちばん面倒な作法だ。
お父様には、まだ早いと言われていた。
——でも、お父様はここにいませんものね。
いえ。
いない。
だから、わたしがやる。
やるしかない。
やるのは、あなたです。
あの拝み屋の声が、なぜか背中を押した。
◆◇
翌日。
わたしは壕の奥へ戻った。
封の壁の前に、符を並べる。
五枚。
四隅と中心に置いて、家の形に組んだ。
手のひらを冷たい石に当てる。
目を閉じた。
読む。
最初に来たのは、痛みだった。
焼ける痛み。
息のできない熱。
一九四五年の、あの夜だ。
ここへ逃げ込んだ人たちの、最後の時間が石に染みている。
母が子をかばう腕のこわばり。
出口を見たまま動かなくなった数分。
それが壁いっぱいに、こびりついていた。
けれど、それは表層にすぎなかった。
もっと奥がある。
壁の向こうに、空洞があった。
ただの空洞ではない。
世界の布が、そこだけ薄く擦り切れている。
指を当てれば、向こうへすうっと抜けてしまいそうだ。
「ここではない場所」へ通じる穴。
穴は、ずっと前からここにあった。
たぶん、街より古い。
空襲で死んだ人たちは、たまたまその真上で死んだ。
弔われないまま、穴の縁に溜まった。
いつのまにか、穴のふちを縁取る歯のようになっていた。
死者が、扉になってしまっている。
いちばん奥にいる人ほど、もう人の形を保っていなかった。
穴に近い順に、輪郭が溶けて、扉の一部になっていく。
助けを待っていた人たちが、いつのまにか、次の誰かを引き込むための入り口にされている。
——むごい話だ。
死んでまで、こき使われている。
六十年前の誰かは、その穴を塞いだのではない。
塞ぎきれなかったのだ。
急いで蓋をした。
上から会社を建てた。
人の暮らしの重みで、上から押さえつけた。
それだけだった。
指の先に、その人の必死さが伝わってくる。
手が震えていた。
間に合わないかもしれない。
そう思いながら、それでも、やめなかった。
その人の符の組み方は、わたしの家のものとよく似ていた。
けれど、まったく同じではない。
もっと古い。
枝分かれする前の、おおもとの形だ。
わたしの家も、この街の誰かも、たどっていけば、同じ一本の流れから出ているのかもしれない。
だとしたら、六十年前にここで踏ん張ったのは、遠い遠い、親戚のような誰かだ。
会ったこともない。
名前も知らない。
それでも、その手の震えだけは、いま、わたしの手にうつっていた。
——蓋の上で、六十年、商売をしていたわけですわね。
いえ。
していたのだ。
知ってか、知らずか。
◆◇
手を離した、そのときだった。
頭の上で、鈍い音がした。
続いて、男たちの怒鳴り声。
誰かがはしごを駆け下りてくる。
「先生! 上で、また事故だ!」
若い作業員だった。
顔が真っ青だ。
地上へ上がる。
足場の鉄パイプが一本、支えごと外れて落ちていた。
さいわい、人には当たっていない。
けれど、外れ方がおかしかった。
誰も触っていない。
風もない。
なのに、まるで下から引かれたように、地面へ吸い込まれていた。
わたしには、分かった。
穴が目を覚ましかけている。
掘削で蓋がゆるんだのだ。
封がほどけかけて、引く力が地上にまで手を伸ばしはじめている。
鉄を引いた手。
川村さんの魂を引いた手。
同じものだ。
このまま掘れば、蓋は完全に外れる。
引かれるのは、鉄やひとりの作業員だけでは済まなくなる。
川村さんは、あれからもっと悪くなっていた。
会社を休んで、家から出ないという。
窓の外を、じっと見ているらしい。
たぶん、見ているのではない。
呼ばれているのだ。
半分を置いてきた自分を、迎えにこい、と。
残りの半分が、毎晩、ここへ引かれている。
早くしないと、彼はいなくなる。
体ごと、向こうへ。
◆◇
不思議なのは、それでも誰も「やめよう」と言わないことだった。
怪我人が出ても。
事故が続いても。
みんな青い顔をして、手を止めない。
止めようとすると、なぜか落ち着かなくなるのだという。
胸がざわつく。
続けないといけない気がする。
口々に、そう言う。
試しに、佐藤さんに訊いてみた。
いったん工事を止めてはどうか、と。
佐藤さんは目を泳がせた。
それは、と口ごもる。
違約金が。
社長の判断が。
いつもの理由を並べる。
けれど、その目の奥に、理由とは別の焦りがちらついていた。
続けなければ。
なぜか分からないが、続けなければ。
川村さんの「半分」と、同じ匂いがした。
この現場の人間は、多かれ少なかれ、穴に心の片端を引かれている。
だから「続けろ」と囁かれると、逆らえない。
掘れ。
蓋を開けろ。
月曜の机に置かれる、あの「工事続行」の判子。
——あれも、同じ手が書かせているのではないか。
わたしは、ぞっとした。
そして、もっとぞっとすることに気づいた。
わたし自身の足が、さっきから、壕のほうへ半歩踏み出していた。
続けろ。
視ろ。
もっと奥まで。
——それが自分の考えなのか、穴に囁かれたものなのか、とっさに見分けがつかなかった。
わたしも、例外ではないのだ。
視える側だろうと、なんだろうと。
穴の前では、ただの引かれる側の一人にすぎない。
◆◇
その夜。
もう一度、一人で壕へ降りた。
確かめたいことがあった。
封の前に立つ。
投光器を消した。
暗闇に目を慣らす。
怪異は、灯りの下では本当のことを言わない。
暗がりでこそ、地金が出る。
じっと、待った。
やがて、壁の奥から声がした。
低い。
男の声のような、そうでないような。
地の底を這って、石の隙間からにじり出てくる。
「……つづけて、くれ」
わたしは、息を詰めた。
「ほっといてくれ、と」
声はねっとりと続けた。
「言うと思ったか。——つづけてくれ。掘ってくれ。あけて、くれ」
背筋が凍った。
けれど、同時に、強い違和感があった。
おかしい。
閉じ込められた死者なら、ふつうはこう言う。
出してくれ、と。
あるいは、弔ってくれ、と。
六十年も放っておかれたなら、なおさらだ。
なのに、この声は、会社の都合を代弁するように「工事を続けろ」と言う。
死んだ人が、なぜ、工期の心配をするのか。
誰かが、死者の声を借りている。
それとも——死者の口を使ってしゃべる、別の何かが、いる。
声が、ふと止まった。
そして、さっきとは違う調子で、低く笑った気がした。
まるで、わたしがそこにいることに、たったいま気づいたみたいに。
——見つかった。
いえ。
見つけたのは、こちらのほうだ。
そう思い込むことにした。
思い込まないと、足が動かなくなりそうだった。
わたしは、暗闇の奥を、まっすぐに視た。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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