第101話 地鎮(3)
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それでは、本編をお楽しみください。
第三章「地下の空洞」
その晩、わたしは眠れなかった。
ベッドのせいではない。
川村さんの背中から伸びた、あの細い糸のせいだ。
一度視てしまったものは、そう簡単には頭から出ていかない。
目を閉じると、地の底へ伸びる糸の感触が、まぶたの裏によみがえる。
わたしは諦めて、外へ出た。
夜風を吸えば少しは落ち着くだろう。
そう思った。
◆◇
気がつくと、現場のすぐそばまで来ていた。
フェンスの向こうに、重機の影が黒く沈んでいる。
街灯の少ない暗い通りだ。
昼の濁った気配は、夜のほうがかえって薄い。
怪異というのは、案外、夜より昼の人混みのほうが濃く出る。
人の不安を吸って太るからだ。
だから夜は、わたしのような人間には、むしろ仕事がしやすい。
その空き地に、一台の車が停まっていた。
窓がすこし開いている。
中で煙草の火がぽつりと光った。
ひげまみれの男が、運転席でぼんやり煙を吐いている。
よれたシャツ。
伸びた無精髭。
明らかに何日も風呂に入っていない風体だ。
——出ましたわね。
変質者。
いえ。
変質者だ。
若い女が夜にひとりで歩いている。
その脇の車から、男が煙草。
どう見てもまともな状況ではない。
わたしは鞄から符を一枚抜いて、指に挟んだ。
家の符だ。
生きた人間が相手でも、ひるませるくらいはできる。
近づいて、符を構える。
「——動かないでください」
男が、こちらを見た。
糸のように細い目。
その目に、見覚えがあった。
わたしの指が止まる。
「……ジオン、さん?」
◆◇
二年前。
愛媛の山の中。
犬神の里。
あのとき、わたしの家を救ってくれた拝み屋だ。
胡散臭くて食えない男。
たしか、あのときも、こんなよれよれだった。
「やあ」
男はぜんぜん驚かない。
「大きくなりましたね」
「な、何をしてるんですか。こんなところで。車で。ひげで」
「めんどくせぇ仕事の途中です」
男は煙を吐いた。
「別件ですよ。あなたの現場とは関係ない」
わたしは、構えた符をそろそろと下ろした。
命の恩人に、いきなり祓いの符を突きつけてしまった。
顔が熱い。
「……お家は、どうされたんですか。車で寝るような」
「まだ、ないんですよ。これから建てるところで」
男は、言葉の尻を煙のなかへ濁した。
「ここは……あー。出張的なやつですよ」
出張。
どう聞いても、ごまかしている。
けれど、それ以上は訊くな、という空気が煙と一緒に流れてきた。
「あなたこそ」
男は続けた。
「一人で来てるんですか。あの現場に」
「……ええ」
「視えてるんでしょう。もう」
ごまかせなかった。
この人の前では、昔から何ひとつごまかせない。
わたしは、うなずいた。
「なら、ぼくの出番じゃない」
男はまた煙を吐いた。
「やるのは、あなたです」
それだけ言うと、男は窓を閉めた。
話は終わり、ということらしい。
車内灯が消えて、煙草の火だけが暗がりにまた、ぽつりと残った。
——だ、誰が変質者ですか。
いえ。
本当に変質者みたいでしたわよ。
……でした。
胸の内で言い直しながら、わたしはなぜか、少しだけ背筋が伸びていた。
やるのは、あなた。
そう言われると、逃げ場がない。
逃げ場がないのは、たぶん、いいことなのだ。
あの人は、そういうやり方で、わたしの家を救った。
救って、何も言わずに消えた。
お礼を言う暇もくれなかった。
今もまた、同じだ。
一言だけ置いて、窓を閉める。
——ほんとうに、勝手な人ですわね。
いえ、勝手な人だ。
でも、その勝手さに、わたしは一度助けられている。
◆◇
翌朝、わたしは現場の地下へ降りた。
掘削の途中でぽっかりと口を開けた、大きな空洞。
戦時中の防空壕らしい、と佐藤さんは言っていた。
仮設のはしごが、闇の奥へ伸びている。
投光器の白い光が、湿った土の壁を照らしていた。
一段、降りる。
空気が、変わった。
冷たい。
土の匂い。
けれど、それだけではない。
古い悲しみが、何層にもなって底に沈んでいる。
ここでたくさんの人が死んだのだ。
一九四五年。
火の降る夜に、ここへ逃げ込んで、そのまま出られなかった人たち。
視るまでもなく、肌で分かった。
目を凝らすと、見えた。
壁ぎわに、人の影がいくつもうずくまっている。
母親らしい影が、子どもらしい影を抱きかかえている。
みんな出口のほうを向いたまま、固まっている。
助けを待っていたのだろう。
来なかった助けを。
六十年。
ずっと、この姿勢のまま。
来なかった助け。
来ない社長。
——また、同じ言葉が頭をかすめた。
この街は、肝心なときに、誰かが来ない。
来ないまま置き去りにされたものが、地面の下に、ずっと溜まっている。
怖い、とは思わなかった。
ただ、哀しかった。
哀しいものは、たいてい、いちばんたちが悪い。
◆◇
壕の奥へ進むほど、足が重くなった。
昨日、川村さんの背中で視た、あの引く力。
あれが、ここでは桁違いに強い。
地の底のほうから、ずるり、ずるりと、何かがわたしの片足を引いている。
気を抜けば、つるりと持っていかれそうだ。
「ここではない場所」が、すぐそこで口を開けていた。
川村さんが半分持っていかれたのも、無理はない。
素人がこんなところに無防備で降りたのだ。
むしろ半分で済んだのが、運がよかった。
わたしは符を握りしめ、家の言葉を低く唱えた。
引く力がわずかにゆるむ。
ほんの少しだ。
それでも、足を前に出せるくらいには。
——お父様。
わたくし、まだまだ、ですわね。
いえ。
まだまだ、だ。
それでも、足は止めなかった。
◆◇
壕のいちばん奥に、壁があった。
ほかの土壁とは違う。
コンクリートと古い石を積んで、人の手できっちりと塞いである。
投光器の光を当てた。
表面に、お札のようなものを貼った跡。
打ちつけた釘の、錆びた頭。
わたしは、その壁を視た。
そして、息が止まった。
これは、防空壕の入り口をあとから塞いだものではない。
逆だ。
壕の、もっと奥にある何かを外へ出さないために塞いだものだった。
お札も釘も、内から外へ向かって打たれている。
逃げ込むための壁ではない。
閉じ込めるための壁だ。
そして、その封のかけ方に、見覚えがあった。
古い。
うんと古い流派の作法だ。
荒っぽくて、急いでいて、けれど芯は本物。
わたしの家の符と、どこか血のつながったやり方。
素人の仕事ではない。
六十年前、ここに、わたしと同じ「視える側」の人間がいた。
そして必死で、何かをここへ封じた。
壁の向こうから、かすかに、声のようなものが滲んでいた。
言葉にはならない。
長いあいだ閉じ込められた者の、くぐもった圧だけが、石の隙間からにじり出ている。
怒りでも、恨みでもない。
もっと静かなものだ。
それが、かえって、こわかった。
◆◇
六十年前。
戦後すぐ。
——高瀬建設が、生まれた頃だ。
佐藤さんは言っていた。
この会社は六十年やってきた、と。
ちょうど、この封がかけられた頃に、この真上で、会社が始まっている。
偶然だろうか。
こんな場所の真上に、わざわざ。
いえ。
偶然のはずがない。
視える側の人間がかけた封の、すぐ上に、会社が建った。
その会社がいま、自分の手で、この封を掘り返そうとしている。
誰かが、忘れたがっている。
あるいは、忘れさせられている。
「……これ」
わたしは、上で待つ佐藤さんを振り仰いだ。
「空襲よけじゃ、ありませんね」
声が、壕の奥に低く吸い込まれていった。
「誰かが何かを、ここに閉じ込めたんですわ」
——いえ。
言い直す気にも、なれなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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