第100話 地鎮(2)
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それでは、本編をお楽しみください。
第二章「土日のない会社」
「……何の、話だ」
佐藤さんの声は、まだ震えていた。
わたしは答えを選んだ。
初対面でいきなり「社長さん、亡くなっていませんか」と訊くほど、わたしは無作法ではない。
たぶん。
「いえ。掃除が、行き届いているなと」
嘘ではない。
半分は。
佐藤さんはしばらくわたしを見ていた。
それから、何かを飲み込むように目をそらした。
「……こちらへ」
◆◇
社長室を出て、一階へ降りる。
途中、事務所のフロアを横切った。
土曜の昼だ。
なのに、机のほとんどが埋まっていた。
みんな黙って画面に向かっている。
誰も顔を上げない。
咳ばらいひとつ聞こえない。
働いている、というより、何かに座らされているようだった。
その頭の上に、あの濁ったものが薄く垂れこめている。
——働き者の、会社。
いえ。
働かされている会社だ。
誰のために。
来もしない社長の、判子のために。
◆◇
通されたのは、一階の狭い会議室だった。
長机にパイプ椅子。
壁には何も書かれていないホワイトボード。
ごくふつうの、どこにでもある会議室だ。
けれど、ここにも、あの濁った気配が薄く沁みていた。
門をくぐったときに感じた、あの重いものだ。
会社じゅうに、同じものが回っているらしい。
空調の効いた部屋なのに、肌が、じっとり湿る。
佐藤さんは、ぬるくなったらしい湯呑みを両手で包んで、ぽつぽつと話しはじめた。
「高瀬建設は、この街で六十年やってきた会社です」
六十年。
戦後すぐの創業だ。
わたしは黙って先をうながした。
「ずっと、楽じゃなかった。それでも、なんとか食いつないできました」
佐藤さんは言った。
「今度の再開発は、その、社運を賭けた仕事でして」
「降りられない、と」
「ええ」
佐藤さんはうなずいた。
「ここで降りれば、違約金で会社が潰れる。社員も、その家族も、路頭に迷う」
湯呑みを置く。
「だから、止められないんです。地面の下から何が出てきても」
地面の下から何が出てきても。
さらりと言ったが、ふつうの台詞ではない。
この人は、もう、ふつうではない何かが出ていることを知っている。
◆◇
「監督さんは」
わたしは訊いた。
「最後に休んだのは、いつですか」
佐藤さんは、すこし考えた。
それから、力なく笑った。
「……さあ。思い出せませんな」
悪い顔色だった。
目の下のくまは、一日二日のものじゃない。
この人も、半分、持っていかれかけている。
霊にではない。
会社に、だ。
来ない社長の代わりに、現場のぜんぶを一人で背負って。
——柱を、ひとりで。
どこかで聞いたような構図ですわね。
いえ、構図だ。
◆◇
——お金の話ですわね。
わたくしの、いちばん苦手な領域。
いえ。
苦手な領域だ。
陰陽師は、霊は視えても貸借対照表は視えない。
お父様もそうだった。
霊は祓えても、家計簿の前ではため息ばかり。
借金や違約金は、わたしにはどうにもできない。
人間のほうで片づけるしかない領分だ。
でも、と思う。
お金で人が追い詰められると、そこに別のものが寄ってくる。
弱った会社は、弱った人と同じだ。
隙間ができる。
その隙間から、ふだんは入ってこられないものが忍び込む。
たぶんこの会社は、いま、そういう状態にある。
◆◇
「社長さんに、来てくれと頼んだことは」
わたしは訊いた。
「何度も」
佐藤さんは即座に答えた。
「一度でいいから現場に来てくださいと。判断を仰ぎたかった。地下のことは、社長の一存でしか決められない」
「お返事は」
「ない。電話もつながらない。秘書を通しても、折り返しすら来ません」
「では、誰が、工事を続けると決めているんですか」
佐藤さんは、口ごもった。
湯呑みに伸ばしかけた手が、宙で止まる。
「……それが、分からんのです」
低い声だった。
「月曜の朝、わたしがいちばんに会社へ来ると、社長の机に、もう決裁が置いてある」
佐藤さんは続けた。
「判子が押してあって、『工事続行』と。誰が置いたのかは、誰も見たことがない」
ぞくり、とした。
来ない社長。
届く判子。
誰も置くところを見ていない。
糸がまた一本、見えない手に引かれて、するりと結ばれていく感触がした。
三年も、誰もその手をたしかめずに来た。
たしかめるのが、こわかったのだろう。
たしかめたら最後、何かが決定的に壊れてしまう気がして。
◆◇
「事故のことも、伺っていいですか」
わたしは話を変えた。
「お怪我をされた方に、お会いできますか」
佐藤さんは少し迷ってから、一人の若い作業員を呼んでくれた。
川村、という名だった。
二十歳そこそこ。
わたしと、たいして変わらない年だ。
けれど、ひと目で分かった。
この人は、違う。
川村さんは、ぼんやりした顔で会議室に入ってきた。
目の焦点が、どこにも合っていない。
挨拶はする。
受け答えもする。
けれど、半拍、遅れる。
まるで、ずっと遠いところから、糸電話で喋っているような声だった。
「川村は、地下の空洞に、最初に降りた一人でして」
佐藤さんが声をひそめた。
「戻ってきてから、こうなりました。三日、無断で休んで。出てきたと思ったら、自分がどこにいたのか覚えていないと言うんです」
わたしは川村さんを視た。
息を、のんだ。
——半分、持っていかれている。
体は、ちゃんとここにある。
けれど、魂の片側が、どこか遠い場所に置き去りにされていた。
ここではない場所だ。
引きずられた跡が、まだ生々しい。
彼の背中から、細い糸のようなものが床をすり抜けて、地の底へすうっと伸びている。
神隠しだ。
古い言葉でいう、それだ。
地下の奥に、人を引き込む「ここではない場所」がある。
川村さんは、その入り口に片足を突っ込んで戻ってきた。
残りの片足は、まだ向こうにある。
引いている力は、強い。
気を抜けば、こちら側の半分も、つるりと持っていかれそうだった。
わたしは、思わず、鞄の符に手をやった。
——放っておけば、いずれ、ぜんぶ持っていかれますわね。
いえ。
持っていかれる。
胸の内で言い直しても、背筋の冷たさは、変わらなかった。
川村さんは、わたしの視線に気づきもせず、宙の一点をぼんやりと見ている。
たぶん、向こう側を、見ているのだ。
◆◇
最後に、佐藤さんが、例の決裁書を見せてくれた。
ありふれた社内の書類だった。
隅に、社長の名前。
その下に、朱い判子。
「工事続行」と、印字された一行。
同じものが、月曜ごとに置かれてきたのだろう。
紙の角が、手の脂で、少しずつ柔らかくなっていた。
わたしはその墨と朱を視た。
ふつうなら、書いた人間の気が、わずかでも残っているはずだった。
怒りでも、迷いでも、惰性でもいい。
生きて手を動かした人間は、必ず、紙に何かを置いていく。
指の熱を。
息を。
ためらった一瞬を。
なのに、ここには、それがない。
冷たく、からっぽで、誰のものでもなかった。
死んだ人の名前を、誰かが、ただ、なぞっているだけ。
「この字」
わたしは言った。
「生きている人が書いたものじゃ、ありませんね」
佐藤さんは、答えなかった。
答えなかったのか、答えられなかったのか。
わたしには分からなかった。
ただ、湯呑みを包んだ手が、白くなるほど強く握りしめられていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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