第99話 地鎮(1)
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それでは、本編をお楽しみください。
第一章「来ない社長」
舐められている。
視るまでもなく分かった。
「こんな若い嬢ちゃんが、拝み屋ぁ?」
ヘルメットの下から、現場のおっちゃんがにやにやと見ていた。
背の高い、人の好さそうな男だ。
日に焼けた顔に土埃がついている。
悪気はない。
悪気がないからこそ、たちが悪い。
「京都から、わざわざ? お祓いなら近所の神主さんで足りるんと違うか」
——足りるなら、わたくしを呼びませんでしょう。
危ない。
「ですわ」が出かけた。
わたしは奥歯を噛んで飲み込む。
二十歳にもなって、女学院のお嬢様ごっこを続けるわけにはいかない。
あんな喋り方はもうやめた。
やめた、はずだ。
「足りないから、呼ばれたんです」
わたしは短く言った。
なるべくつまらなそうに。
おっちゃんは、ははと笑って現場へ戻っていった。
それでいい。
期待されるより、舐められているほうが、仕事はやりやすい。
——ふん。
今に吠え面かかせてさしあげますわ。
……いえ。
かかせる。
心の中の言葉まで入れ替えるのは、なかなか骨が折れる。
◆◇
高瀬建設、と看板にあった。
地方都市の、古い建設会社だ。
今度の現場は、市の真ん中の大きな再開発だった。
古いビルを何棟も潰して、新しいものを建てる。
表向きは、その地鎮祭がわりに呼ばれたことになっている。
本当の理由は、事故だった。
この現場では、夏に入ってから、おかしな事故が続いている。
足場が外れた。
資材が落ちた。
理由のわからない怪我人が、もう三人。
施主筋に大津家と縁のある人がいて、お父様のところに話が回ってきたのだ。
視える人に一度視てもらいたい、と。
お父様は、行かなかった。
代わりに、わたしを寄越した。
——わたくしを、試していらっしゃるのですわね。
いえ、んん。
試している。
一人で受けるのは、ほとんど初めての仕事だった。
失敗はできない。
鞄の中の符の束に、そっと指で触れる。
祖父の代から受け継いだ、家の符だ。
これがあるかぎり、わたしはただの生意気な小娘ではない。
……たぶん。
◆◇
工事現場の脇を通った。
ブルーシートのかかった囲い。
重機。
積まれた鉄骨。
どれも、ふつうの現場の風景だ。
けれど、足場の一角だけ、空気が縒れていた。
糸が一本、ねじれたまま固まったような感じ。
たぶん、ここで誰かが落ちた。
地面に近いところに、痛みの名残がうっすら残っている。
わたしは目を細めて、それを見ないふりで通り過ぎた。
まだ、視る順番じゃない。
順番を間違えると、足をすくわれる。
修行で、それだけは体に叩き込まれていた。
それにしても、いやな現場だ。
事故が三件と聞いて来たけれど、三件で済んでいるほうが、むしろ不思議なくらいだった。
ここには、もっと古い何かがたまっている。
足場の縒れは、その古い何かが表に出てきた、ほんの先っぽにすぎない。
根は、もっと深いところにある。
たぶん、地面の下だ。
◆◇
迎えに出てきたのは、佐藤という名の現場監督だった。
五十がらみ。
痩せて、日に焼けて、目の下に深いくまがある。
土曜だというのに、作業着のままだ。
「わざわざ、すみません」
佐藤さんは丁寧に頭を下げた。
下げながら、ちらりと腕時計に目を落とす。
それから、また現場のほうを気にした。
落ち着かない人だ。
何かに追われている人の目をしている。
「お休みじゃ、ないんですか」
わたしは訊いた。
「うちは、土日も出ますんで」
佐藤さんは当たり前のように言った。
「会社が、こんな状態なもんで。一日でも止められない」
駐車場は車で埋まっていた。
土曜の昼に、社員がみんな出ている。
ずいぶん働き者の会社だ。
それがいいことなのか悪いことなのか、わたしにはまだ分からなかった。
——でも。
門をくぐったときから、気配がよくない。
澄んでいない。
濁って、重い。
何かがこの会社の上に低く垂れ込めている。
湿った布を頭からかぶせられたような重さだ。
事故が続くのも、たぶん無関係ではない。
◆◇
「社長さんは」
わたしは何気なく訊いた。
「今日は、いらっしゃいますか」
佐藤さんの足が、ほんの少し止まった。
「……社長は、来ません」
声が低くなった。
「もう三年ほど、現場には。電話にも出ない。会社にも顔を出さない」
「三年」
「ええ」
佐藤さんは前を向いたまま言った。
「それでも、毎週月曜には、決裁だけは机に置いてある。社長の判子で。『工事続行』と、それだけ」
——来ないのに、判子だけは来る。
妙な話ですわね。
いえ、妙な話だ。
わたしは胸の内で、その言葉を転がした。
来ない社長。
届く判子。
続く事故。
別々のことのようでいて、どこかで一本の糸につながっている気がする。
陰陽師の家に生まれた人間は、こういう「つながりかけ」の感触に、わりと敏感なのだ。
ただし、感じるのと、解くのとは、まったく別の話だけれど。
◆◇
社屋は古かった。
掃除は行き届いている。
けれど、その清潔さが、かえってよそよそしい。
誰かが必死に何かを取り繕っているような清潔さだった。
階段を上がる。
二階の、いちばん奥へ。
近づくほど、気配が変わっていった。
重く濁った空気の中に、ぽつんと、ちがう種類の冷たさが混じりはじめる。
人のいない場所の冷たさだ。
何年も誰も座っていない椅子の、あの冷たさ。
社長室、と札がかかっていた。
重い木の扉だ。
佐藤さんがノックをした。
返事はない。
当たり前のように、ない。
それでも佐藤さんは一拍、待った。
三年も来ない人の部屋の前で、律儀に返事を待っている。
その背中が、いやに哀しかった。
扉が、開いた。
◆◇
中はきれいに片づいていた。
大きな机があって、革の椅子がある。
机の上には、ペン立てと、めくられたままの卓上カレンダー。
何もかも、毎日使われているように整っている。
部屋には、かすかに墨と埃のにおいがした。
古い紙のにおいもする。
けれど、人のにおいがしない。
煙草も、汗も、整髪料も。
人が毎日いる部屋なら必ず残るはずのものが、ここにはひとつもなかった。
壁の写真に、目がいった。
歴代の社長たちだ。
古い白黒の写真から、だんだん新しくなっていく。
いちばん端が、今の社長らしい。
まだ若い。
五十前くらいか。
その顔を、視た。
——同じだ。
隣の、とうに亡くなっているはずの先代と。
その隣の、先々代と。
いちばん端の、今の社長の写真からも、同じ「気」がした。
もう、こちら側にいない人の気配。
生きている人間の写真は、こんなふうには視えない。
わたしは、一歩、部屋に入った。
そして、足が止まった。
空気が、ちがう。
ここには気がない。
人の気配がまるでない。
掃除された埃のなさとは、別の話だ。
机も椅子も、たった今まで誰かがいたように整っているのに、ここには生きた人間が長いこといなかった。
ずいぶん、長いこと。
卓上カレンダーは、今月のところで開いていた。
ペンも、すぐ手に取れる位置に置かれている。
誰かが毎日、この部屋を「使っているふり」をしているのだ。
整えて、めくって、置いて。
まるで、人形遊びのように。
背筋が冷えた。
わたしは、案内の佐藤さんを振り返った。
「ここ、誰もいませんね」
言ってから、もう一度、部屋の奥を視た。
間違いない。
「——三年前から、ずっと」
佐藤さんの顔から、すうっと血の気が引いた。
「……何の、話だ」
その声が、震えていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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