第98話 火の番(3)
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それでは、本編をお楽しみください。
第五章 適任に、任す
数日後、慈恩は女を一人連れてきた。
「社労士の、青木さんです」
四十くらいの、淡々とした女だ。
化粧も薄く、笑いもしない。
鞄から紙の束を出すと、テーブルに並べた。
工場の狭い応接室だった。
隆さんと、俺と、青木さんと、三人。
慈恩は隅の椅子に、燃えカスみたいに沈んで煙草を吸っている。
何も言わない。
「重松さん」
青木さんは言った。
「数字で、お話しします」
◆◇
青木さんは、紙を一枚ずつ指でさした。
「これが、同じ地域の、同じ年代の、同じ職種の賃金の平均です。これが、藤代製作所の、あなたの支給額です」
俺は見た。
俺の額のほうが上だった。
平均より、はっきりと上だ。
「残業手当も休日手当も、規定どおり出ています」
青木さんは続けた。
「未払いはありません。むしろ他社より手厚いほうです」
「だが、俺は——」
「これは、社長の稼働の記録です」
青木さんは別の紙を出した。
「機械の出力の記録です。あなたが残業した日と、しなかった日。出来高は変わっていません。休日に出た日も同じです」
紙の上に数字が並んでいた。
冷たい数字だ。
俺の残業は、会社を一円も助けていなかった。
◆◇
俺は言葉が出ない。
金じゃなかった。
柱でもなかった。
三十年、俺が握りしめてきた物語が、数字とあの看板の両方から崩れていく。
本当は、分かっていたのかもしれない。
機械が六台、勝手に切っていくのを見るたびに、俺は自分が要らなくなっていくのを感じていた。
だから残業した。
休みに出た。
働いている、というかたちで、ここにいる理由を作っていた。
俺が欲しかったのは、金じゃない。
誰かに
「いてくれて、助かる」
と言われることだった。
だが、それは言わなかった。
口に出すような男じゃない。
性分だ。
青木さんは、最後に一枚の紙をテーブルに置いた。
「合意書です」
事務的な声だった。
「賃金の確認、労働時間、残業と休日出勤は所定の手続きでのみ。これに署名していただければ、双方を縛ります。それで、この件は終わりです」
俺はその紙を見たまま、返事をしなかった。
第六章 火の番
夜、慈恩が工場に来た。
帰り際だった。
俺は一人、倉庫の看板の前に立っていた。
慈恩は隣に来て、煙草に火をつける。
「あなたは、柱じゃない」
慈恩は言った。
「だから、倒れなくていいんです」
「……ふん」
「日曜まで出て機械と張り合っても、会社は一円も助からない。あなたが休んでも回る。——休んで、いいんですよ」
俺はしばらく黙っていた。
腹は立つ。
三十年を否定された気がした。
だが、どこかでほっとしている自分もいる。
もう五時に起きなくていい。
もう休みに工場へ来なくていい。
それをほっとしている自分がいる。
それを認めるのが、しゃくだった。
◆◇
慈恩は帰り際、隆さんにも一言だけ言った。
社長は見送りに出てきていた。
「社長。あなたも、一人で全部は危ないですよ」
慈恩は煙を吐いた。
「いつか、ぱたん、と来ます」
隆さんは、よく分からないという顔をする。
慈恩はそれ以上言わない。
深追いはしなかった。
それから慈恩は、看板のほうへ戻った。
布をすっかり取った。
倉庫のシャッターを開ける。
窓も開けた。
外の光が、夜の工場の、稼働中の六台を照らす。
機械は静かに動いていた。
明日の朝までに間に合わせる注文が、まだ残っている。
「閉じ込めるから、まだ死にかけてると思うんです」
慈恩は看板に言うように言った。
「もう死にかけてない。見てみろ、って」
それから小瓶を出した。
粗塩だ。
手のひらに出して握って、汗で溶かす。
彫られた屋号の溝を、指で一周なぞった。
投げも撒きもしない。
ただ、なぞる。
看板の奥で、ことり、と音がした。
古い屋号の彫りが、ほんの少しだけ、力を抜いたように見えた。
◆◇
後日、青木さんがもう一度来た。
合意書を持って。
俺はそれを、長いこと読んだ。
賃金のこと。
労働時間のこと。
残業と休日出勤は、所定の手続きで。
揉めごとを終わらせる、淡々とした一枚だ。
三十年、俺はなにも自分で決めてこなかった。
早く来るのも、遅く帰るのも、休みに出るのも、ぜんぶ会社のためだと自分に言い聞かせてやってきた。
誰かのためにやっている、というかたちで、自分の居場所を守ってきた。
ペンを取る手が、少し止まった。
それから、書いた。
自分の名前を、自分の手で。
重松 守、と。
紙に名前が乗る。
それだけで、もう後戻りはできない。
署名しても、特別なことは何も起きなかった。
青木さんは紙をしまって、
「これで終わりです」
と言う。
慈恩はもう、いなかった。
◆◇
翌日から、俺は定時で帰った。
残業をつけない。
日曜に工場へ行かない。
劇的なことは何も起きない。
会社に残って、自分の仕事をして、帰る。
それだけだ。
ある日、隆さんが現場に寄った。
珍しいことだ。
俺の仕上げた板を手に取って、しばらく見ていた。
それから、ぼそりと言う。
「仕上げ、重松さんのが、いちばん綺麗です」
線の細い声だった。
「あれは、機械にできない」
「……当たり前だ」
俺はそう返した。
だが、悪い気はしなかった。
三十年。
たぶん、これが欲しかった。
長くいたことじゃない。
誰より働いたことでもない。
この手の腕を、認められること。
たった、それだけのことだった。
◆◇
日曜の朝。
やはり五時に目が覚める。
体が門のほうへ向こうとする。
三十年の癖だ。
俺は、行かなかった。
布団の中で、もう一度目を閉じる。
看板はもう鳴らない。
倉庫は静かだ。
久しぶりに昼まで寝た。
何をするでもない。
湯を沸かして、茶を淹れる。
やることがなかった。
「……たまには、こういうのも、悪くない」
誰にともなく、そう言った。
◆◇
どこの町だか、いまも、あの若い拝み屋は車の中で煙草を吸っているはずだ。
屋号も持たない、まともな看板も掲げない。
段ボールに
「拝み屋」
とだけ書いて、車の前に立てるだけ。
誰にも店を分け持たせないまま。
一人で、夜通し。
あの男こそ、まだ火の番をやめられずにいるのだと、俺は思った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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