表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
燃えカスの守り人  作者: K3
理不尽な会社

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

71/87

第98話 火の番(3)

月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!


ぜひお楽しみに!


それでは、本編をお楽しみください。


第五章 適任に、任す


 数日後、慈恩は女を一人連れてきた。


「社労士の、青木さんです」


 四十くらいの、淡々とした女だ。


 化粧も薄く、笑いもしない。


 鞄から紙の束を出すと、テーブルに並べた。


 工場の狭い応接室だった。


 隆さんと、俺と、青木さんと、三人。


 慈恩は隅の椅子に、燃えカスみたいに沈んで煙草を吸っている。


 何も言わない。


「重松さん」


 青木さんは言った。


「数字で、お話しします」


  ◆◇


 青木さんは、紙を一枚ずつ指でさした。


「これが、同じ地域の、同じ年代の、同じ職種の賃金の平均です。これが、藤代製作所の、あなたの支給額です」


 俺は見た。


 俺の額のほうが上だった。


 平均より、はっきりと上だ。


「残業手当も休日手当も、規定どおり出ています」


 青木さんは続けた。


「未払いはありません。むしろ他社より手厚いほうです」


「だが、俺は——」


「これは、社長の稼働の記録です」


 青木さんは別の紙を出した。


「機械の出力の記録です。あなたが残業した日と、しなかった日。出来高は変わっていません。休日に出た日も同じです」


 紙の上に数字が並んでいた。


 冷たい数字だ。


 俺の残業は、会社を一円も助けていなかった。


  ◆◇


 俺は言葉が出ない。


 金じゃなかった。


 柱でもなかった。


 三十年、俺が握りしめてきた物語が、数字とあの看板の両方から崩れていく。


 本当は、分かっていたのかもしれない。


 機械が六台、勝手に切っていくのを見るたびに、俺は自分が要らなくなっていくのを感じていた。


 だから残業した。


 休みに出た。


 働いている、というかたちで、ここにいる理由を作っていた。


 俺が欲しかったのは、金じゃない。


 誰かに


「いてくれて、助かる」


 と言われることだった。


 だが、それは言わなかった。


 口に出すような男じゃない。


 性分だ。


 青木さんは、最後に一枚の紙をテーブルに置いた。


「合意書です」


 事務的な声だった。


「賃金の確認、労働時間、残業と休日出勤は所定の手続きでのみ。これに署名していただければ、双方を縛ります。それで、この件は終わりです」


 俺はその紙を見たまま、返事をしなかった。


第六章 火の番


 夜、慈恩が工場に来た。


 帰り際だった。


 俺は一人、倉庫の看板の前に立っていた。


 慈恩は隣に来て、煙草に火をつける。


「あなたは、柱じゃない」


 慈恩は言った。


「だから、倒れなくていいんです」


「……ふん」


「日曜まで出て機械と張り合っても、会社は一円も助からない。あなたが休んでも回る。——休んで、いいんですよ」


 俺はしばらく黙っていた。


 腹は立つ。


 三十年を否定された気がした。


 だが、どこかでほっとしている自分もいる。


 もう五時に起きなくていい。


 もう休みに工場へ来なくていい。


 それをほっとしている自分がいる。


 それを認めるのが、しゃくだった。


  ◆◇


 慈恩は帰り際、隆さんにも一言だけ言った。


 社長は見送りに出てきていた。


「社長。あなたも、一人で全部は危ないですよ」


 慈恩は煙を吐いた。


「いつか、ぱたん、と来ます」


 隆さんは、よく分からないという顔をする。


 慈恩はそれ以上言わない。


 深追いはしなかった。


 それから慈恩は、看板のほうへ戻った。


 布をすっかり取った。


 倉庫のシャッターを開ける。


 窓も開けた。


 外の光が、夜の工場の、稼働中の六台を照らす。


 機械は静かに動いていた。


 明日の朝までに間に合わせる注文が、まだ残っている。


「閉じ込めるから、まだ死にかけてると思うんです」


 慈恩は看板に言うように言った。


「もう死にかけてない。見てみろ、って」


 それから小瓶を出した。


 粗塩だ。


 手のひらに出して握って、汗で溶かす。


 彫られた屋号の溝を、指で一周なぞった。


 投げも撒きもしない。


 ただ、なぞる。


 看板の奥で、ことり、と音がした。


 古い屋号の彫りが、ほんの少しだけ、力を抜いたように見えた。


  ◆◇


 後日、青木さんがもう一度来た。


 合意書を持って。


 俺はそれを、長いこと読んだ。


 賃金のこと。


 労働時間のこと。


 残業と休日出勤は、所定の手続きで。


 揉めごとを終わらせる、淡々とした一枚だ。


 三十年、俺はなにも自分で決めてこなかった。


 早く来るのも、遅く帰るのも、休みに出るのも、ぜんぶ会社のためだと自分に言い聞かせてやってきた。


 誰かのためにやっている、というかたちで、自分の居場所を守ってきた。


 ペンを取る手が、少し止まった。


 それから、書いた。


 自分の名前を、自分の手で。


 重松 守、と。


 紙に名前が乗る。


 それだけで、もう後戻りはできない。


 署名しても、特別なことは何も起きなかった。


 青木さんは紙をしまって、


「これで終わりです」


 と言う。


 慈恩はもう、いなかった。


  ◆◇


 翌日から、俺は定時で帰った。


 残業をつけない。


 日曜に工場へ行かない。


 劇的なことは何も起きない。


 会社に残って、自分の仕事をして、帰る。


 それだけだ。


 ある日、隆さんが現場に寄った。


 珍しいことだ。


 俺の仕上げた板を手に取って、しばらく見ていた。


 それから、ぼそりと言う。


「仕上げ、重松さんのが、いちばん綺麗です」


 線の細い声だった。


「あれは、機械にできない」


「……当たり前だ」


 俺はそう返した。


 だが、悪い気はしなかった。


 三十年。


 たぶん、これが欲しかった。


 長くいたことじゃない。


 誰より働いたことでもない。


 この手の腕を、認められること。


 たった、それだけのことだった。


  ◆◇


 日曜の朝。


 やはり五時に目が覚める。


 体が門のほうへ向こうとする。


 三十年の癖だ。


 俺は、行かなかった。


 布団の中で、もう一度目を閉じる。


 看板はもう鳴らない。


 倉庫は静かだ。


 久しぶりに昼まで寝た。


 何をするでもない。


 湯を沸かして、茶を淹れる。


 やることがなかった。


「……たまには、こういうのも、悪くない」


 誰にともなく、そう言った。


  ◆◇


 どこの町だか、いまも、あの若い拝み屋は車の中で煙草を吸っているはずだ。


 屋号も持たない、まともな看板も掲げない。


 段ボールに


「拝み屋」


 とだけ書いて、車の前に立てるだけ。


 誰にも店を分け持たせないまま。


 一人で、夜通し。


 あの男こそ、まだ火の番をやめられずにいるのだと、俺は思った。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!

ぜひお楽しみに!


★感想・評価をいただけると、執筆の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ