第97話 火の番(2)
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それでは、本編をお楽しみください。
第三章 調べる
男は——慈恩と名乗った——三日、音沙汰がなかった。
その間、俺は工場でいつもどおり働いた。
いや、いつもよりよく働いた。
誰かに見られている気がして、手が止められない。
機械が六台、静かに鉄板を切っていく。
レーザーの光が線を引く。
俺のやることは、その後の仕上げだけだ。
バリを取って、角を丸めて、磨く。
昔はこうじゃなかった。
潰れかけていた頃、機械は一台きりだった。
古い手回しのやつだ。
あれを先代と俺と、もう一人で夜通し回した。
納期に追われて、止めたら終わりだった。
止めたら会社が死ぬ。
そう思って回し続けた。
指の皮が剥けても回した。
あの頃の俺は、確かに柱だった。
今は。
◆◇
四日目に、慈恩から電話があった。
また、あの車のところに呼ばれた。
「調べました」
慈恩は煙草に火をつけながら言った。
「三年前、藤代製作所は潰れかけてましたね」
「ああ」
「先代が倒れて、借金が残って、銀行が引きかけた。注文も減ってた。あのまま行けば半年で畳んでた」
俺は黙ってうなずく。
あの頃のことは思い出したくない。
「それを、隆さんが継いだ」
慈恩は続けた。
「あの人、手仕事の才能は無いんですよ。職人にはなれない。本人も分かってた」
「だろうな」
俺は鼻で笑った。
「ありゃ現場の人間じゃねえ」
「でも、別の才能があった」
慈恩はまっすぐ俺を見る。
糸目のままだったが、奥で何かが光った気がした。
「仕組みを作る才能です。段取り、自動化、数字。あの人はそれで会社を立て直した。機械を入れてプログラムを組んで、注文を全国から取ってきた」
「全国から?」
「ええ。あの人が工場に来ないのは、サボってるんじゃない。朝から晩まで、家でも新幹線でも、受注も設計も機械の制御も、一人でやってる。あなたが寝てる時間も働いてます」
俺は言葉が出ない。
来ない社長は、俺の知らないところで夜通し働いていた。
画面の向こうで。
俺の見えないところで。
◆◇
「それと」
慈恩は灰を落とした。
「あなたの残業ですけどね」
「ああ」
「会社の数字には、一円も足してない」
俺は慈恩を睨んだ。
「どういう意味だ」
「機械が六台、定時で全部切り終える。仕上げもあなたが定時でやれば間に合う。あなたが夜に残ってやってる分は、次の朝でも間に合う仕事です。休日に出てるのも急ぎじゃない。——会社はあなたの残業で儲かってない。回ってるのは、機械と社長のおかげです」
頭に血がのぼった。
「ふざけるな。俺は三十年——」
「分かってます」
慈恩は静かに言った。
「三十年。誰よりも働いた。それは本当だ。ぼくは嘘は言いません」
その言い方に、俺は口をつぐんだ。
慈恩は煙を吐く。
それから、こう言った。
「明日、社長を連れてきます。工場に」
「社長を? あの来ない男を、あんたが?」
「ええ」
慈恩はすこし笑った。
「ぼくは動かしませんよ。社長が、自分で来ます」
第四章 社長同伴
翌日、社長が工場に来た。
三年ぶりに見る隆さんは痩せていた。
目の下に濃いクマがある。
線の細い男だと思っていたが、近くで見ると、その細さは削られた細さだ。
何かをずっと削り続けている人間の顔だった。
その隣に慈恩がいた。
よれたシャツに痩せた体。
二人ともやつれて、似た者同士に見える。
「重松さん」
隆さんが頭を下げた。
「ご無沙汰、してます」
俺は何と言っていいか分からない。
文句ならいくらでもあった。
なのに本人を前にすると、言葉が出てこない。
隆さんもそれきり黙った。
データの話ならいくらでもできる男なんだろう。
だが、人と向き合う言葉を持っていない。
気まずい沈黙の中、慈恩だけが、すたすたと倉庫のほうへ歩いていく。
◆◇
慈恩は、倉庫の隅の、布をかけた看板の前で足を止めた。
「これ、外したの、いつです」
「……新しいのに替えたとき」
隆さんが答えた。
「三年前です」
「捨てるに捨てられなくて」
俺は言った。
「俺がそこに置いた」
慈恩は布をめくった。
古い看板が出てきた。
先代が彫った、
「藤代製作所」
の字。
墨が薄くなって、木がささくれている。
慈恩はその前にしゃがんだ。
そして、目を開けた。
それまで糸だった目がひらく。
中の目は黒くて、底がなかった。
看板をまっすぐ見ている。
見ながら、顔がすこしずつこわばっていく。
胡散臭い、食えない男の顔が、急に青ざめた。
「百年分の“潰れる”が、こもってますね」
慈恩は低い声で言った。
「この三年で。たった三年で、百年分だ」
◆◇
「こいつは、知ってるんですよ」
慈恩は看板から目を離さない。
「誰が、この会社を生かしてるか」
俺はつばを飲んだ。
「俺だ」
声が震えた。
慈恩は首を振らない。
否定もしない。
ただ俺のほうを見た。
底のない、黒い目で。
「社長が辞めたら、この会社は潰れますよ」
慈恩は言った。
「——あなたが辞めても、たぶん、回ります」
頭を殴られたようだった。
潰れかけた頃、俺は柱だった。
止めたら終わる機械を、夜通し回した。
会社は俺の手の中にあった。
その物語が、いま、会社の名前そのものに否定された。
俺は、柱じゃない。
看板がそう言っている。
「……じゃあ、俺の三十年は」
俺は絞り出した。
「何だったんだ」
声が低かった。
怒鳴りもしない。
泣きもしない。
ただ、足元が抜けたようだった。
慈恩は答えない。
隆さんも、何も言えずに立っている。
倉庫の中で、看板だけが、静かにこちらを見ていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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