第96話 火の番(1)
月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!
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それでは、本編をお楽しみください。
第一章 休みの日が、いちばん疲れる
休みの日が、いちばん疲れる。
朝の五時に体が勝手に起きる。
三十年、その時間に工場の門を開けてきた。
会社が潰れかけていた頃は誰より早く来て、遅くまで残った。
あの頃の体がまだ俺の中で動いている。
やめろと言っても起きてしまう。
夜中に音がする。
倉庫のほうだ。
カタ、と低く。
風もないのに。
古い看板だ。
先代が手で彫った、
「藤代製作所」
。
新しいのに替えたとき、俺が捨てさせなかった。
倉庫の隅に布をかけて立てかけてある。
誰も触らない。
なのに夜になると鳴る。
まるで工場がちゃんと回っているか確かめるみたいに。
昼間、機械は六台が勝手に図面どおりに切ってくれる。
コンピューターが寸法も枚数も全部覚えている。
俺がいなくても定時で全部終わる。
終わってしまう。
それが、気に入らない。
◆◇
月曜の朝、また給料明細を見た。
手取りは、まあ、悪くない。
だが俺ほど働いている人間はこの工場にいない。
休みも出る。
残業もする。
誰よりも会社に尽くしている。
俺がいなけりゃこの工場は回らない。
なのに若い社長は、一度も
「ありがとう」
と言わない。
そもそも工場に来ない。
家だか出先だか知らないが、画面の向こうで何をしているのか、俺には分からない。
先代は毎朝いちばんに来ていた。
油の匂いの中で、俺たちと同じ作業着を着て、同じ飯を食う人だった。
それが社長ってもんだろう。
今の社長は、隆さんは、その息子だ。
三年前、先代が体を壊して引いてから継いだ。
線の細い、パソコンばかりいじっている男だ。
あれが工場を継いだと聞いたとき、俺はこの会社は終わるなと思った。
終わらなかった。
それどころか注文は増えた。
機械が増えた。
人も若いのが二人入った。
だが俺の給料は、たいして上がっていない。
働きに給料が合っていない。
もっと貰っていいはずだ。
誰か、何とかしてくれ。
◆◇
紹介カードは、ロッカーに挟まっていた。
崩れた字で、電話番号がひとつ。
住所はない。
隅に一言、
「拝み屋。胡散臭いけど、本物。たいてい駅前に、車を停めてる」
。
誰が入れたのかは分からない。
若いのの悪戯かとも思ったが、あいつらの字じゃない。
拝み屋なんぞに用はない。
最初はそう思った。
俺が言いたいのはもっと真っ当な、金の話だ。
神頼みで給料が上がるなら世話はない。
でも、半月、迷った。
看板が鳴るからだ。
誰も触っていないのに、カタ、と。
休みの日に布団から出られないのは、五時に起きてしまったあと、行く工場がもう俺を待っていない気がするからだ。
それでも体は門のほうへ向く。
ちゃんと働いているか、誰かに見られている気がする。
誰に。
考えると、背中が冷たくなった。
俺は、電話をかけた。
◆◇
駅前のはずれ、月極の駐車場の隅に、古いワゴンが一台停まっていた。
フロントガラスに段ボールが立てかけてある。
太い字で、
「拝み屋」
。
それだけだ。
車のうしろのハッチが開いていて、その縁に、思っていたよりずっと若い男が腰かけていた。
二十代の半ば、いや、もう少し上か。
よれたシャツ。
痩せて肌が白い。
糸みたいに細い目。
寝ているのか起きているのか分からない顔だ。
男はポケットから小さな灰皿を出して、細い煙草に火をつけた。
「で」
男は言った。
「何が、勝手に鳴ります」
俺はまだ、看板の音の話を一言もしていなかった。
第二章 来ない社長
「……看板だ」
気づいたら、そう言っていた。
男の糸目に引っぱり出された。
「工場の倉庫にある。先代が彫った古い看板だ。誰も触らねえのに、夜中に鳴る」
「なるほど」
男は煙を吐いた。
まっすぐ伸びた煙が揺れない。
「でも、あんたに頼みたいのはそれじゃねえ」
俺は背を起こした。
「金だ。給料の話だ」
「はい」
「俺は三十年、あの工場にいる。先代の代からだ。潰れかけたときも辞めずに残った。誰よりも早く来て、遅くまで残る。休みだって出る。なのに給料は若いのとたいして変わらねえ。社長は礼の一つも言わねえ。顔も見せねえ」
言いながら、腹の底が熱くなる。
三十年、誰にも言えなかった。
言う相手がいなかった。
「俺がいねえと、あの工場は回らねえ。それを誰も分かってねえ」
男は聞いていた。
糸目のまま、灰皿に灰を落とす。
それから自分の手の甲を、ちらりと見た。
何かを確かめるような目だった。
なんでこんなときに自分の手を見るのか、俺には分からない。
「手、見せてもらっていいですか」
「あ?」
差し出すと、男は俺の手を見た。
触りはしない。
ただ見る。
「いい手だ」
ぼそりと言った。
「仕上げ、あなたでしょう。バリ取りも、磨きも」
なんで分かる。
俺は何も言っていない。
「占いみたいなもんです」
男は煙を吐いた。
◆◇
「会社の名前、聞いていいですか」
「藤代製作所」
その名前を出した瞬間。
男の煙草が止まった。
糸目がわずかに動く。
煙はまっすぐ伸びたまま、揺れなかった。
短い間だ。
だが確かに止まった。
「……知ってるのか」
「いえ」
男は煙を見ていた。
「昔、近くにいただけです」
それきり、男は黙った。
何かを考えている顔だった。
いや、考えるというより、思い出している顔だ。
「あんた、いくつだ」
俺は訊いた。
「二十九です」
「二十九で、拝み屋か」
「ええ。めんどくせぇ商売ですよ」
男はそう言って、すこし笑った。
笑うと、急に子供みたいな顔になる。
◆◇
「重松さん」
名乗ったか、俺は。
名乗っていない。
背筋がまた冷たくなった。
「給料の話は、ぼくの仕事じゃない」
男は言った。
「それは、あなたと、紙の人がやることです。数字を出して紙に書いて、判を押す。ぼくにはできません」
「じゃあ、あんたは何をする」
男は灰皿の火を消した。
立ち上がりながら、こう言う。
「あの工場の屋号が、何を怖がってるのか。それだけ、見にいきます」
屋号が、怖がる。
俺には意味が分からなかった。
だがその言葉を聞いたとき、倉庫の看板の、カタ、という音が、耳の奥でよみがえった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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