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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
内定、なかったことに

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第5話 いってきます

時間ができた時にも随時更新します!

ぜひお楽しみに!


 四月の終わりになっても、市原さんは七時二十分に家を出ているはずだった。


 ノートのことは、見せてもらった日の夜に、奥へ向かって一度だけ言った。返ってきたのは「あー、はい」だけだった。


 わたしはスーパーの二階へ行かなくなった。行けば会えることは分かっていたし、会えばまた向かいに座ることになる。座って、三十分だけ話して、市原さんはまた柱の下に残る。それを続けるのは、待っているのではなくて、付き合っているのだと思った。


 だから行かなかった。


 行かない日は長かった。月末の支払いは、いつもの月と同じ数だけあって、いつもの月と同じ時間で終わった。


 週が明けた月曜の昼過ぎに、エレベーターが十階で止まった。


 ノックが二回鳴った。


 市原さんだった。紺のスーツで、髪を結んで、鞄を体の前で持っている。前と同じ格好だ。違うのは、パンプスの底が濡れていたことだった。晴れていたのに濡れていた。どこかを歩いてきたのだと思う。


 「どうぞ」


 「うん」


 市原さんは入って、前と同じソファに座った。奥の部屋のドアは閉まっていた。中に人はいる。煙草の匂いがしている。ドアは開かなかった。


 わたしはお茶を出して、向かいに座った。


 市原さんは湯呑みを持って、今度は一口飲んだ。


 「昨日の朝、母に言われた」


 「うん」


 「保険証、まだ来ないの、って」


 湯呑みを置く音がした。


 「入ったら来るものらしくて。母は前の会社のときそうだったから」


 「うん」


 「まだ手続き中みたい、って言った」


 市原さんは膝の上で指を組んだ。爪は短く切ってある。


 「連休、どっか行こうって言われてる」


 「うん」


 「あんたの会社の近く、大きい店できたらしいから、ついでに見てこようって」


 わたしは何も言わなかった。


 連休は、今週の終わりから始まる。


 「その日までに、なんとかならないかなって思ってた」


 「なんとか、って」


 「どこか受かるとか」


 市原さんは笑おうとして、途中でやめた。


 「ひと月近く、毎朝ちゃんと出てたら、そのうち本当になる気がしてた」


 部屋が静かになった。奥のドアの向こうで、椅子が一度鳴った。それだけだった。慈恩さんは出てこなかった。


 「今日、言う」


 市原さんが言った。


 「うん」


 「言えるかは、分かんないけど」


 「うん」


 わたしは、そのあとに続ける言葉を持っていなかった。持っていなくてよかったのだと思う。


 夕方、市原さんの家まで一緒に行った。


 電車を降りて、坂を上って、二本目の角を曲がったところだった。二階建ての、青いトタンの屋根の家で、門と玄関のあいだが三歩しかない。門の柱に表札が出ている。


 新聞受けに、封筒が一通、斜めに刺さっていた。


 厚い封筒だった。就職情報誌の名前が隅に刷ってある。表の窓から、宛名が見えていた。


 市原早苗様。


 その下に、細い字で一行入っていた。


 二〇〇九年三月卒業予定のみなさまへ。


 市原さんは封筒を抜いて、二つに折って、鞄に入れた。折り目を、指で強く押していた。


 「毎朝ね」


 市原さんが門の前で言った。


 「いってきますって言って出てるんだ。ひと月近く、一日も抜かしてない」


 「うん」


 「変な話、あれだけは嘘じゃないんだよ。ちゃんと出てるんだから」


 わたしは門の外に立った。


 「部長、帰っていいよ」


 「待ってる」


 「長くなるかもよ」


 「待ってる」


 市原さんは、それ以上言わなかった。玄関の鍵を開けて、中に入って、扉を閉めた。


 わたしは門の外にいた。


 中の声は聞こえなかった。窓は閉まっていて、台所のほうだけ明かりがついている。すりガラスの向こうで、人の形が二つ、動いたり止まったりしていた。三つになった。三つのうち一つだけ、頭の位置が高い。


 台所の明かりが一度消えて、居間のほうに明かりがついた。形は、そちらのすりガラスへ移った。低くなって、また高くなって、また低くなる。座って、立って、また座る。


 しばらくして、また二つになった。


 残った二つのうち、一つが動かなくなった。動かないまま、長く動かなかった。


 長かった。


 向かいの家の犬が一度だけ鳴いた。坂の下から、自転車の音が上がってきて、通り過ぎていった。空の色が、屋根の上のほうから順に落ちていく。


 門柱のところに、傘立てが置いてあった。中に、透明のビニール傘が三本と、子ども用の黄色い傘が一本入っている。黄色いのは、もう何年も使っていない大きさだった。


 わたしは腕時計を見なかった。数えはじめたら、そのぶん早く帰りたくなる。門の外でできることは、立っていることだけだった。


 玄関の電気がついた。


 扉が開いて、市原さんが出てきた。


 泣いていなかった。目のふちが赤くなっていたけれど、涙は出ていない。上着はもう着ていなくて、シャツのままだった。


 門のところまで来て、わたしの前に立った。


 「言った」


 「うん」


 「なくなってた、って言った。一月から」


 「うん」


 市原さんは、そこで一度、下を向いた。


 「怒られなかった。父は黙ってた。母が、ごはん食べたのって訊いてきた」


 「うん」


 「それが、いちばんきつかった」


 わたしは頷いた。


 「明日は、七時二十分に出ない」


 それだけだった。


 次のことは何も言わなかった。どこかへ行くとも、何をするとも、いつからとも言わなかった。わたしも訊かなかった。


 坂を下りるところまで、市原さんは送ってきた。街灯が一つ飛ばしでついていて、明るいところと暗いところが交互にある。


 「部長」


 暗いところで呼ばれた。


 「うん」


 「また来ていい? あそこ」


 「うん」


 同じ呼び名だった。高校の廊下で聞いたのと、スーパーの二階で聞いたのと、同じ二文字だった。それなのに、こちらの受け取り方だけが変わっている。


 駅で別れて、事務所に戻った。


 十階は明かりが点いたままだった。奥の部屋のドアの下にも、細い線が出ている。テーブルの上は片づいていて、灰皿は洗ってあった。


 わたしは自分の机の書類をそろえて、明日の分を左に寄せた。


 奥から声がした。


 「ノート、まだ持ってました?」


 「持ってました」


 少し間があった。


 「……そうですかー」


 紙をめくる音がして、それきりだった。


 わたしは窓のブラインドを下ろして、テーブルの湯呑みを流しに置いて、入口のスイッチまで歩いた。


 奥の線は、まだ出ている。


 わたしは事務所の明かりを、端から順に落とした。


 最後の一つを、消した。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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