第4話 三通り
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翌朝、灰皿がそのままになっていた。
昨日の四本が、吸い口を同じ向きにそろえて入っている。テーブルの上には、湯呑みが一つ。縁まで澄んだままだった。
わたしはそれを下げて、灰皿を洗った。
奥の部屋のドアは閉まっていた。
中に人はいる。煙草の匂いが、ドアの下から出ている。朝いちばんの部屋にしては、匂いが濃かった。椅子が一度鳴って、そのあと紙をめくる音がした。
わたしはドアの前まで行った。
訊きたいことは、いくつかあった。あの言葉は何だったのか。追わなくてよかったのか。次はどうすればいいのか。
ノックはしなかった。
訊けば、たぶん答えは返ってくる。返ってきた答えのとおりに動けば、わたしは自分で決めたことを一つも持たないまま、市原さんの前に立つことになる。
手を下ろして、机に戻った。
十時を過ぎたころ、奥のドアが開いて、慈恩さんは一階へ降りていった。毎日一度、必ずそうする。降りて、しばらくして、上がってくる。上がってきても、わたしの机の前は通らない。
その日から、わたしは昼にスーパーの二階へ行った。
一日目も二日目も、市原さんは柱の下の席にいた。わたしは離れたテーブルに座った。目は合わなかった。
二日目に一つだけ違ったのは、市原さんが十一時ごろに立って、通路の端の鏡の前で髪を結び直したことだった。結び直して、上着の肩の埃を払って、また同じ席に戻った。誰も見ていない場所で、身なりを整えていた。
三日目に、市原さんのほうから来た。
湯呑みではなく、紙コップのお茶を二つ持っていた。片方をわたしの前に置いて、向かいの丸椅子に座った。座って、上着の裾を引いた。
「怒ったのは、あの人にじゃない」
「うん」
「あの人、正しかったし」
「うん」
「正しいこと言われたら、腹が立つんだよね」
紙コップの縁を、親指の爪で押していた。押した跡が、縁に一列並んでいた。
「部長にも、悪かった」
「気にしてない」
「気にしてよ」
市原さんは笑った。今度は、目のほうが先に動いた。
それから鞄を膝にのせて、口を開けて、ノートを出した。
大学ノートだった。表紙には何も書いていない。角は丸くなって、真ん中が厚い。表紙は、めくる指の当たるところだけ色が薄い。開くと、綴じのところに紙の毛羽が立っていた。
「これ、見る?」
「見ていいの」
「部長なら」
市原さんはノートをテーブルに置いて、こちらへ向けて回した。
最初のページに、質問が一つ書いてあった。
志望動機を教えてください。
その下に、①、②、③と番号が振ってある。
①は短い。②は少し長い。③は、簿記の勉強の話から始まって、七行あった。行の頭がそろっている。定規で線を引いたわけではないのに、そろっている。字の大きさも、最初の行から最後の行まで変わらない。
次のページも同じだった。
学生時代に力を入れたことは何ですか。①、②、③。
人と意見が食い違ったとき、どうしますか。①、②、③。
十年後、どうなっていたいですか。①、②、③。
途中に、鉛筆で消した跡が残っているところがあった。消した上から、また同じくらいの大きさの字が書いてある。消しゴムをかけすぎて、紙が薄くなって毛羽立っているところもあった。そこだけ、字がにじんでいる。
ページの下のほうに、小さく書き足しがあった。声の大きさ、と書いてある。もう一つは、最初のひと言、と書いてある。答えの中身ではなく、答え方についての注意だった。
「面接って、同じことしか訊かれないから」
市原さんが言った。
「相手によって、どれを出すか変える」
「三つも要る?」
「二つだと、選んでる感じになるでしょ」
ページをめくった。
あなたの短所は何ですか。
①、②、③。
短所も三通りあった。
わたしは、その三つを順番に読んだ。どれも本当のことのように読める。どれも、そのあとに「直そうとしています」で終わっている。
「どれが本当なの」
「全部かなあ」
市原さんは紙コップを回した。
「本当のは、書かないよ」
ノートは、まだ半分より前だった。後ろのほうは白いページが続いている。わたしがめくっていくと、市原さんは止めなかった。
白いページのなかに、一枚だけ、字のあるページがあった。上に、四月の日付。その下に、志望動機を教えてください、と一行。①の横に、二文字だけ書いて、消してある。消した跡だけが残っていた。
そのあとは白いままで、白いページが終わる少し手前に、もう一度、字があった。
最後のページだった。
いちばん上に日付がある。一月の終わりの日付だった。その横に時刻が書いてある。十七時四十分と、分まで書いてある。
次の行に、電話をかけてきた人の苗字と、部署の名前。
その下に、言われた言葉が、そのまま書いてあった。
文の途中で切れているところもあった。「あの」とか「その」とか、言い直しの部分まで残っている。相手が言葉を選んで、選び直したところが、そのまま並んでいる。書き取る手が、相手の速さに追いついている。
最後の行だけ、少し字が大きい。
なかったことにさせてください。
わたしはページから顔を上げた。
市原さんは、休憩コーナーの自動販売機のほうを見ていた。電気の消えているほうを見ていた。
「書いちゃうんだよね、勝手に手が」
「うん」
「電話切ったあと、気づいたらメモしてた。誰も読まないのに」
「うん」
「変だよね」
わたしは変だと思わなかった。
その手が、今も毎朝、決まった時刻に家の戸を開けさせている。
四月に入ってから、ずっとなのだと思う。四月の一日から数えれば、三週間になる。三週間、一日も遅れずに、あの柱の下まで通っている。
市原さんはノートを引き寄せて、最後のページを指で押さえた。押さえたまま、少し黙っていた。
「部長」
「うん」
「明日も、七時二十分に出るよ」
そう言って、ノートを閉じた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




