第1話 外回り
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四月に入って十日も経たない朝から、雨だった。
信用金庫の用は十一時前に終わった。窓口の番号札を返して、振込の控えを鞄に入れる。通帳に印字が入る音は、いつ聞いても同じ速さで進んで、最後の一行だけ少し遅れる。
表へ出ると、傘の骨のあいだから細かい雨が入ってきた。駅の東口までは、雨の日なら駅前のスーパーの二階を抜けたほうが早い。一階の食品売り場から上がって、二階の連絡通路を渡れば、そのまま改札の前に出る。
二階は、平日の午前だと人がいない。
有線放送が低く鳴っている。曲は途中から始まって、途中で終わる。衣料品の棚が二列、寝具の棚が一列。四月なのに、まだ毛布の値札が下がったままになっている。その奥に休憩コーナーがある。丸いテーブルが三つと、背もたれのない丸椅子。自動販売機が二台あって、片方は電気が消えている。消えているほうの取り出し口に、埃が薄くたまっていた。
柱に、白い紙が貼ってあった。
ご休憩は三十分以内でお願いいたします。
その真下の席に、人が座っていた。
紺のスーツだった。上着の肩がきちんと落ちて、膝の上に鞄を置いて、背を伸ばしている。テーブルの上には何も出ていない。飲み物も、雑誌も、携帯電話も出ていない。
通り過ぎようとして、目が合った。
「部長」
そう呼ばれたのは、二年ぶりだった。
「市原さん」
わたしは足を止めた。
市原さんは立ち上がって、スカートの前を手で伸ばした。皺は寄っていなかった。髪は後ろで一つに結んである。口紅の色は薄くて、それも高校のときと同じ薄さだった。上着の胸に、名札を留めるための穴は開いていない。
「久しぶり。びっくりした、ほんとに部長だ」
「久しぶり」
「変わらないね」
「伸びてない」
「わたしも伸びてない」
高校を出たのが二年前の三月で、それから一度も会っていない。同じ市内にいて会わないというのは、そういうものだと思う。
「仕事?」
市原さんが、わたしの鞄のほうを見て言った。
「うん。そこの信金に」
「そっか。部長、就職したんだもんね」
「市原さんは」
訊いてから、雨の音が急に大きくなった気がした。連絡通路のガラスに、水の筋が何本も走っている。
「今日は外回り」
市原さんは、そう言った。
「そうなんだ」
「うち、事務なんだけどね。こういう日にかぎって外」
「大変だ」
「ほんとにね」
市原さんは笑った。笑い方は高校のときと同じだった。口の端だけが上がって、目はそんなに動かない。
「部長はどんな仕事なの」
「お金の計算と、書類」
「かっこいい」
「そんなことない」
「かっこいいよ」
そのあと、天気の話を少しした。連休はどうするとか、去年の秋から景気が急に悪くなったとか、そういう話だった。三分くらいだったと思う。
「じゃ、わたし、次があるから」
市原さんが鞄を持ち直した。
鞄の腹が、ぺたんと合わさっていた。中で何かが動く音はしなかった。
「うん」
「またね、部長」
市原さんは下りのエスカレーターのほうへ歩いていった。歩き方も高校のときと同じで、踵から降ろす。
わたしは連絡通路を渡った。
事務所へ戻ったら、午後は月末の支払いの控えをそろえる。頭の中でそこまで並べてから、鞄に手を入れた。
わたしは定期を出そうとして、鞄の口を開けた。
そこで、引っかかった。一つ目は、鞄だった。外回りに出る人の鞄には、書類が入っている。挟むものが入っている。判が入っている。事務の人ならなおさら、持って出るものが決まっている。
わたしは券売機の前で立ち止まった。
二つ目は、靴だった。
立ち上がったとき、靴の裏が見えた。黒いパンプスで、底が乾いていた。それだけなら、屋内にいたのだから当たり前だ。けれど、底の外側の減り方がなかった。爪先の内側だけが、かすかに白くなっている。あれは、歩いてついた白さではない。長く座って、爪先だけを床につけている人の白さだ。
三つ目は、膝の上にあった。
鞄の上に、布の袋がのっていた。花柄の、口を絞って結ぶ袋だった。結び目が、朝のままの形をしていた。
外回りに、弁当は持って出ない。
持って出たとしても、十一時を回っていた。結び目は、いちど解かれた形になっていない。
わたしの仕事は、書類の数と物の数を合わせることだ。伝票が一枚多ければ、必ずどこかに一枚足りない場所がある。それを探すのに、勘は使わない。並べて、順番に見る。合わないものは、たいてい三つ目で分かる。
三つが順に噛み合って、最後に、柱の紙が戻ってきた。
ご休憩は三十分以内でお願いいたします。
わたしはあの席に、何時から座っていたのかを訊かなかった。訊く理由がなかったからだ。市原さんは「今日は外回り」と言った。わたしはそれを信じた。信じたというより、それ以外の受け取り方をしなかった。
定期を鞄に戻した。
改札を通らなかった。
連絡通路を逆に渡って、二階へ入る。衣料品の棚を抜けて、寝具の棚を抜けて、休憩コーナーの前に立った。
誰もいなかった。
丸椅子が二つ、テーブルの下に押し込まれている。市原さんが座っていた一つだけ、少しだけ外へ出ていた。座面に凹みはない。硬い椅子だから、跡は残らない。
自動販売機の下に、缶の落ちる音がした。誰かが買ったのではなく、庫内で何かが動いた音だった。
柱の紙の端が、めくれていた。テープが乾いて、白い紙の角が反っている。あの紙は、たぶん何年も貼りっぱなしになっている。
わたしは、そこで五分ほど立っていた。
寝具の棚のほうから、店員が台車を押して出てきて、毛布の値札を一枚だけ差し替えて戻っていった。台車の車輪が、床の継ぎ目でひとつ鳴った。わたしのほうは見なかった。
誰も来なかった。
来週の同じ曜日を、頭の中に一つ足した。
エスカレーターを下りて、一階の出口から表へ出る。雨は細かいままだった。傘を開いて、駅のほうへ引き返した。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




