第90話 365日のスポットライト(7)自分で、決める
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ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
グループを抜けてから、しばらくは、ふわふわしていた。
いい日を教えてくれる人がいない。
次に何をすればいいか、誰も決めてくれない。
朝、起きても、今日が何をする日なのか、自分で決めなければならなかった。
何かを決めるたびに、足元がぐらついた。
占いに行きたくなる夜もあった。
手帳の空白を見ると、不安がせり上がってくる。
先生のところへ行けば、また決めてくれる。
いい日を教えてくれる。
そう思うと、足が雑居ビルの方へ向きそうになった。
何度も。
そういうとき、慈恩の言葉がよみがえった。
あなたが、選んだカードです。
ぼくがどう思うかは、関係ありません。
考えて、考えて、考えてください。
あの、低い、急がない声。
わたしは、その姿勢を、自分の言葉にしてみた。
誰かに聞く前に、まず自分で考える。
当たっているかどうかは、わからない。
でも、考えた末に選んだことなら、間違えても、それはわたしのものだ。
誰かに決めてもらった正解より、自分で選んだ間違いのほうが、たぶん、わたしを育てる。
それでも、自分で決めるのはしんどかった。
スーパーで、どっちの卵を買うか。
そんな小さなことでも迷う。
今まで、それをぜんぶ、人に肩代わりさせていたのだと思った。
でも、やめなかった。
考えることをやめたら、また、あの輪の中に戻ってしまう。
占いと、夜と、石の、ぐるぐる回る輪。
出口のない場所。
あそこには、もう戻りたくなかった。
わたしは、仕事を探した。
歌と、喋りを活かせる場所。
図書館で雑誌をめくって、気になる募集に丸をつけた。
電話をかけた。
「経験者だけなんです」
受話器の向こうで、静かに断られた。
別の日には、知り合いに聞いて回った。
「今はちょっと、紹介できるところないな」
そう言われた。
それでも、探した。
受け身だった人間が、初めて、探す、ということをしていた。
探す、というのは、自分が何をほしいのか、わかっていないとできないことだった。
前のわたしには、できなかった。
でも、今は、ぼんやりとだけど、わかっていた。
歌いたい。
喋りたい。
誰にも決められずに、声を出していたい。
だから、探せた。
ある日。
ひとつの募集を見つけた。
アニメ専門の、インターネットラジオ。
パーソナリティのオーディション。
歌える人、優遇。
喋れる人、優遇。
その二行を、何度も読んだ。
歌える人。
喋れる人。
わたしが、子どもの頃から、ひとりで好きでやってきたこと。
誰にも決められずに、やってきたこと。
それが、そのまま書いてあった。
胸が鳴った。
占いのいい日を聞いたときの、すがるような鳴り方とは違った。
自分の中から、わいてくる鳴り方だった。
やってみたい。
応募してみたい。
その気持ちが、誰かに言われたからではなく、自分の奥から生まれていた。
昔のわたしなら、まず誰かに聞いていた。
これ、受けていい?
先生に、向いてるかどうか視てもらっていた。
綾子さんに、どう思うか聞いていた。
自分で決める前に、必ず、誰かの「いい」をもらっていた。
今は、聞かなかった。
慈恩にさえ、聞かなかった。
聞きたくなる自分もいた。
でも、聞かなかった。
これは、わたしが考えて、決めることだから。
受ける。
自分で決めた。
応募の書類を、自分の字で書いた。
名前の欄で、少し迷った。
ルナ、と書くか。
橘沙織、と書くか。
少し考えて、両方書いた。
ルナ。
それは、ステージの上のわたし。
橘沙織。
それは、ひとりで歌っていたわたし。
どちらも、わたしだった。
どちらも、捨てなくていい。
ポストに、書類を入れた。
投函口にすべり込んでいく封筒を、最後まで見ていた。
誰かに背中を押されたのではなく、自分の手で出した一通。
それが、わたしの初めての応募だった。
ポストは、何も言わなかった。
それでよかった。
オーディションの日が来た。
会場は、雑居ビルの小さなスタジオだった。
占いの先生がいた、あの雑居ビルと、よく似た作りだった。
狭い階段。
古いエレベーター。
同じような場所なのに、向かう気持ちはまるで違った。
あのときは、決めてもらいに行った。
今日は、決めてもらいに来たのではない。
何人もの応募者が、待機所で順番を待っていた。
みんな、若くて、きれいで、自信がありそうに見えた。
パイプ椅子がずらりと並んだ、狭い部屋。
みんな、台本を口の中で繰り返している。
わたしは、隅の椅子で自分の番を待った。
手が、冷たかった。
昔のわたしなら、ここで占いにすがっていた。
今日はいい日ですか。
受かりますか。
誰かに、大丈夫だと言ってほしかった。
でも、聞ける相手はいなかった。
手首にも、もう何も巻いていない。
代わりに、ポケットから一枚の紙を出した。
名刺だった。
最後に、あの会場で、別れぎわに慈恩がくれたものだった。
「何か、迷ったとき、誰にも聞けないときは」
そう言ってから、少しだけ間を置いた。
「でも、たぶん、あなたはもう、聞かなくても大丈夫です」
白い、そっけない名刺だった。
名前と、携帯電話の番号だけが、静かに印刷されている。
石の絵も、占いの文字もない。
わたしは、それを両手で包んだ。
電話をかけてほしかったわけじゃない。
ただ、ひとりじゃない、と思える何かを、慈恩は渡してくれたのだと思う。
手のひらに、紙の角が当たっていた。
考えて、考えて、考えてください。
あの声が、またした。
今日のことは、自分で考えて、決めて、ここまで来た。
受かるかどうかは、わからない。
でも、ここに来ると決めたのは、わたしだ。
それだけは、確かだった。
名前が呼ばれた。
名刺をポケットにしまった。
手のひらに、まだ紙の角の感触が残っていた。
スタジオに入ると、審査員が三人座っていた。
マイクが、一本。
わたしは、その前に立った。
不思議と、マイクの前に立つと落ち着いた。
ステージの上だけは、十三人のライブハウスの頃から、いつも本気になれた。
それは、変わっていなかった。
半年前のわたしと、今のわたしで、ひとつだけ、ずっと変わらなかったもの。
歌った。
あの、二番のサビの一行。
誰にも教わらず、わたしが勝手に好きだった、あの一行。
子どもの頃、誰もいない家で、ひとりで歌っていた、あの感覚。
声が、自然に開いた。
それから、喋った。
台本はなかった。
好きなアニメのこと。
好きな曲のこと。
思ったことを、そのまま。
緊張していたはずなのに、喋りはじめると、言葉が出てきた。
借り物ではない言葉が。
審査員の顔が、ふっとほどけた。
十三人のお客の前で、何度も見た、あの顔だった。
審査員のひとりが、わたしの歌った曲の、あの一行について言った。
「このフレーズ、好きなんですよね」
「……はい」
わたしは頷いて、それから言い直した。
頷くだけじゃなく。
「わたしも、このフレーズ、好きなんです。昔から」
「わかります。そういう一行って、ありますよね」
「あります」
好きなものの話を、対等にできた。
肩書きでも、役でもなく。
借り物の言葉でもなく。
ただ、好きなものを、好きだと言えた。
後日、合格通知が届いた。
封筒を開けて、紙を読んだあと、しばらく動けなかった。
うれしい、と思うまでに、少し時間がかかった。
部屋は静かだった。
誰も「よかったね」とは言わなかった。
それでも、十分だった。
ひとりで読んで、ひとりで嬉しかった。
誰にも確認しない喜びに、まだ慣れていなかった。
引き出しを開ける。
五本のブレスレットが、まだそこにある。
捨てていない。
あれも、わたしがここまで来た道の一部だから。
そのとなりに、合格通知をそっと置いた。
そして、ポケットからあの名刺も出して、並べた。
石と、紙と、名刺。
決めてもらっていた、わたし。
自分で決めた、わたし。
決めるのを待っていてくれた、慈恩。
みんな、引き出しの中に並んでいた。
わたしは、引き出しを閉めた。
窓の外で、風が鳴っていた。
アニメ専門ラジオのパーソナリティ。
それが、わたしの新しい仕事になった。
最初の放送の日、ブースに入って、マイクの前に座ったとき、手が震えた。
ライブのステージとは違う緊張だった。
客の顔は見えない。
拍手も聞こえない。
ただ、マイクの向こうに、誰がいるかわからない人たちがいる。
わたしは、喋りはじめた。
台本はあった。
でも、合間に自分の言葉を混ぜた。
好きなアニメのこと。
好きな曲の、好きなフレーズのこと。
地下のライブハウスのMCでやっていたこと。
客の顔をほどく、あの感覚を思い出しながら。
ひとり、またひとりと、リスナーがついた。
番組に、感想が届くようになった。
あのフレーズの話、よかった。
あの曲、わたしも好きです。
声が、好きです。
顔の見えない人たちが、わたしの言葉に返事をくれた。
喋りで、人の顔をほどける。
地下のライブハウスのMCから、それは地続きだった。
あのとき磨いたものは、何ひとつ無駄じゃなかった。
売れなかった半年も、無駄じゃなかった。
番組で、一曲歌った。
好きで歌った。
ただ、それだけの一曲。
誰に言われたからでもない。
占いに、いい日だと言われたからでもない。
歌いたいから、歌った。
子どもの頃、誰もいない家で、ひとりで歌っていた、あの続きみたいに。
それが、思いがけず反響を呼んだ。
アイドルとして、売れなかったわたしが。
十三人のお客の前で、深く頭を下げていたわたしが。
歌で、自分の名前で、誰かに届いた。
ルナ、という与えられた芸名ではなく。
橘沙織、という、わたしの名前で。
与えられた名前で、与えられた曲を歌っていた頃には届かなかった。
自分の名前で、好きな歌を歌ったら届いた。
順番が、戻った気がした。
ずっとひっくり返っていた順番が、やっと正しい向きに戻った。
番組が始まって、少し経ったころだった。
リスナーから、一通のメールが届いた。
「沙織さんも、動画サイトで歌ってみませんか」
最初は、意味がわからなかった。
メールには、URLが貼られていた。
開くと、知らない人たちが、自分の部屋で歌っていた。
誰かが踊っていた。
画面の上を、コメントが流れていく。
上手い。
好き。
もう一回。
歌ってみた。
踊ってみた。
その名前を、その日初めて知った。
二〇〇六年だった。
誰の許可も、いらなかった。
事務所も、肩書きも、いらなかった。
ただ、好きなことを、好きなようにやる人たちが、画面の向こうにいた。
わたしも、やってみたい。
そう思った。
地下のステージで、何百回と繰り返した歌も、振りも、ぜんぶ新しい場所で意味を持った。
十三人の前で磨いたものが、何千人もの前に届くようになった。
あの頃は、誰も見ていないと思っていた。
でも、見られていなかったんじゃない。
場所が、まだなかっただけだった。
アイドルを辞めたんじゃなかった。
形を変えて、続いていた。
歌うことも。
踊ることも。
喋ることも。
ぜんぶ、わたしの中に残っていた。
捨てたものは、何もなかった。
ただ、誰かに決められた形から、自分で決める形に変わっただけだった。
ある日。
わたしは、ふと、あの占い師のイベントが開かれていた会場の前を通った。
もう、占いのイベントはやっていなかった。
ただの貸しスペースに戻っていた。
ずらりと並んだ机も。
香の煙も。
運気が、守護が、転機が、という声も。
何もなかった。
千円のあの人も、いなかった。
慈恩は、どこかで、まだ迷走しているのだろうか。
何が占いなのか、まだ決めかねているのだろうか。
それとも、別の何かを見つけたのだろうか。
わからなかった。
でも、どこかで、誰かにまた問いを置いているような気がした。
考えて、考えて、考えてください。
答えを渡さずに。
決めさせようと。
わたしは、心の中で、一度も言えなかった礼を言った。
あのとき、あなたが何も決めてくれなくて、よかったです。
もし、あなたが、やめなさいと言ってくれていたら。
続けなさいと言ってくれていたら。
わたしは、たぶんそのとおりにして、また別の誰かを探していた。
次に決めてくれる人を。
一生、探し続けていた。
でも、あなたは決めてくれなかった。
だから、わたしは自分で決めるしかなかった。
考えて、考えて、考えました。
今も、考えてます。
しんどいです。
でも、やめません。
ポケットには、まだ、あの名刺があった。
一度もかけなかった電話番号。
お守りは、もう握らなくてもよくなっていた。
でも、捨てはしなかった。
たぶん、これからも捨てない。
今日がいい日かどうかは、わたしが決める。
三百六十五日。
その全部を、生きていく。
冬は、終わっていた。
会場の前の街路樹に、小さな芽がふくらみはじめていた。
風が、やわらかかった。
もう、手首には何も巻いていない。
軽い手で、わたしは歩きだした。
どこからか、音楽が聞こえた気がした。
わたしは、ふと口ずさんだ。
あの、二番のサビの一行を。
子どもの頃から、ずっと好きだった、誰にも決められなかった、わたしの一行を。
誰の許可もいらなかった。
わたしは、自分で選んだ道を、歌いながら歩いていく。
三百六十五日、ぜんぶ、わたしのスポットライトの下で。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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