第85話 365日のスポットライト(2)
「いいとこ?」
「うん。わたしがお世話になってる先生。すごく視える人なの」
綾子さんは、笑っていた。
あの、口元だけの笑い方ではなく、その日は、目も笑っていた気がする。
先輩が、めずらしく、わたしに何かをくれようとしている。
そう感じた。
だからわたしは、ついていった。
連れて行かれたのは、駅裏の雑居ビルの、四階だった。
エレベーターはなかった。
狭い階段を、綾子さんのヒールが、こつこつと鳴らして上がっていく。
三階を過ぎたあたりで、線香のような、甘い匂いがしてきた。
看板はなかった。
ドアを開けると、薄暗い部屋に、紫色の布。
水晶。
タロットカード。
棚には、石を並べた箱が、いくつも積んであった。
窓は、厚いカーテンで塞がれていた。
外がまだ明るい時間なのに、部屋のなかだけ、夜だった。
「綾子ちゃん、いらっしゃい」
奥から出てきたのは、五十くらいの女の人だった。
先生、と綾子さんが呼んだ。
綾子さんのパトロンが、世話になっている先生なのだと、あとで聞いた。
ふくよかな手に、大きな石の指輪を、いくつもはめていた。
「この子、後輩のルナ。すごく頑張ってるの。でも、ちょっと、流れが悪いみたいで」
「あらあら」
先生は、わたしを見た。
じっと、見た。
何も言わずに、長く見られた。
値踏みされている、とは思わなかった。
ただ、見てもらえている、と思った。
誰かに、こんなに長く、まっすぐ見られたのは、いつぶりだろう。
ステージの上では、誰も、こんなふうには見てくれない。
それが、うれしかった。
「あなた、頑張ってるわねぇ」
先生が言った。
「でも、ほんの少し、方向がずれてるのよ。せっかくの力が、逃げてしまってるわ」
「逃げて……」
「そう。あなたには、いいものがあるの。なのに、もったいない」
わたしは、頷いていた。
当たっている、と思った。
最近、何をやってもうまくいかない。
ライブのお客は増えない。
歌っても、歌っても、十三人。
何かが、ずれている。
先生の言う通りだ。
いいものが、逃げている。
「今日は、特別。無料で視てあげる」
先生は、タロットを並べた。
たくさん並べた。
一枚ずつめくりながら、運気が、守護が、転機が、と話した。
わたしは、ひとことも喋らなかった。
喋らなくても、先生が、ぜんぶ教えてくれた。
今のわたしのこと。
これからのこと。
何が足りなくて、何をすればいいのか。
めくられるカードを、ただ、見ていた。
自分のことなのに、自分よりも、カードのほうが、わたしを知っている気がした。
最後に、先生は箱から石を出した。
「これがあれば、流れが変わるわ。あなたの守護に、ぴったり合ってると出てるのよ」
天然石のブレスレット。
薄い紫色の石が、連なっている。
照明にかざすと、奥のほうが、とろりと光った。
「二万八千円ね」
「わたしも、最初これ買ったら、流れ変わったよ」
横で、綾子さんが言った。
手首を見せてくれる。
同じ色の石が、光っていた。
わたしは、財布を開けた。
二万八千円は、痛かった。
財布のなかみが、半分以下になった。
でも、綾子さんの前で、痛い顔はできなかった。
綾子さんには、パトロンがいる。
二万八千円なんて、たぶん、痛くもなんともない。
先輩が連れてきてくれた場所で、先輩の前で、わたしだけが渋るわけにはいかなかった。
「ありがとうございます」
お礼を言ったのは、わたしのほうだった。
お金を払ったのに、お礼を言っていた。
でも、そのときは、それが自然だった。
道を教えてもらった。
流れを変えてもらえる。
二万八千円で、それが買えるなら、安い。
そう思った。
「またいつでも、いらっしゃい」
先生が、笑った。
綾子さんも、笑った。
それが、初めての一回だった。
いま、手首には、ブレスレットが四本ある。
布をたたみ終えた手が、止まる。
四本。
二万八千円が、四本。
それから、買ったのは、それだけじゃない。
お札も、水も、置物も。
ぜんぶ、夜に作ったお金で。
先生は、四人替わった。
けれど、どの先生も、同じだった。
視てくれて、褒めてくれて、最後に、何かを出してくる。
わたしは、毎回、財布を開けた。
いつから、こうなったんだろう。
半年前の夏、綾子さんは、たしかに笑っていた。
悪気は、なかったと思う。
先輩は、よかれと思って、わたしを連れて行った。
それは、わかっている。
ただ、連れて、行かれた。
あの日から、わたしの夜は、占いと、お金と、もうひとつの何かで、埋まるようになった。
布を、棚にしまう。
明日も、占いに行く日だ。
先生が、行きなさいと言った日。
わたしは、その日を、手帳に書いてある。
占いに行く日は、いつも、先生が決める。
行けば、また、何か言われる。
何か、出される。
それでも、行かないと、落ち着かない。
行かないと、誰も、わたしの今日を、決めてくれないから。
その時、携帯電話が、鳴った。
画面を見た。
知らない番号だった。
シーンC「千円の男」
その夜も、占いに行くつもりだった。
いつもの雑居ビルへ向かうと、ドアに張り紙があった。
今夜は別会場、と書いてある。
近くのイベントスペースで、占い師が集まる催しがあるらしい。
先生も、そこに出ているという。
わたしは、そっちへ歩いた。
迷いはなかった。
先生がそこにいるなら、そこへ行く。
今日が何をする日かは、先生が決める。
わたしは、決められた場所へ、足を運ぶだけだ。
会場は、思ったより広かった。
長机がいくつも並んで、占い師が、ずらりと座っている。
タロット。
手相。
四柱推命。
立てかけられた値札は、どれも五千円から、高いものは三万円。
あちこちで、低い声がしている。
運気が、守護が、転機が。
聞き慣れた言葉が、あちこちの机から、同じように漏れてくる。
見慣れた風景だった。
わたしは、こういう場所の、空気を知っている。
香の煙が、天井のあたりで、うすく層になっていた。
先生のブースを探した。
その途中で、足が、止まった。
いちばん端の、隅の机。
そこに、場違いな男の人が、ひとり座っていた。
きっちりとした、スーツを着ていた。
皺ひとつない。
歳は、わたしと、そう変わらないように見えるのに、着ているものだけは、隙がなかった。
机の上には、タロットカードが、一束だけ。
それ以外は、何もない。
水晶も、石の箱も、お札も、置物も、何も。
まわりの机が、色とりどりのものでごてごてと飾られているなかで、その机だけが、がらんとしていた。
紙が一枚、机に貼ってあった。
手書きの、そっけない字。
「相談 千円 慈恩」
千円。
わたしは、その数字を、二度見た。
まわりは、五千円。
三万円。
なのに、その人だけ、千円。
安すぎる。
安すぎて、かえって、こわい。
占いの値段は、効きめの値段だと思っていた。
高いほど、よく視えて、よく当たる。
そう、思い込まされていた。
千円で、何がわかるというのだろう。
客は、ひとりもいなかった。
その人は、目を開けたまま、ぼんやり座っている。
誰かを呼び込むでもなく、声を張るでもなく、ただ、そこにいた。
隣の机の占い師が、通る人に「いかがですか」と声をかけているのに、その人は、一度も、口を開かない。
売る気が、ないように見えた。
わたしは、近づいた。
なぜ近づいたのか、自分でもわからない。
先生のブースを探していたはずなのに、気づいたら、その千円の机の前に立っていた。
足が、勝手に、こっちへ来た。
そんな感覚だった。
その人が、こちらを見た。
目が、開いていた。
糸のように細い、よくいる占い師の目ではなかった。
まっすぐ、開いていた。




