第83話 岸田澪の、消えかた(4)
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それでは、本編をお楽しみください。
二回目。慈恩は「また来ましたね」と言った。
澪は、扉を開けながら頷いていた。
毎回、同じ入り口の言葉だった。
——それだけで、来た甲斐があった。
スケッチブックを持って行かなかった。次は持って行こうと思っている。でも、まだ行っていない。それでいいと思っている。
受験勉強が本格的になった。夏が来た。
金木犀の季節まで、あと少し。今年は、早く来る気がしていた。
「スケッチブックの、十四枚目」
スケッチブックの十四枚目を開いた。まだ白かった。
窓の外は夏だった。セミが鳴いている。幸子が一階でテレビを見ている音がする。
これまでに描いたもの——金木犀の木、ビルの外観、美術室のドアノブ、幸子を描こうとして描けなかったページ、自分の手、引き出しを開けたところ——十三枚。
誰にも見せていない。
「澪、宿題終わった?」
「……終わった」
「夏期講習、来週から始まるわよ」
「うん」
声は、相変わらず、すきまに入った。
でも。
幸子は知らない。この部屋に、誰にも見せていない絵が十三枚ある。
それは、小さかった。でも、確かにあった。
鉛筆を持った。十四枚目に、線を引いた。最初の一本。迷わなかった。
何を描くか、今日は最初から決まっていた。
「金木犀が、また来た」
金木犀の季節が来た。
澪は朝、制服を着た。ボタンを留めていく。一つ。二つ。
——止まらなかった。
去年は止まった指が、今年は止まらなかった。なぜかは、わからない。でも、止まらなかった。
窓の外から、金木犀の匂いが来た。薄く、甘く——秋の朝にだけある、あの匂い。
——何か、思い出しかけた。
今年は、掴めた。
ジオン・オフィスのビルの裏に、大きな木がある。十年ほど前に、誰かが置いていった種から育った木。その人も——何かを、やめていた。でも、種を置いていった。
澪は窓を閉めた。カバンを持った。玄関へ向かった。
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
——今日は、どの道を歩こうか。
扉が、背中で閉まった。
夜、部屋に戻った。
引き出しが、少しだけ開いていた。
澪は一瞬、立ち止まった。
——考えないようにした。
閉め直した。それだけだった。
スケッチブックを出した。十四枚目のページ。描きかけのまま、止まっていたページ。
鉛筆を持った。
手が、止まらなかった。
「やめます」
また、金木犀の季節が来た。
澪は、夕食の席で言った。
「高校、やめる」
幸子の箸は、止まらなかった。
「何を言ってるの」
声は、いつものように穏やかだった。
「受験、もうすぐでしょ。今さらやめて、どうするの。あなた一人で、何ができるの」
澪は、幸子の顔を見た。
「絵を、描く」
幸子は、笑った。やさしい顔で。
「美術で食べていける人なんて、ひと握りよ。前にも言ったでしょう。あなたには向いてない」
——向いていないから、やめた。
その言葉は、もう澪の中になかった。
「向いてるかどうかは、わたしが決める」
幸子の箸が、止まった。
ほんの一瞬。それから、また動いた。
「……誰かに、吹き込まれたのね」
初めて、幸子の声が、低くなった。
「そんな子じゃなかったでしょう。お母さんが、ちゃんと育てたのに」
育てた。
その言葉を、澪は初めて、外側から聞いた気がした。
「ごめんなさい」
澪は言った。謝り方が、初めてわかった。
「でも、やめます」
立ち上がった。幸子は、座ったままだった。
澪の背中に、声がかかった。
「——どこにも、行けないわよ」
穏やかな声だった。いつもの、やさしい声。
澪は、振り返らなかった。
「すきま」
春に、家を出た。
六畳一間。陽が入るのは午前だけ。隣の物音が、壁越しに聞こえる。
中退届は、十八の秋に出した。一人暮らしを始めたのは、その翌春だった。
最初の夜、澪は気づいた。
——誰も、喋らない。
幸子の声がない。すきまに入れる声も、ない。
部屋は、静かだった。その静けさは、澪のものだった。
壁に、金木犀の絵を貼った。十年ほど前に、誰かが置いていった種から育った木。
毎晩、描いた。誰にも見せなくてよかった。誰にも、聞かなくてよかった。
手は、止まらなかった。
「個展」
数年後の、秋だった。
小さな画廊だった。入口に、澪の名前が出ていた。初めての個展。
壁に、絵が並んでいる。金木犀。古いレンガのビル。誰もいない美術室のドアノブ。夜の商店街の、点滅する街灯。
今は、イラストレーターとして仕事をしている。本の表紙。広告。名前で、依頼が来る。「岸田澪さんに」と、名指しで来る。
来場者が、絵の前で足を止める。
「この金木犀、いいですね」
知らない人が、言った。
「ありがとうございます」
澪は、その人の目を見て言った。
高校は、出ていない。
高校は、言われて入った。母が、いいと言ったから。でも——いらなかった。
今ならわかる。あれは、わたしが選んだものじゃなかった。
選んだものだけが、残っている。この壁の、絵だけが。
夕方、入口の近くに、長くいる男がいた。
絵を見るふりをして、澪を見ていた。ときどき、手帳に何か書いている。普通の客じゃない。
——ああ。
わかった。母が、寄こしたのだ。
幸子とは、もう何年も、会っていない。会えないんじゃない。澪が、会いたくないだけだ。接近禁止も、澪が自分で申し立てた。
だから、母から直接の連絡は、来ない。警察からの連絡も、来ない。
代わりに、こういう人が来る。探偵。素行調査。澪がどこに住んで、誰といて、何をしているか。
母は、澪に会いたいわけじゃない。寂しいわけでも、心配しているわけでも、ない。ただ、自分の持ち物が、勝手にいなくなったのが——我慢できないだけだ。
昔から、そういう人だった。
昔は、母にどこにいるか知られていることが、怖かった。すきまから、肺の奥まで、入ってきた。
今は——母が探していることを、外側で、ただ知っているだけだった。入っては、こなかった。
澪は、動じなかった。あとで、警察に伝える。それだけだ。あとは、任せている。
男は、しばらくして、帰っていった。
澪は、見送らなかった。
画廊を出ると、秋の匂いがした。
金木犀だった。
誰かが植えた木。澪のものではない。でも、匂いは、どこまでも開いていた。
息を吸う。肺が、膨らむ。
——だからわたしは、なにも考えなくていい。
昔は、そう思っていた。
今は、違う。
全部、自分で考える。全部、自分で、選ぶ。
——今日は、どの道を歩こうか。
澪は、歩き出した。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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