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燃えカスの守り人  作者: K3
岸田澪の、消えかた

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第82話 岸田澪の、消えかた(3)

月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!


ぜひお楽しみに!


それでは、本編をお楽しみください。


幸子に言わずに、明日買いに行くことにした。


 翌朝の食卓。幸子が言った。


 「最近、少し顔色いいわね」


 「……そう?」


 幸子は澪の顔を、いつもより少し長く見た。


 「どこかで気分転換してるの?」


 「……塾の帰りに少し歩いてる」


 幸子は少し間を置いた。それから、笑った。


 「お母さんも、よく言ってたわ」


 澪は箸を持ったまま、幸子を見た。


 「決まった道を歩きなさい、って。何かあってからじゃ遅いから」


 幸子は笑っていた。懐かしそうに。怒っていなかった。正しかった——はずだった。


 澪は何も言わなかった。


 ——お母さんも、と言った。


 幸子に、お母さんがいたことを、澪は考えたことがなかった。


 食事が終わった。幸子が「カーディガン、洗っておいたわよ」と言った。


 「うん」と答えた。


 洗濯物の中に、幸子が選んだ紺が三枚、並んでいた。


「画材店の、匂い」


 画材店に入った。中学の頃、美術部のために何度か来た場所だった。


 匂いが来た。


 絵の具と、木の削りかすと、紙の匂い。美術室と、少し似ていた。でも、美術室より乾いている。店の匂いだから。


 澪は少しだけ、立ち止まった。


 中に入った。


 スケッチブックの棚の前に立った。何種類かある。値段を確認した。一番安いもの。買えた。


 一冊だけ手に取った。


 レジへ向かう途中、鉛筆の棚の前で止まった。HBを一本だけ追加した。


 店員は何も言わなかった。澪も何も言わなかった。


 ——ただ、買った。誰かに聞かずに。


 それだけのことが、今日は少し違う重さを持っていた。何が違うのか、言葉にならなかった。


 カバンに入れた。外に出た。


 夜、机の引き出しを開けた。一番奥に、スケッチブックを入れた。


 閉めた。


 少し経って、また開けた。


 また閉めた。


 どこに置くか、まだ決まっていなかった。でも今夜は、そこでいいことにした。


「最初に描いたもの」


 その夜、澪は描いた。


 何を描くか、決めていなかった。引き出しを開けて、スケッチブックを出して、HBの鉛筆を持って、白い紙を見た。


 しばらく、そのままだった。


 手が動いた。


 最初の線は、幹の輪郭だった。太く、少し歪んだ。消さなかった。


 次の線は、根。地面に出ている分を、見えたまま引いた。


 花は最後だった。小さく、密に。指先が先を走るのに任せた。


 金木犀だった。


 枝を一本、引いた。曲がった。思っていたより、ずっと曲がった。


 消そうとした。


 消さないことにした。


 本当の枝は、こんなふうに曲がっている。


 「澪、もう寝なさい。受験生でしょ」


 幸子の声が来た。


 澪はスケッチブックを引き出しに戻した。「うん」と答えた。


 電気を消した。暗い中で、目を開けていた。


 翌日、慈恩に持って行った。


 差し出した。慈恩は受け取って、一度だけ見た。


 何も言わなかった。しばらく見ていた。


 「誰が植えたか、知ってますか」


 「……いいえ」


 「昔、ここに来た人が置いていった種だと、言いましたね」


 「……はい」


 「その人も——何かを、やめていた」


 部屋が静かだった。煙草の煙が、細く上がっていた。


 澪は慈恩が何を言おうとしているのか、わからなかった。でも、聞けなかった。


 慈恩は絵を澪に返した。「持っていてください」。


 誰にも見せたことのない絵だった。受け取った。


気づきと選択


 五回目の訪問だった。


 いつものように座って、いつものように沈黙があった。


 澪が聞いた。「あの木は、本当にあるんですか」


 「あります」


 「……見せてもらえますか」


 慈恩は少し間を置いた。「一度、来ますか」と言った。


 ビルの裏へ回った。


 あった。


 大きかった。思っていたより、ずっと大きかった。


 幹が太く、地面に根を広げている。枝が広がって、黄色い花が今年最後の力で残っていた。もうほとんど散りかけていた。


 匂いが、濃かった。朝に窓から来た時より、夜にビルの前で嗅いだ時より——もっと、直接。皮膚から入ってくる感じがした。


 澪は木の前で止まった。慈恩は少し離れたところに立っていた。


 「大きいですね」


 声が出てから、自分が喋ったことに気づいた。


 「毎年、少しずつ大きくなっています」


 「……いつ植えられたんですか」


 「十年ほど前」


 澪が生まれた頃だった。それを言葉にはしなかった。


 澪は木を見たままだった。


 幹の、根元の部分。太い根が地面に出ている。その形を、目で辿った。


 慈恩が、少し間を置いて言った。「消えかたの話の続きを、してもいいですか」


「消えかたの、続き」


 「消されている人が、ある日、気づく」


 慈恩の声は静かだった。木を見ていた。澪の方は見ていない。


 「その日が、始まりです」


 澪は木を見たままだった。


 風が来た。枝が揺れた。


 澪は何も言わなかった。慈恩も何も言わなかった。


 しばらく、そのままだった。


 「気づいたら、逃げなければいけないんですか」


 「逃げなくていいです」


 「じゃあ、何をすればいいんですか」


 「今日みたいなことを」


 澪は木の幹に、指先を触れた。


 ざらざらしていた。冷たかった。外側は固く、冷たいのに、内側に何かがある気がした。


 「今日みたいな、って」


 「誰にも言わずに、見に来た。それだけです」


 澪は幹から手を離した。


 また風が来た。今度は少し強かった。


 花が一枚だけ、澪の肩に落ちた。


 払わなかった。


 しばらく、静かだった。


 慈恩は木を見ていた。澪も木を見ていた。


 「——向いていないから、やめた」


 ひとりごとのように言った。慈恩は何も言わなかった。


 澪は木の幹を見ていた。根が地面に広がっていた。


 また風が来た。花が一枚だけ、澪の肩に落ちた。


 払わなかった。


 「帰ります」と澪は言った。「また来てください」と慈恩は言った。澪は頷いた。


 木がまだ、そこにあった。


「同じ道を、選んで歩く」


 帰り道。澪はいつもの道を歩いた。


 幸子が「決まった道を歩きなさい」と言ったから歩く道だった。


 でも今日は——


 ——自分で、この道を選んでいる。


 同じ道だった。でも、全部、自分で選んでいた。


 角を曲がる。商店街を抜ける。駅前を過ぎる。


 家に帰った。幸子が「遅かったわね」と言った。「うん」と答えた。


 夕食。幸子が話す。天気、模試、冬のコート。澪は相槌を打つ。「うん」「そうだね」「わかった」。


 ——わたしの声は、お母さんの話のすきまに入るためだけにある。


 ——それを、知っている。


 知っているだけで、今日は何も変わらない。幸子は変わらない。この家は変わらない。夕食が終わっても、何も変わらない。


 でも、知っている。


 夜、部屋に戻った。引き出しを開けた。


 スケッチブックと、返してもらった金木犀の絵。二つ、並んでいた。


 澪は次の白いページを開いた。


 何を描くかは、まだ決まっていなかった。でも今夜は、決まるまで待つつもりだった。


余韻


「何も変わっていない」


 数ヶ月が経った。


 幸子は変わらない。「今日の模試どうだった」「カーディガン持った」「同じ道で帰りなさい」。澪は「うん」「うん」「うん」と答える。


 成績は少し上がった。幸子は「やっぱりあなたはちゃんとやればできるのよ」と言った。


 その時、幸子の箸が、止まった。


 ほんの一瞬だった。澪は気づかなかった——振り返らなかったから。


 幸子は、澪のうなじのあたりを見ていた。顔ではなく、そのあたりを。何かを、確かめるみたいに。


 幸子の声は、またいつもの柔らかさに戻った。「ちゃんと食べてる?」


 澪は「うん」と答えた。


 ——何も変わっていない。


 ただ、引き出しの奥に、スケッチブックがある。ページは、少しずつ増えている。


 あれから二回、ジオン・オフィスへ行った。


 一回目。慈恩は「また来ましたね」と言った。澪は頷いた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!

ぜひお楽しみに!


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