第81話 岸田澪の、消えかた(2)
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それでは、本編をお楽しみください。
「あなたには向いてない」
入部届は、出さなかった。
冷たさが、まだ掌に残っていた。
廊下の向こうから、足音が来た。
数学の田中先生だった。澪を見て、軽く会釈した。澪も会釈した。先生は通り過ぎた。
澪は手を離して、歩き出した。
——向いていないから、やめた。それだけだ。
今度は、答えがあった。
でも、何かが合わなかった。ずれていた。
廊下の突き当たり、窓があった。校庭の隅に、木が一本立っている。
金木犀だった。
ガラスに隔てられて、見えるだけだった。匂いは届かない。朝あんなにはっきりしていたのに、ここからでは何もない。黄色い花をつけた枝が、秋の風に静かに揺れていた。
——向いていないから、やめた。
チャイムが鳴り始めた。
澪は窓から目を逸らした。
——それは、自分が決めたことだったか。
窓の外で、金木犀の枝が揺れた。
ガラスの向こうで、静かに。匂いは、届かない。
張り紙の、字
塾が終わったのは、七時を少し過ぎた頃だった。
駅から家への帰り道、澪はいつも同じルートを歩く。幸子が一度だけ言った。「夜道は決まった道を歩きなさい。何かあってからじゃ遅いから」。それ以来、変えていない。
今日、足が曲がった。
理由はない。ただ、曲がった。
一本ずれた道は、古い商店街を抜ける。シャッターが多い。街灯が一つ、点滅している。地面の光が、同じリズムで消えては戻った。
——お母さんに言えない。
でも足は、止まらなかった。
歩きながら、携帯を確認しなかった。いつもは確認する。幸子からのメールを見逃さないために。今日は、カバンの中に入れたまま歩いた。
なぜかは、わからない。ただ、そうしていた。
商店街の外れに、レンガ造りのビルがある。
朝、ここで足が止まった。金木犀の匂いがこちらから来た気がして。でも時間がなかった。見ないようにして通り過ぎた。
今は、夜だった。
一階の窓に灯りがついている。街灯の白さとは違う、少し黄みがかった、古い電球の色。
ガラスに貼られた紙に、文字があった。
気になることがあれば
どうぞ
慈恩・オフィス
達筆でも、下手でもない。
読んだ瞬間、胸の奥が少しだけ動いた。
澪は立ち止まった。
ガラス越しに、煙草の煙が見える。細い、一本の煙。誰かがいる。
糸目の、アロハシャツの男。目を閉じているのか、細めているのか。こちらを見ていない。ただ、座っている。
——見られている気がした。
でも足が、動かなかった。
その時、匂いが来た。
金木犀だった。
朝より、濃い。ガラス越しではない。夜の冷たい空気に乗って、外から、直接。鼻の奥に届いた瞬間、澪は息を止めた。
——何かが、あったはずだ。
朝も、昼も、思い出せなかった。でも今、この匂いの中に立っていると——もう少しで、掴める。
澪は動かなかった。
煙草の煙が、ガラスの向こうでゆっくりと揺れた。男は、こちらを見ていない。
でも。
カバンの中で、携帯が鳴った。
幸子だった。
「今どこ? 塾、終わる時間とっくに過ぎてるわよ」
「……今、帰ってる」
「どこ歩いてるの。いつもの道じゃないでしょ。なんだか、遠回りしてない?」
澪は足を止めた。
声は、穏やかだった。いつもの幸子の声。ただ、澪がどこにいるか、確かめるみたいに静かだった。
——なぜわかるのか、考えないようにしていた。
「ごめん。すぐ帰る」
電話を切った。
澪は歩き出した。足が速くなる。角を曲がる。
振り返らなかった。
金木犀の匂いが、まだ鼻の奥にあった。夜道を歩きながら、少しずつ薄くなっていく。それでも、消えない。
張り紙の字だけが、頭の中に残っていた。
「気になることがあれば」
台所から、幸子の声が来た。「ご飯、もうすぐよ」。
澪は返事をした。「うん」。
——自分の声が、すきまに入った。
二重の原因
夕食の食卓に、カーディガンが二枚、置かれていた。
幸子が並べた。「紺とグレー、どっちがいい?」。
「……どっちでも」
「そう言うと思った。じゃあ両方持っていきなさい。寒くなってきたから」
澪は頷いた。
——わたしのクローゼットに、紺のカーディガンが三枚ある。全部、幸子が選んだ。
——わたしが選んだものは、一枚もない。
食事が続く。幸子が話す。今日の天気、模試の日程、来週の健康診断。澪は「うん」「そうだね」と答える。幸子の箸は、その間もずっと動いている。
夜、部屋で教科書を開いた。
読めなかった。
「消されている人が、自分で消えていると思っている」——慈恩の言葉が頭にある。
幸子は怒らない。怒鳴らない。正しい。だから——だから何だ。続きが出てこない。
澪はシャーペンを持ち直した。ノートに何も書かれていなかった。
気分転換に、窓を少し開けた。
金木犀の匂いが入ってくる。薄く、甘く。あと数日で消える匂いだ。毎年そうだから、澪は知っていた。
——今年は、もう少し長く嗅いでいたい。
初めてそう思った。なぜかは、わからなかった。窓を閉めようとして、手が止まった。少し考えて、やめた。
今夜だけ、少し開けたまま寝ることにした。理由は言葉にならなかった。
「三階の、人影」
ジオン・オフィスへ来た。ドアを押す前に、ビルを見上げた。
一階に灯り。二階は暗い。三階の窓に——人影が見えた気がした。こちらを見ている形だった。
動かなかった。
カーテンの揺れかもしれない。でも、止まった。
ドアを押した。
「また来ましたね」
「……はい」
今日の慈恩は、すぐに聞いた。
「やめたものは、ありますか」
澪の指先が、少し固まった。
「……美術部」
「やめた理由は」
「向いてないって、言われたから」
「誰に」
間があった。
「……お母さんに」
慈恩はそれ以上聞かなかった。煙草を一度だけ灰皿に置いた。
しばらく、何も言わなかった。
「向いていると思いますか、今も」
澪は答えられなかった。
慈恩は追わなかった。ただ、そのままにした。
帰り際、澪はまた三階を見上げた。
今度は何もなかった。窓は暗かった。カーテンも動いていない。
でも——あの形は、何かを言おうとしていた気がした。何を、かはわからない。
「二本のライン」
帰り支度をしていた澪に、慈恩が初めて自分から話した。
「このビルの裏に、木があります」
澪は立ち止まった。
「金木犀です。大きい。植えた人間は、もういない」
「……誰が植えたんですか」
「昔、ここに来た人です。帰り際に、種を置いていった」
それだけ言って、慈恩は煙草の煙を見た。
——だから、あの匂いはここから来ていたのか。
——でも、それだけのことだ。
澪の中で、二つの声がある。どちらが正しいか、わからない。
慈恩が聞いた。
「現代的な話と、少し不思議な話、どちらで聞きますか」
澪は一拍置いた。
「……両方」
慈恩は、わずかに頷いた。それだけだった。
澪は帰り道、ふと振り返った。
ジオン・オフィスのビルが、夕暮れの中に立っていた。初めて振り返った。
三階の窓は、暗かった。
金木犀の匂いが、また来た。昼間の匂いは夜より軽い。でも確かにある。ビルの裏手から来ていた。
調査・対峙
「一つ、やってもらえますか」
澪は顔を上げた。三回目の訪問だった。
「何でもいいので、描いてきてください。紙と鉛筆だけで」
「……何を描けばいいですか」
「気になるものを」
それだけだった。慈恩はそれ以上指示しなかった。
帰り道、澪は考えた。気になるもの。
カーディガンは気にならない。模試の結果は気にかかるが、気になるのとは違う。幸子の「そっちの方がいいわ」という声は——気にかかる。でも、それを描くのか。
夜、部屋で鉛筆を探した。あった。紙がなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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