表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
燃えカスの守り人  作者: K3
岸田澪の、消えかた

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

54/88

第81話 岸田澪の、消えかた(2)

月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!


ぜひお楽しみに!


それでは、本編をお楽しみください。


「あなたには向いてない」


 入部届は、出さなかった。


 冷たさが、まだ掌に残っていた。


 廊下の向こうから、足音が来た。


 数学の田中先生だった。澪を見て、軽く会釈した。澪も会釈した。先生は通り過ぎた。


 澪は手を離して、歩き出した。


——向いていないから、やめた。それだけだ。


 今度は、答えがあった。


 でも、何かが合わなかった。ずれていた。


 廊下の突き当たり、窓があった。校庭の隅に、木が一本立っている。


 金木犀だった。


 ガラスに隔てられて、見えるだけだった。匂いは届かない。朝あんなにはっきりしていたのに、ここからでは何もない。黄色い花をつけた枝が、秋の風に静かに揺れていた。


——向いていないから、やめた。


 チャイムが鳴り始めた。


 澪は窓から目を逸らした。


——それは、自分が決めたことだったか。


 窓の外で、金木犀の枝が揺れた。


 ガラスの向こうで、静かに。匂いは、届かない。


張り紙の、字


 塾が終わったのは、七時を少し過ぎた頃だった。


 駅から家への帰り道、澪はいつも同じルートを歩く。幸子が一度だけ言った。「夜道は決まった道を歩きなさい。何かあってからじゃ遅いから」。それ以来、変えていない。


 今日、足が曲がった。


 理由はない。ただ、曲がった。


 一本ずれた道は、古い商店街を抜ける。シャッターが多い。街灯が一つ、点滅している。地面の光が、同じリズムで消えては戻った。


——お母さんに言えない。


 でも足は、止まらなかった。


 歩きながら、携帯を確認しなかった。いつもは確認する。幸子からのメールを見逃さないために。今日は、カバンの中に入れたまま歩いた。


 なぜかは、わからない。ただ、そうしていた。


 商店街の外れに、レンガ造りのビルがある。


 朝、ここで足が止まった。金木犀の匂いがこちらから来た気がして。でも時間がなかった。見ないようにして通り過ぎた。


 今は、夜だった。


 一階の窓に灯りがついている。街灯の白さとは違う、少し黄みがかった、古い電球の色。


 ガラスに貼られた紙に、文字があった。


  気になることがあれば

  どうぞ

  慈恩・オフィス


 達筆でも、下手でもない。


 読んだ瞬間、胸の奥が少しだけ動いた。


 澪は立ち止まった。


 ガラス越しに、煙草の煙が見える。細い、一本の煙。誰かがいる。


 糸目の、アロハシャツの男。目を閉じているのか、細めているのか。こちらを見ていない。ただ、座っている。


——見られている気がした。


 でも足が、動かなかった。


 その時、匂いが来た。


 金木犀だった。


 朝より、濃い。ガラス越しではない。夜の冷たい空気に乗って、外から、直接。鼻の奥に届いた瞬間、澪は息を止めた。


——何かが、あったはずだ。


 朝も、昼も、思い出せなかった。でも今、この匂いの中に立っていると——もう少しで、掴める。


 澪は動かなかった。


 煙草の煙が、ガラスの向こうでゆっくりと揺れた。男は、こちらを見ていない。


 でも。


 カバンの中で、携帯が鳴った。


 幸子だった。


「今どこ? 塾、終わる時間とっくに過ぎてるわよ」


「……今、帰ってる」


「どこ歩いてるの。いつもの道じゃないでしょ。なんだか、遠回りしてない?」


 澪は足を止めた。


 声は、穏やかだった。いつもの幸子の声。ただ、澪がどこにいるか、確かめるみたいに静かだった。


——なぜわかるのか、考えないようにしていた。


「ごめん。すぐ帰る」


 電話を切った。


 澪は歩き出した。足が速くなる。角を曲がる。


 振り返らなかった。


 金木犀の匂いが、まだ鼻の奥にあった。夜道を歩きながら、少しずつ薄くなっていく。それでも、消えない。


 張り紙の字だけが、頭の中に残っていた。


「気になることがあれば」


 台所から、幸子の声が来た。「ご飯、もうすぐよ」。


 澪は返事をした。「うん」。


——自分の声が、すきまに入った。


二重の原因


 夕食の食卓に、カーディガンが二枚、置かれていた。


 幸子が並べた。「紺とグレー、どっちがいい?」。


 「……どっちでも」


 「そう言うと思った。じゃあ両方持っていきなさい。寒くなってきたから」


 澪は頷いた。


 ——わたしのクローゼットに、紺のカーディガンが三枚ある。全部、幸子が選んだ。


 ——わたしが選んだものは、一枚もない。


 食事が続く。幸子が話す。今日の天気、模試の日程、来週の健康診断。澪は「うん」「そうだね」と答える。幸子の箸は、その間もずっと動いている。


 夜、部屋で教科書を開いた。


 読めなかった。


 「消されている人が、自分で消えていると思っている」——慈恩の言葉が頭にある。


 幸子は怒らない。怒鳴らない。正しい。だから——だから何だ。続きが出てこない。


 澪はシャーペンを持ち直した。ノートに何も書かれていなかった。


 気分転換に、窓を少し開けた。


 金木犀の匂いが入ってくる。薄く、甘く。あと数日で消える匂いだ。毎年そうだから、澪は知っていた。


 ——今年は、もう少し長く嗅いでいたい。


 初めてそう思った。なぜかは、わからなかった。窓を閉めようとして、手が止まった。少し考えて、やめた。


 今夜だけ、少し開けたまま寝ることにした。理由は言葉にならなかった。


「三階の、人影」


 ジオン・オフィスへ来た。ドアを押す前に、ビルを見上げた。


 一階に灯り。二階は暗い。三階の窓に——人影が見えた気がした。こちらを見ている形だった。


 動かなかった。


 カーテンの揺れかもしれない。でも、止まった。


 ドアを押した。


 「また来ましたね」


 「……はい」


 今日の慈恩は、すぐに聞いた。


 「やめたものは、ありますか」


 澪の指先が、少し固まった。


 「……美術部」


 「やめた理由は」


 「向いてないって、言われたから」


 「誰に」


 間があった。


 「……お母さんに」


 慈恩はそれ以上聞かなかった。煙草を一度だけ灰皿に置いた。


 しばらく、何も言わなかった。


 「向いていると思いますか、今も」


 澪は答えられなかった。


 慈恩は追わなかった。ただ、そのままにした。


 帰り際、澪はまた三階を見上げた。


 今度は何もなかった。窓は暗かった。カーテンも動いていない。


 でも——あの形は、何かを言おうとしていた気がした。何を、かはわからない。


「二本のライン」


 帰り支度をしていた澪に、慈恩が初めて自分から話した。


 「このビルの裏に、木があります」


 澪は立ち止まった。


 「金木犀です。大きい。植えた人間は、もういない」


 「……誰が植えたんですか」


 「昔、ここに来た人です。帰り際に、種を置いていった」


 それだけ言って、慈恩は煙草の煙を見た。


 ——だから、あの匂いはここから来ていたのか。


 ——でも、それだけのことだ。


 澪の中で、二つの声がある。どちらが正しいか、わからない。


 慈恩が聞いた。


 「現代的な話と、少し不思議な話、どちらで聞きますか」


 澪は一拍置いた。


 「……両方」


 慈恩は、わずかに頷いた。それだけだった。


 澪は帰り道、ふと振り返った。


 ジオン・オフィスのビルが、夕暮れの中に立っていた。初めて振り返った。


 三階の窓は、暗かった。


 金木犀の匂いが、また来た。昼間の匂いは夜より軽い。でも確かにある。ビルの裏手から来ていた。


調査・対峙


 「一つ、やってもらえますか」


 澪は顔を上げた。三回目の訪問だった。


 「何でもいいので、描いてきてください。紙と鉛筆だけで」


 「……何を描けばいいですか」


 「気になるものを」


 それだけだった。慈恩はそれ以上指示しなかった。


 帰り道、澪は考えた。気になるもの。


 カーディガンは気にならない。模試の結果は気にかかるが、気になるのとは違う。幸子の「そっちの方がいいわ」という声は——気にかかる。でも、それを描くのか。


 夜、部屋で鉛筆を探した。あった。紙がなかった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!

ぜひお楽しみに!


★感想・評価をいただけると、執筆の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ