第80話 岸田澪の、消えかた(1)
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それでは、本編をお楽しみください。
「制服の、ボタン」
制服を着た。
襟元から順番に、ボタンを留めていく。一つ。
二つ目に触れた瞬間、指が止まった。
なぜかは、わからない。ただ、止まった。
窓の外から、金木犀の匂いが来た。薄く、甘く——秋の朝にだけある、あの匂い。
——何か、思い出しかけた。
それが何かは、掴めなかった。けれど指は動いて、ボタンを留めた。
鏡の中に、岸田澪がいる。制服、清潔。髪、下ろしたまま。
「髪、それでいいの」
ノックなしに、ドアが開いた。
——驚かなかった。いつものことだから。
母・幸子が入ってくる。姿勢が正しく、声は柔らかい。怒鳴ることは、一度もない。
「——下ろしたままより、結んだほうが清潔感あるわよ。先生の印象、大事だから」
澪は返事をしなかった。ドレッサーに戻り、ヘアゴムを手に取る。後ろでひとつに結んだ。
幸子が鏡越しに頷く。
「そっちの方がいいわ。やっぱり」
——お母さんは、いつも正しい。
澪の内側で、静かにそう確認した。言葉ではない。確認というより、呼吸のようなものだった。息を吸えば肺が膨らむのと同じくらい——自然に、当たり前に、そう思う。
——だからわたしは、なにも考えなくていい。
食卓は二人分だった。父は単身赴任中で、今も東北にいる。月に一度か二度、帰ってくる。テーブルに父の席はあるが、そこには朝のうち、畳まれた新聞だけが置かれていた。
幸子がよく喋る。声は、いつも穏やかだ。
「今日、最高気温が十五度まで下がるって。ちゃんとカーディガン持った?」
「……持った」
「えらいわね」
褒めるとき、幸子は澪の目を見ない。澪の手元か、制服の襟か、そのあたりを見て言う。
「模試の結果、先生から何か言われた?」
「特に」
「英語、あと五点上げれば偏差値で二つ変わるって話だったでしょ。やればできるんだから、あなたは」
幸子の箸は、その間もずっと動いている。天気、模試、隣の藤原さんの娘の大学進学、来週の健康診断、冬のコートはまだ早いがもう見ておいた方がいいか。話は途切れない。澪の返事を、待ってはいない。
「カーディガン、何色にする? 紺がいいと思うけど」
——わたしは、紺のカーディガンを選んだことがない。
「……どっちでもいい」
「じゃあ、紺ね」
決まると、幸子は満足そうに頷いた。澪が頷く前に、もう次の話に移っている。
澪は相槌を打つ。
「うん」「そうだね」「わかった」「うん」
——わたしの声は、お母さんの話のすきまに入るためだけにある。
野菜を口に運ぶ。好きでも、嫌いでもない。幸子が皿に追加した分も、全部食べた。
「受験期に体壊したら全部終わりよ。食べなきゃ駄目」
「……うん」
窓の外から、また金木犀の匂いが来た。今度は少し濃い。秋の朝の、重たい甘さ。
澪は箸を持ったまま、一瞬だけ窓を見た。
——何かを、思い出そうとしていた。
中学の頃の何か。もっと前の何か。名前が、ない。窓の向こうには空しかない。
「澪、ぼんやりしてる」
幸子の声が、割り込んできた。
「——食べなさい。手が止まってるわよ」
「……ごめん」
澪は箸を動かした。金木犀の匂いは、もう消えていた。
登校の準備を整える。制服の乱れを確認して、カーディガンをリュックに入れた。玄関へ向かう途中、洗面所の鏡が視界をよぎった。
立ち止まる気にもならなかった。いつもの顔がそこにある。それだけだった。
「忘れ物は?」
幸子が廊下から声をかけてくる。
「ない」
「財布は」
「ある」
「定期、入ってる?」
一拍、置いた。昨日、幸子に確認させられた定期券が、制服のポケットにあるはずだった。
「……入ってる」
「そう」
玄関で靴を履きながら、幸子がそばに立っていた。澪の後ろに、静かに。
靴の紐を結んで、立ち上がる。振り返ると、幸子が制服の背中に手を一度だけ当てた。さっと触れて、離す。しわを伸ばしたのか、確認しただけなのか。澪には、読めなかった。
幸子の視線は、もう澪の顔ではなく、制服の肩口に向いていた。
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
扉を開けると、金木犀の匂いがまた来た。今度は外から、はっきりと。
秋の空気が、冷たかった。澪は一歩外へ出て、扉が背中で閉まる音を聞いた。
——何かが、あったはずだ。
毎朝この匂いを嗅ぐたびに、思い出そうとする。でも辿り着けない。どこかにあるはずの、自分の中の何か。
澪は歩き出した。
——向いていないから、やめた。それだけだ。
何が、向いていないのか。自分でもわからないまま、その言葉が頭の中に浮かんでいた。
道の角に、古いビルがある。澪はいつも、そこを見ないようにしながら通る。
今日だけ——金木犀の匂いが、あのビルの方から来た。
足が、止まった。
美術室の、鍵
昼休みは、十二時十五分に始まる。
澪は弁当箱を机の上に出した。
幸子が詰めた中身——野菜の和え物、鶏肉の薄切り、プチトマト三つ。
蓋を開けると、わずかに湯気が立った。
冷ましすぎないよう計算された詰め方だと、澪は知っている。
幸子は、そういう人だから。
教室の窓際。隣の席は空いている。
クラスメイトは二、三人ずつかたまって廊下へ出ていった。
去年のことが、また出てきた。
クラスの女子グループに放課後の誘いを受けた。その夜、幸子に話した。幸子は箸を止めずに頷いた。「楽しそうね」と言った。やさしい声だった。
翌朝、学校に電話が入った。「うちの子は受験がありますので、ご配慮いただけると」。穏やかな声だったと、担任の先生が後で教えてくれた。幸子の声はいつも穏やかだ。
幸子は、電話をかけたことを澪に言わなかった。澪も、聞かなかった。
次の日から、グループは誘わなくなった。
澪は謝らなかった。謝り方が、わからなかった。
——友達は、作らない方がいい。お母さんに、迷惑がかかる。
いつからそう思っているのか、もう覚えていない。それだけだ。
端から順に食べる。好きでも嫌いでもない。幸子が詰めた分、全部なくなった。
——去年より、減ったものがある。
昼休みの後半、澪は廊下を歩いた。
理由は特にない。座っていると、携帯にメールが来る気がした。幸子からの。「今どこ?」「ちゃんと食べた?」。
折りたたみを開くたびに何かが少し減る感じがして——返すたびに、また少し減る。
動いていた方が、楽だった。
三階の廊下は静かだった。美術室は廊下の突き当たり、右端にある。
通り過ぎるつもりだった。足が、一歩分だけ遅くなった。
ドアに小窓がある。のぞくつもりはなかった。それでも、視線が止まった。
誰もいない。放課後のような静けさが、ガラス越しに漏れていた。立てかけられたキャンバス。使いかけの絵の具のチューブが並んだ棚。
匂いが来た。
絵の具と、木の乾いた匂い。廊下の空気とは、少しだけ違う。
気づいた時には、手がドアノブに触れていた。
ドア越しに、誰かがいる気がした。誰もいないはずなのに。
金属の冷たさが、指先から掌へ伝わった。
押さなかった。でも、離しもしなかった。
——去年まで、ここに鍵を借りに来ていた。
中学の頃、澪は美術部だった。週に三日、放課後に残った。
顧問の先生が一度だけ言った。澪が誰にも見せるつもりのなかった習作を、棚の整理中に先生が見つけた時だった。「構図が面白いね」。それだけで、行ってしまった。一度だけ。でもその言葉が、ずっと頭の中にあった。
高校で入ろうとした。幸子に話した夜。
「美術で食べていける人間なんて、ひと握りよ」
声は柔らかかった。怒っていなかった。ただ、正しかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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