第78話 喫茶店の、けんくん(8)
「……」
「いまは、めんどくさいから、これくらいで収めますけど」
◆◇
父の身体が、すこし揺れた。
慈恩さんの目は、ほんの、すこしだけ、開いている。
爪の厚みくらい。
しかし、その目から、何かが滲み出ていた。
ぼくには、見えない。
しかし、父には見えたらしい。
父は、青ざめる。
◆◇
「わ、わかった、わかったから」
父は、後ずさる。
膝が、すこし震えていた。
父は、車に向かって、ふらふらと歩く。
車のドアを、自分で開けて、乗り込む。
ドアを閉めた。
◆◇
車が、発進する。
工場の前を、走り去る。
ぼくは、車が見えなくなるまで、それを見ている。
◆◇
「けんとくん」
慈恩さんが、ぼくの肩に手を置く。
冷たい手だ。
「大丈夫ですか」
「……はい」
「びっくりしたでしょう」
「……はい」
「ぼくも、ね、めんどくさかったです」
慈恩さんは、糸目のまま、すこし笑う。
◆◇
「あの、慈恩さん」
「ええ」
「なんで、戻ってきたんですか」
「気になったから、ですよ」
「気になった」
「ええ」
「何が」
「黒いセダン、ね、駅前で見ました」
「あ……」
「ナンバープレート、ぼく、おぼえてました」
「いつから」
「半年前、ぼくが点検に来たとき、ね、ちらっと見たんですよ」
◆◇
「父の車、見たんですか」
「ええ。だから戻ってきた」
「半年前から、わかってたんですか」
「いえ、わかってない。気になってた、だけ」
慈恩さんは、すこし視線を伏せる。
「ぼくね、勘で動いてますんで」
ぼくは、何も言えない。
半年前、慈恩さんは点検に来たとき、駐車場の車のナンバーを覚えていたらしい。
そして半年後、その車を駅前で見て、戻ってきたのだ。
ぼくには、ありえないこと。
◆◇
「慈恩さん」
「ええ」
「ありがとうございました」
「いえ、ぼくは、コーヒー飲みに来ただけですよ」
「コーヒー、飲んでないでしょう」
「あ、まだでしたね」
慈恩さんは、糸目のまま、すこし笑う。
◆◇
その日の夕方、ぼくは、おじいちゃんに報告した。
父が来たこと。
慈恩さんが追い払ってくれたこと。
おじいちゃんは、しばらく黙っていた。
「健斗」
「うん」
「お父さんのこと、どう思った」
「……」
ぼくは、答えに迷う。
「お父さん」と呼ぶのが、しっくり、こない。
「あの人」、と、心の中で呼んでみる。
「あの人」も、ちがう。
もっと、距離のある呼び方。
「あれ」
ぼくの口から、その言葉が出た。
「あれは、もう、ぼくのお父さんじゃ、ない」
◆◇
おじいちゃんは、すこし目を伏せた。
「そうか」
「うん」
「ええんか、それで」
「うん」
「ええ、ええ」
おじいちゃんは、それだけ言って、湯呑みをぼくに差し出す。
ぼくは、湯呑みを両手で受け取る。
あたたかかった。
◆◇
その夜、ぼくは、慈恩さんに電話した。
お礼を、言うため。
慈恩さんは、すぐに出た。
「慈恩さん」
「ええ」
「今日は、ほんとに、ありがとうございました」
「いえ、ぼくは、コーヒーを飲んで、話を聞いただけですよ」
「……飲んでないって、さっき」
「あ、まあ、いまから、飲みますよ」
慈恩さんは、糸目のまま、すこし笑う。
◆◇
「慈恩さん」
「ええ」
「あの、ぼく、お父さんのこと、『あれ』、って呼ぶようになりました」
「ええ」
「変、ですか」
「いえ、ね、それでいいんですよ」
「なんで」
「お父さんは、ね、お父さんの役割を、もう、やってないですから」
「うん」
「役割をやってない人を、『お父さん』と呼ばなくて、いいです」
◆◇
「慈恩さん」
「ええ」
「ぼく、まだ変われますか」
「ええ、変われますよ」
「断定するんですか」
「ええ、します」
「なんで」
「気になったから、ですよ」
◆◇
電話を切る。
ぼくは、しばらく、受話器を見ていた。
窓の外、夜空に、星がひとつ。
あの星、揺れない、と思う。
慈恩さんの煙のように、揺れない星だ。
◆◇
翌朝、工場のシャッターを開ける。
駐車場には、もう、黒いセダンは停まっていなかった。
ふつうの朝が、そこにあった。
ぼくは、長い息を吐く。
今日も、電話をかける。
今日も、部品を運ぶ。
それだけ。
しかし、それだけが、ぼくの生きていく道だった。
第6章・完 ——託された使命
——けんとの視点
五年後。
田島町工場、朝六時半。
シャッターが、ガラガラ、と、上がった。
ぼくは、田島 健斗、二十七歳。
田島町工場、代表取締役。
おじいちゃんは、この春、逝った。
◆◇
「おはようございます」
田中が、入ってくる。
二十五歳の社員だ。
「田中、おはよう」
「今日、川田さんとこ、納品でしたよね」
「うん、午前中に、行く」
「お疲れさまです」
◆◇
工場には、三人いる。
ぼく、田中、青木さん。
青木さんは、五十代のベテラン。
もとは別の工場の社員だったが、その工場が潰れて、うちに移ってきた。
三人体制で、工場を、回している。
◆◇
借金は、慈恩さんの言った通り、一年で、返した。
貸金契約の百万も、五年の期限内に、すこしずつ、返した。
成功報酬の、四割も、毎月、払った。
「人生が、変わらなかったら、ゼロ」。
払うか、どうかは、ぼくの、判定しだい。
そういう、契約だった。
ぼくは、五年間、一度も、迷わなかった。
——変わった。
だから、払う。
振り込みの、控えだけが、机の、引き出しに、たまっていった。
督促状の、束が、入っていた、あの、引き出しに。
慈恩さんからは、特に、連絡が、なかった。
半年点検も、その後、来なかった。
ぼくは、自分の足で、立つようになった。
◆◇
おじいちゃんは、この春、亡くなった。
突然だった。
工場で、いつものように、旋盤を、回していて、そのまま、倒れた。
救急車を、呼んだが、間に合わなかった。
ぼくは、最後の、おじいちゃんの顔を、ずっと、見ていた。
穏やかな顔だ。
苦しそうな顔ではなかった。
◆◇
「健斗」
亡くなる、半年前。
おじいちゃんは、ぼくに、工場の名義変更の書類を、渡した。
「これで、ぼうや、もう、社長やで」
「おじいちゃん、まだ、現役で、ええやん」
「もう、しんどい」
「うん」
「健斗、お前、ちゃんと、やっていけるか」
「うん、やる」
「ありがとうな、健斗」
◆◇
おじいちゃんは、それから半年、ぼくの隣で、工場の、ぜんぶを、教えてくれた。
帳簿の付け方。
取引先との、関係性。
部品の、加工の、コツ。
古い、旋盤の、扱い方。
ぼくは、必死で、覚えた。
◆◇
おじいちゃんが、最後に、言ったのは、こうだった。
「健斗」
「うん」
「お母さんは、ね」
「うん」
「『大切な人のために、使うお金は、増える』」
「うん」
「お前、ちゃんと、それ、できとる」
「うん」
「ありがとうな」
◆◇
翌週、おじいちゃんは、逝った。
葬式には、川田社長も、近所の工場の人たちも、たくさん、来てくれた。
みんな、おじいちゃんの工場に、お世話になった人たちだった。
「信夫さん、ほんま、ようやってくれたわ」
「あの人、おらんかったら、うちも、潰れとった」
「健斗くん、信夫さんの遺志、継いでな」
ぼくは、頭を、下げ続けた。
——慈恩、再訪
その日の夕方、慈恩さんが来た。
工場のシャッターの前に、ふらり、と、立った。
「あ、けんとくん」
「お久しぶりです」
「五年、経ちましたね」
「はい」
「契約、五年で、終わりですよ。もう、けんとくんは、ひとり立ちです」
ぼくは、黙っていた。
「おじいちゃんの工場、続いてますね」
「はい」
「信夫さん、喜んでますよ、たぶん」
◆◇
慈恩さんは、糸目のまま、工場を、見渡した。
三十一歳。
最初に会ったときから、五年。
しかし、見た目は、ほとんど、変わっていない。
糸目。
黒いジャケット。
煙草を、指先で回している。
◆◇
「ぼくは、コーヒーを飲んで、話を聞いただけですよ」




