第77話 喫茶店の、けんくん(7)
第5章 ——揺れない煙
——けんとの視点
黒いセダン。
中に、人が、三人いる。
嫌な予感が、した。
◆◇
「田島工場ですね」
車から降りてきた男が、言う。
スーツ。
いかつい体つき。
目が、細くて、笑っていない。
「はい」
「田島健斗さん?」
「……はい」
「話があります。上がらせてもらいます」
断れない。
工場の中に通すと、もう一人、入ってくる。
そして、最後に入ってきた男を見て、ぼくは、固まる。
「久しぶりやな、健斗」
父、だった。
◆◇
ぼくは、十六年ぶりに、父の顔を見る。
六歳のとき、夜の台所でビールを飲んでいた人。
あの夏の終わりの夜、振り返らなかった人。
いまのその人は、太っている。
顎が、二重になっていた。
白髪が、混じっている。
目つきが、すこし、すわっていた。
父では、ない。
しかし、父の顔だ。
◆◇
「健斗、大きくなったな」
父は、笑っている。
ぼくは、何も、言わない。
「あー、すまんすまん、紹介や。こちら、上原さん。会社の、社長や」
いかつい男が、軽く頭を下げた。
「あちらは、若いほうが青木くん。あと、佐藤くん」
ぼくは、頭を下げない。
◆◇
「で、健斗」
「……」
「親父の工場、いま、お前が回してるんやってな」
「……」
「いやー、立派や。ほんま、立派」
父は、笑っている。
しかし、目は、笑っていない。
「で、今日来たんはな」
「……」
「親父の工場、おれが引き継ぐ話、しに来た」
◆◇
「おやじが死んだら、ここは俺のもんや」
「おじいちゃんは、死んでない」
「でも、もう長くないやろ。老い先短いじじいに任せとくより、俺がやった方が効率的や」
「おじいちゃんは、まだ一人でやってる」
「お前みたいな子供に、何がわかるんや」
父の横にいる二人の男が、腕を組んで立っている。
ぼくは、足が、震えていた。
「ここはおじいちゃんの工場です。出ていってください」
「生意気なこと、言うな」
◆◇
その時。
工場のシャッターの前に、影が立つ。
ふらり、と。
ぼくは、顔を上げる。
黒いジャケット。
煙草。
糸目。
慈恩さん、だった。
帰ったはずだ。
しかし、戻ってきた。
◆◇
慈恩さんは、工場の中を見ている。
糸目のまま。
そして、わずかに目を開けた。
人差し指の爪の厚みくらい、だけ。
「あ、どうも」
丁寧に、軽く会釈する。
「お取り込み中、失礼します」
いつもの口調と、ちがう。
「あー」
が、ない。
「ですよー」
が、ない。
シンプルな、「失礼します」。
身体が、感じた。
いつもの慈恩さんと、ちがう。
◆◇
四人が、振り返る。
「どちらさん」
いかついほうの男が、訊いた。
父が「社長」と紹介していた男だ。
慈恩さんは、煙草を一吸いして、煙を吐く。
煙が、揺れずに立ち上る。
シャッターの前で。
風があるのに、揺れない、煙。
「ぼくは、けんとくんの知り合いです」
「知り合い?」
「はい、契約してるんですよ」
「契約?」
「けんとくんが働いて返す、契約」
「あんた、金貸しか」
「いえ、気づかせ屋です」
「……なんや、それ」
「めんどくせぇ仕事です」
慈恩さんは、糸目で軽く笑う。
その「めんどくせぇ」に、ぼくには読めない何かが混じっていた。
——Part 2 刀印の、一線
「帰ってくれ」
父が、言った。
「お前には関係ない」
「関係、ありますよ」
慈恩さんは、工場に入ってくる。
ゆっくりと。
しかし、足音は、しない。
黒いジャケット、黒いシャツ、黒いスラックス。
慈恩さんは、工場の真ん中まで、来た。
◆◇
「上原さん、でしたっけ」
「あ?」
「若頭、ね、お疲れさまです」
慈恩さんは、軽く頭を下げる。
上原と呼ばれた男の眉が、ぴくり、と動いた。
「あんた、ヤクザの業界の人間か」
「いえ、ぼくは、なにも、ないですよ」
「なにも、ない?」
「ええ、なんも、なにも、ね」
◆◇
「父」
「……父」
「いえ、田島さんのお父さん、ですよね」
「ああ、そや」
「失礼します」
慈恩さんは、父の方に、ふらり、と歩く。
父の前で、止まる。
ぼくの三歩、横。
慈恩さんは、糸目のまま、父を見ている。
父は、目を逸らした。
◆◇
「田島さん」
「……」
「健斗くんのお父さん、ですね」
「……ああ」
「健斗くんが六歳のときに、家を出られた、ですね」
「……」
「そのあと、十六年、連絡なし」
「……」
「いま、急に戻ってこられた、理由は」
「工場のことや」
「ええ」
◆◇
「お父さん」
「健斗、お前は黙っとれ」
「ぼくは、お父さんに聞いてないです」
「健斗!」
「ぼくは、慈恩さんに聞いてます」
◆◇
慈恩さんは、ふっと笑う。
糸目のまま。
「健斗くんは、けんとくんですね」
「あ……はい」
「ぼくは、けんとくんと、契約してます」
「ええ」
「ぼくが、けんとくんに、お金を貸しています」
「ええ」
「けんとくんが、ぼくに、お金を返す契約です」
「ええ」
「その、けんとくんの収入源が、田島町工場です」
「ええ」
「だから、ぼくにも、この工場、関係、あります」
◆◇
「ふん」
父が、横で、鼻を鳴らした。
「金貸しが、なんでここまでしゃしゃり出てくるんや」
「ぼくは、金貸しじゃないですよ」
「金、貸しとるやろ」
「ええ、貸してます。でも、ぼくの本業は、気づかせ屋です」
「は?」
「気づかせ屋、知らないですか」
「知らんわ」
「めんどくせぇ仕事ですよ」
◆◇
慈恩さんは、煙草をもう一口、吸う。
煙が、揺れずに立ち上る。
「ぼくはね」
慈恩さんは、糸目のまま、ゆっくり言う。
「めんどくさいこと、しか、しないんですよ」
「ふん」
「でも、めんどくさいほうが、だいたい、効くんですよ」
「効く?」
「ええ」
◆◇
「お父さん」
「……」
「あなた、今日、ここに来た理由」
「……」
「教えてくれませんか」
父の目が、すこし泳ぐ。
「親父の工場、引き継ぐためや」
「ええ」
「もう、おやじ、長くない」
「ええ」
「健斗一人じゃ、無理や」
「ええ」
◆◇
「で、その、いま、後ろにいる上原さんですけど」
「……」
「これ、どなたですか」
「……会社の」
「どんな会社、ですか」
「不動産、関係や」
「ふん」
慈恩さんは、糸目のまま頷いた。
「お父さん」
「……」
「ぼく、ね、嘘、嫌いなんですよ」
「……」
「必要なら、吐きますけど、ね」
「……」
「あなた、嘘ついてますね」
◆◇
父は、黙る。
上原という男が、すこし前に出てきた。
「おい、あんた、なんやと」
「気づかせ屋、です」
「気づかせ屋やとよ! めっちゃ怪しいやないか!」
「ええ、怪しいですよ」
慈恩さんは、ふっと笑う。
「でも、あなたよりは、怪しくないですよ」
「なんやと」
◆◇
慈恩さんは、上原の方に歩いた。
ふらり、と。
上原は、思わず、半歩、下がる。
「上原さん」
「……」
「あなたの、左の薬指、指輪の跡」
「……」
「奥さん、いるんでしょう。あと、お子さんも」
「……」
「いま、ここで不法侵入で捕まったら、奥さん、ね、悲しみますよ」
「……」
「ぼくの知り合いに、所轄にすぐ電話できる人、います」
◆◇
上原は、慈恩さんを睨んだ。
慈恩さんは、糸目のまま、それを受けている。
長い、沈黙。
「ふん」
上原は、視線を逸らした。
「田島さん」
上原は、父に声をかけた。
「あんたの家庭の問題には、これ以上、口出さん。撤退や」
「上原さん!」
「ええから、撤退や」
上原は、それだけ言って、車に戻る。
◆◇
父は、慈恩さんを睨んだ。
「お前、何者や」
「ただの相談屋ですよ」
「嘘つけ」
「ええ、ぼく嘘、嫌いなんですけど、ね。こういうときは、つきます」
◆◇
慈恩さんは、糸目のまま、ゆっくり父に近づく。
父の前で、止まる。
目と、目が、近い。
「田島さん」
「……」
「あなた、もう、二度と、この工場に、来ないでください」
「……」
「来たら、ね、ぼく、本気で対応しますよ」




