第76話 喫茶店の、けんくん(6)
第4章 ——黒字の夜
——けんとの視点
三ヶ月が経った。
田島町工場、朝六時半。
近くの部品メーカーから返事が来て、午前中だけ働かせてもらえることになった。
午後は、工場の手伝い。
借金は、一社ずつ、すこしずつ返している。
三ヶ月前のぼくは、就活に失敗してパチンコに逃げていた。
いまのぼくは、田島町工場の社員一年生だ。
◆◇
「営業、けんとに頼むわ」
おじいちゃんが言った。
「はい」
ぼくは、電話帳を開く。
今日も、電話する。
それだけ。
◆◇
最初の月は、つらかった。
電話をかけても、断られる。
工場を訪問しても、追い返される。
「田島さんとこ、まだ、やってたんか」
多くの会社が、田島町工場を、もう、終わったものとして扱っていた。
しかし、ぼくは、電話を続けた。
◆◇
二ヶ月目、ようやく、ひとつの注文が、取れた。
古い取引先の、小さな部品。
「田島さんの孫が、来てくれるんやったら、ええわ」
その社長は、おじいちゃんの、戦後からの、つきあいだった。
ぼくは、その日、自転車で、工場に戻った。
◆◇
「おじいちゃん、注文、取れた」
「おう、誰や」
「川田金属の、川田社長」
「ふん、川田か」
「うん、五百個」
「ふん」
おじいちゃんは、何も、言わなかった。
しかし、その夜、おじいちゃんは、ぼくに、お酒を注いでくれた。
◆◇
「健斗」
「うん」
「川田に、お礼、言うときや」
「うん、もう言うた」
「ふん」
「おじいちゃん」
「ん」
「川田社長、おじいちゃんに、お酒、飲みに来てくれ、って」
「ほう」
「『信夫さんとな、もう、一度、飲みたい』って」
おじいちゃんは、酒をこぼした。
◆◇
その夜、ぼくは、初めて、おじいちゃんが、泣いているのを見た。
しかし、おじいちゃんは、声を出さなかった。
ただ、テーブルを見ていた。
その目から涙が、ぽたり、と落ちた。
ぼくも、何も、言わなかった。
二人で、しずかに、お酒を飲んでいた。
——Part 2 黒字、五年ぶり
三ヶ月の終わりに、おじいちゃんが、帳簿を持ってきた。
「健斗、これ、見てみ」
ぼくは、帳簿を覗き込んだ。
数字が、並んでいる。
「ここや」
おじいちゃんの指が、月末の合計を指した。
黒字。
たしかに、わずかだったが、黒字になっていた。
◆◇
「五年ぶりや。黒字になったん、五年ぶり」
おじいちゃんは、帳簿を両手で持って、しばらく、黙っていた。
目が、すこし、赤い。
「おじいちゃん、一人で頑張ってたんやな」
「……うん」
「ごめん、おじいちゃん」
「なんで、けんとが謝るんや」
おじいちゃんは、顔を上げた。
「けんとが来る、タイミング、いまがちょうどよかった。もっと早かったら、けんとが若すぎて、できんかった。いまのけんとで、ちょうどええ」
「おじいちゃん……」
「ありがとうな、けんと」
ぼくは、何も、言えなかった。
黒字の帳簿を、二人で、見ていた。
事務所の蛍光灯が、工場の夜に、白く光っている。
——Part 3 慈恩の、半年点検
半年後。
工場のシャッターの前に、見覚えのある黒いジャケットの人影があった。
「慈恩さん!」
「あ、けんとくん、こんにちは」
糸目。
変わらない糸目。
半年ぶりでも、慈恩さんはいつも通りだった。
「わざわざ来たんですか」
「まあ、半年経ちましたからね」
「電話してくれれば……」
「工場、見たかったので」
◆◇
慈恩さんは、工場の中を見回した。
旋盤、コンプレッサー、棚に並んだ部品。
何を見ているのか、何を考えているのか、ぼくには、読めなかった。
「黒字、出ましたよ」
「聞きました」
「誰から?」
「おじいちゃんから、電話がきましたよ」
「……そうなんですか」
「うれしそうでしたよ」
◆◇
慈恩さんは、煙草を一口吸った。
「借金は?」
「三社のうち二社、完済しました。残り一社です」
「いつまでに?」
「あと一年、かかるかもしれないですけど……」
「大丈夫ですよ」
「え?」
「一年で返せますよ」
どうして、そう言えるのか、ぼくにはわからなかった。
しかし、慈恩さんは、いつも、そういう言い方をした。
根拠を、言わない。
でも、外れたことが、ない。
◆◇
「けんとくん、今日は来てよかった」
そう言って、慈恩さんは、工場を後にした。
来た時と同じように、突然だった。
◆◇
その日の夜、ぼくは、慈恩さんの言葉を思い出していた。
「一年で返せますよ」。
計算上、ありえない。
残り一社の借金は、九十万。
月の収入から、生活費と工場の手伝い分を引いて、返済に回せるのは月に四万、五万。
単純計算で、一年半は、かかる。
しかし、慈恩さんは、「一年で」と言った。
◆◇
ぼくは、不思議と、信じていた。
なぜか、わからない。
でも、慈恩さんが「一年で」と言ったなら、一年で、返せる気がした。
◆◇
窓の外、星が、ひとつ、見えた。
ぼくは、目を閉じた。
明日も、工場に行く。
電話を、かける。
部品を、運ぶ。
それだけ。
でも、それが、ぼくのいまの生き方だった。
◆◇
そして、それから、半年後。
朝、工場を開けたら、見知らぬ車が、停まっていた。
黒いセダン。
中に、人が、三人いた。
嫌な予感がした。




