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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
第3話「喫茶店の、けんくん」

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第75話 喫茶店の、けんくん(5)黒いセダン

時間ができた時にも随時更新します!


ぜひお楽しみに!


それでは、本編をお楽しみください。

 朝、工場を開けると、見知らぬ車が停まっていた。


 黒いセダン。


 中に、人が三人いる。


 嫌な予感がした。


「田島町工場ですね」


 車から降りてきた男が言った。


 スーツ。


 いかつい体つき。


 目が細く、笑っていない。


「はい」


「田島健斗さん?」


「……はい」


「話があります。上がらせてもらいます」


 断る前に、男は工場へ入ってきた。


 もう一人も続く。


 そして最後に入ってきた男を見て、ぼくは固まった。


「久しぶりやな、健斗」


 父だった。


 六歳の時、台所でビールを飲んでいた人。


 夏の終わりの夜、振り返らなかった人。


 十六年、一度も戻らなかった人。


 その人が、笑っていた。


「大きくなったな」


 父はそう言った。


 まるで、昨日まで一緒に暮らしていたみたいに。


「苦労したやろ。お前も、母さんも」


 優しい声だった。


 けれど、ぼくの胸は冷えた。


 謝罪の声ではない。


 自分がいい人に見えるための声だった。


「今日はな、田島の家のことを整理しに来た」


「整理?」


「親父ももう年や。お前一人に背負わせるのは酷やろ」


 父は工場の中を見回した。


 旋盤。


 棚。


 油の染みた床。


 おじいちゃんが毎日立ってきた場所。


 それを見ても、父の目は何も揺れなかった。


「俺が戻ってきたんは、家を守るためや」


「……」


「工場も、土地も、ちゃんとした形にせなあかん」


「ちゃんとした形って、何」


「売る」


 短い言葉だった。


「老い先短い親父が意地で続けるより、土地ごと整理した方がみんな得する」


「おじいちゃんは、まだ生きてる」


「でも判断力は落ちてるやろ」


「落ちてない」


「健斗。感情で物を見たらあかん」


 父は、そこで少し笑った。


「お前の借金も、俺が話をつけたる」


 ぼくは息を止めた。


「知ってるんですか」


「親やからな」


 違う。


 親だから知っているんじゃない。


 調べたのだ。


 ぼくの弱いところを。


 握れるところを。


「お前は若い。工場経営なんか無理や。俺が引き受ける。お前は楽になれる」


 その言い方が、怖かった。


 心配しているようで、ぼくの意志を一つも見ていない。


 全部、自分の都合のいい形に並べ替えている。


「ここは、おじいちゃんの工場です」


「いずれ俺のもんや」


「違います」


「生意気言うな」


 父の目から、笑いが消えた。


「お前に何がわかる。俺もな、苦労したんや。家を出るしかなかった。親父にも、母さんにも、責められてな」


「ぼくと母さんを置いていったことは?」


「子どもにはわからん事情がある」


「十六年、連絡しなかったことは?」


「だから、今こうして戻ってきたんやろ」


 父は、あくまで自分を被害者に置いていた。


 悪かった、ではない。


 仕方なかった、だった。


 そして今は、戻ってきてやった、だった。


「ここは売りません」


 ぼくは言った。


「おじいちゃんが続けてきた工場です」


「健斗」


 父の声が低くなる。


「お前、誰に向かって口きいてるんや」


 その時だった。


 工場のシャッターの前に、影が立った。


 黒いジャケット。


 黒いシャツ。


 煙草。


 糸目。


 慈恩さんだった。


「お取り込み中、失礼します」


 いつもの口調ではなかった。


 軽さがない。


 ただ静かだった。


「どちらさんや」


 いかつい男が言った。


「けんとくんの知り合いです」


「知り合い?」


「契約しています」


「金貸しか」


「気づかせ屋です」


「なんやそれ」


「めんどくさい仕事です」


 慈恩さんは、工場の中へ入ってきた。


 足音がしなかった。


「田島さん」


 慈恩さんは父を見た。


「あなたは工場を継ぎに来たんじゃない」


 父の顔が固まった。


「田島信夫さんの人生を、最後に換金しに来たんです」


「……何を」


「家族のため、田島のため、健斗くんのため。言葉はきれいです。でも中身は、土地と権利と金です」


「黙れ」


「あなたは謝りに来ていない。戻りに来てもいない。取りに来たんです」


 慈恩さんの煙が、まっすぐ上へ立ち上った。


 工場には風が入っている。


 なのに、その煙は揺れなかった。


「上原さん」


 慈恩さんが、いかつい男を見た。


「あなた、不動産ではなく、地上げですね」


 男の眉が動いた。


「何者や、お前」


「相談屋です」


「ふざけるな」


「ふざけていません。あなたの左手、指輪の跡がありますね。奥さんとお子さんがいる」


「……」


「ここで不法侵入と威力業務妨害で警察沙汰になると、困りますよね」


 上原という男は、慈恩さんを睨んだ。


 長い沈黙のあと、舌打ちした。


「田島さん。話が違うわ」


「上原さん」


「身内の同意が取れてる言うたやろ」


「いや、それは」


「撤退や」


 上原たちは車へ戻っていった。


 父だけが、工場に残った。


 慈恩さんは、父の前に立った。


「もう二度と、この工場へ来ないでください」


「お前に言われる筋合いは」


「来たら、本気で対応します」


 慈恩さんの糸目が、ほんの少しだけ開いた。


 爪の厚みくらい。


 それだけだった。


 けれど、父の顔から血の気が引いた。


「わ、わかった」


 父は後ずさった。


「わかったから」


 車のドアが閉まる。


 黒いセダンが走り去る。


 ぼくは、それが見えなくなるまで立っていた。


「けんとくん」


 慈恩さんが、肩に手を置いた。


 冷たい手だった。


「大丈夫ですか」


「……はい」


「怖かったですね」


「はい」


「ぼくも、めんどくさかったです」


 慈恩さんは、糸目に戻っていた。


「あの、なんで戻ってきたんですか」


「気になったからです」


「何が」


「黒いセダンを駅前で見ました」


「それだけで?」


「半年前に、工場の近くで同じ車を見ています。ナンバーを覚えていたので」


「覚えてたんですか」


「気になったので」


 それだけで戻ってきた。


 それだけで間に合った。


 慈恩さんは、本当にわからない人だった。


 その日の夕方。


 ぼくは、おじいちゃんに父が来たことを話した。


 慈恩さんが止めてくれたことも。


 おじいちゃんは、しばらく黙っていた。


「健斗」


「うん」


「お父さんのこと、どう思った」


 ぼくは答えに迷った。


 お父さん。


 その呼び方が、しっくりこなかった。


 あの人。


 それも違う。


 もっと遠い。


 もっと冷たい。


「あれは、もう、ぼくのお父さんじゃない」


 口に出すと、不思議と苦しくなかった。


 おじいちゃんは、少し目を伏せた。


「そうか」


「うん」


「ええんか、それで」


「うん」


「ええ。ええ」


 おじいちゃんは、それだけ言って、湯呑みを差し出した。


 ぼくは両手で受け取る。


 あたたかかった。


 夜、慈恩さんに電話をした。


「今日は、本当にありがとうございました」


「ぼくは、話を聞いただけですよ」


「追い払ってくれました」


「向こうが勝手に帰ったんです」


「慈恩さん」


「はい」


「ぼく、父のことを、もう父と呼べないです」


「それでいいです」


「いいんですか」


「お父さんの役割をしない人を、お父さんと呼ばなくていいです」


 受話器を握る手に力が入った。


「ぼく、まだ変われますか」


「変われます」


「断定するんですか」


「はい」


「なんで」


「気になったからです」


 電話を切ったあと、しばらく受話器を見ていた。


 窓の外に、星がひとつ見える。


 揺れない星だった。


 翌朝、工場のシャッターを開ける。


 黒いセダンは、もうなかった。


 普通の朝がそこにあった。


 ぼくは長い息を吐いた。


 今日も電話をかける。


 今日も部品を運ぶ。


 それだけ。


 でも、それが、ぼくの生きていく道だった。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


notoやってます。

マガジンお仕事物

https://note.com/happy_duck8972/m/m87f735c2539e


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