第74話 喫茶店の、けんくん(4)黒字の夜
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
三ヶ月が経った。
田島町工場、朝六時半。
シャッターを上げる音が、まだ眠い住宅街に響く。
ガラガラガラ。
油の匂い。
鉄の匂い。
古い機械の匂い。
最初は苦手だったその匂いが、今は少しだけ落ち着く。
三ヶ月前のぼくは、就活に失敗して、パチンコに逃げて、借金を三百万円まで増やしていた。
今のぼくは、午前中だけ近くの部品メーカーで働かせてもらい、午後は田島町工場を手伝っている。
借金は、一社ずつ、少しずつ返している。
まだ、きれいになったわけではない。
でも、逃げてはいない。
それだけは、三ヶ月前と違っていた。
「営業、けんとに頼むわ」
おじいちゃんが言った。
「はい」
ぼくは電話帳を開く。
今日も電話をかける。
それだけ。
でも、その「それだけ」が、最初の一ヶ月は本当につらかった。
電話をかけても、断られる。
工場を訪ねても、追い返される。
「田島さんとこ、まだやってたんか」
「悪いけど、今は新規いらんわ」
「若い子が来てもなあ」
そういう言葉を、何度も聞いた。
多くの会社が、田島町工場をもう終わったものとして扱っていた。
それでも、電話を続けた。
断られるたびに胸は沈んだ。
でも、パチンコ屋に逃げるよりはましだった。
少なくとも、電話の向こうには人がいる。
返事がある。
断られても、世界から消されたわけではない。
二ヶ月目。
ようやく、ひとつ注文が取れた。
古い取引先の、小さな部品だった。
「田島さんの孫が来てくれるんやったら、ええわ」
そう言ってくれたのは、川田金属の社長だった。
おじいちゃんと、戦後からの付き合いがある人らしい。
ぼくはその日、自転車で工場まで戻った。
息が切れていた。
けれど、足は軽かった。
「おじいちゃん」
「ん」
「注文、取れた」
「誰や」
「川田金属の川田社長」
「ふん。川田か」
「五百個」
「ふん」
おじいちゃんは、それだけ言った。
喜んでいるのか、いないのかわからなかった。
でも、その夜。
おじいちゃんは、ぼくに酒を注いでくれた。
「健斗」
「うん」
「川田に礼、言うときや」
「もう言うた」
「ふん」
「川田社長、おじいちゃんに酒飲みに来てくれって」
おじいちゃんの手が止まった。
「信夫さんと、もう一度飲みたいって」
おじいちゃんは、酒を少しこぼした。
その夜、ぼくは初めて、おじいちゃんが泣いているのを見た。
声は出さなかった。
ただ、テーブルを見ていた。
目から涙が一滴、ぽたりと落ちた。
ぼくも何も言わなかった。
二人で、静かに酒を飲んだ。
三ヶ月の終わり。
おじいちゃんが帳簿を持ってきた。
「健斗、これ見てみ」
ぼくは帳簿を覗き込む。
数字が並んでいる。
おじいちゃんの指が、月末の合計を指した。
「ここや」
黒字。
わずかだった。
本当に、わずかだった。
でも、確かに黒字だった。
「五年ぶりや」
おじいちゃんは帳簿を両手で持ったまま、しばらく黙っていた。
「黒字になったん、五年ぶりや」
目が少し赤い。
「おじいちゃん、一人で頑張ってたんやな」
「うん」
「ごめん」
「なんで、けんとが謝るんや」
おじいちゃんは顔を上げた。
「けんとが来るタイミング、今がちょうどよかったんや」
「今が?」
「もっと早かったら、けんとが若すぎて、できんかった。もっと遅かったら、工場がもたんかった」
「……」
「今のけんとで、ちょうどええ」
おじいちゃんは、ゆっくり言った。
「ありがとうな、けんと」
ぼくは、何も言えなかった。
黒字の帳簿を、二人で見ていた。
事務所の蛍光灯が、工場の夜に白く光っていた。
半年後。
工場のシャッターの前に、見覚えのある黒いジャケットの人影があった。
「慈恩さん!」
「あ、けんとくん。こんにちは」
糸目。
黒い服。
煙草。
半年ぶりでも、慈恩さんはいつも通りだった。
「わざわざ来たんですか」
「半年経ちましたからね」
「電話してくれれば」
「工場、見たかったので」
慈恩さんは工場の中を見回した。
旋盤。
コンプレッサー。
棚に並んだ部品。
壁の古いカレンダー。
何を見ているのか、何を考えているのか、ぼくには読めない。
「黒字、出ましたよ」
「聞きました」
「誰からですか」
「おじいちゃんから電話がありました」
「……そうなんですか」
「うれしそうでした」
ぼくは少し笑った。
おじいちゃんが慈恩さんに電話をした。
そのことが、なんだかうれしかった。
慈恩さんは煙草を一口吸う。
「借金は?」
「三社のうち、二社は完済しました」
「はい」
「残り一社です」
「いつまでに?」
「あと一年半くらい、かかるかもしれません」
「一年で返せますよ」
「え?」
「一年で返せます」
どうしてそう言えるのか、ぼくにはわからなかった。
計算上は厳しい。
残りは九十万円。
生活費と工場の手伝い分を引くと、返済に回せるのは月に四万か五万くらいだ。
普通に考えれば、一年半はかかる。
でも、慈恩さんは「一年」と言った。
根拠は言わない。
けれど、不思議と外れる気がしなかった。
「けんとくん」
「はい」
「今日は来てよかったです」
「何か、わかりましたか」
「ええ」
「何がですか」
「けんとくんが、続けていることです」
慈恩さんは、それだけ言った。
そして、来た時と同じように、ふらりと帰っていった。
その日の夜、ぼくは慈恩さんの言葉を思い出していた。
一年で返せます。
計算上は、ありえない。
でも、信じていた。
なぜかはわからない。
ただ、慈恩さんがそう言ったなら、一年で返せる気がした。
窓の外に、星がひとつ見えた。
明日も工場に行く。
電話をかける。
部品を運ぶ。
断られたら、また次へかける。
それだけ。
でも、それが、今のぼくの生き方だった。
そして、それから半年後。
朝、工場を開けると、見知らぬ車が停まっていた。
黒いセダン。
中に、人が三人いる。
嫌な予感がした。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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