第75話 喫茶店の、けんくん(5)
——あなたは、お金を、何のために、使っていますか。
二十六歳、駆け出しの気づかせ屋・ジオンが、絶望した若者と、
七十八歳の町工場の祖父を、繋いだ。
三世代を貫く、ささやかで、深い、物語。
外で、犬が、一声、鳴いた。
ぼくは、寝返りを打った。
明日から、工場に通う。
借金を、整理する。
おじいちゃんに合わせる顔が、すこし、できた気がする。
第3章 ——けんくんの、決意
——けんとの視点
三日後。
ぼくは、一人で「珈琲 田中」に来た。
慈恩さんは、いつもの席に、座っていた。
新聞を読むふりをして、煙草を吸っている。
「けんとくん」
マスターが「いらっしゃい」と言うより先に、慈恩さんがこちらを見た。
「どうぞ」
向かいの席に、座る。
マスターが、黙ってコーヒーを持ってきた。
常連みたいな扱いだ。
ぼくは、すこし、驚いた。
◆◇
「三日間で、いろいろ動きましたね」
慈恩さんが言った。
「……わかりますか」
「顔が違う」
ぼくは、すこし、黙った。
顔が違う、と言われたのは、初めてだ。
◆◇
「消費者金融、三社に電話しました」
「うん」
「返済の相談をしました。一社は分割にしてもらえました。一社は難しいと言われました。一社は……担当が話を聞いてくれませんでした」
「それで?」
「おじいちゃんの工場に行きました」
慈恩さんは、何も言わなかった。
「三日、手伝いました。旋盤の掃除とか、部品の運搬とか、営業の電話とか……できることだけ」
「おじいちゃんは?」
「……何も言いませんでした。ただ、三日目の朝に、『おはよう』って言ってくれました」
それだけだ。
しかし、ぼくには、それで十分だった。
◆◇
「工場、続けますか」
「……はい」
慈恩さんは、すこし、間を置いてから、
「けんとくんは、もうわかってますよ」
と言った。
「何を、ですか」
慈恩さんは、答えなかった。
かわりに、窓の外を見る。
その横顔から、何も読み取れない。
◆◇
三日間、工場に通った最後の日。
帰り際、おじいちゃんが、工場の入口で立っていた。
「けんと」
「うん」
「また来いよ」
ぼくは、止まった。
おじいちゃんは、工場の中に向かって歩き出す。
背中が、すこし、曲がっている。
しかし、歩き方は、まっすぐだった。
「おじいちゃん」
振り返らない。
「……ぼく、この工場を続けてほしい」
おじいちゃんの足が、止まった。
しばらく、何も言わなかった。
「わかった」
それだけだ。
それだけで、十分だった。
◆◇
「ぼくは、変われますか」
慈恩さんに、聞いた。
慈恩さんは、コーヒーカップをテーブルに置く。
「それは、ぼくには、答えられないですね」
「なんで」
「それを決めるのは、けんとくんだから」
ぼくは、すこし、唇を噛んだ。
しかし、不思議と、不満は、ない。
◆◇
「ひとつ、聞いていいですか」
「ええ」
「あの日、おじいちゃんに、会って、慈恩さん、なに思ったんですか」
「気になったから、会いに行きました」
「……それは、知ってます」
「ええ」
「会って、どう、思いましたか」
慈恩さんは、糸目のまま、すこし、笑った。
「ええ、人、でしたね」
「それだけ?」
「それだけ、です」
◆◇
「おじいちゃんは、慈恩さんのこと、『欲のない目してる』って、言ってました」
「ええ、聞きました」
「え」
「あ、いえ、聞いた気がします、っていう、ね」
慈恩さんは、すこし、視線を逸らした。
ぼくは、それを見ていた。
ふしぎだ。
慈恩さんは、その「欲のない目」と言われたとき、はっきり、視線を逸らした。
いつも、何にも、動じない人なのに。
◆◇
「慈恩さん」
「ええ」
「欲、ないんですか」
「ありますよ」
「なに」
「めんどくさい人と、会いたくない、っていう、欲です」
ぼくは、笑ってしまった。
「それだけ?」
「それだけ、です」
「うそ」
「ほんと、ですよ」
でも、慈恩さんは、糸目のまま、コーヒーを飲んでいた。
ぼくには、それ以上、追及できなかった。
◆◇
会計のとき、慈恩さんは、いつものように、自分で払った。
ぼくは、止めようとする。
「百万、整理に使うから、いいから、いいから」
慈恩さんは、糸目のまま、笑っていた。
◆◇
店を出た。
夕方の、五時、過ぎ。
商店街の街灯が、ぽつぽつ、ついている。
慈恩さんは、駅まで歩かない。
路地に向かって、歩き出した。
「慈恩さん」
「ええ」
「ぼく、変われますか」
もう一度、聞いた。
慈恩さんは、ドアに手をかけたまま、すこし、止まった。
「それは、ぼくには、答えられないって、さっき、言いましたよ」
「うん」
「でも、ね」
「うん」
「けんとくん、もう、変わり始めてますよ」
◆◇
慈恩さんは、それだけ言って、路地を歩いていった。
黒いジャケットの後ろ姿。
煙草の煙が、夕暮れの中に、細く立ち上っていた。
あの煙、いつも揺れない。
風があるのに、揺れない。
なんでだろう、と思ったが、答えは出なかった。
◆◇
慈恩さんの後ろ姿が、商店街の人混みに消えた。
ぼくは、しばらく、その方向を見ていた。
◆◇
家に帰る電車の中で、ぼくは、考えていた。
「もう、変わり始めてる」。
なにが、変わったんだろう。
就活、まだ、決まらない。
借金、まだ、ある。
工場、まだ、赤字。
でも、ぼくの中で、何かが、ちがっていた。
昨日まで、ぼくは、毎朝、起きるのが、つらかった。
いまは、明日、工場に行ける、と思える。
それだけの、変化。
でも、たぶん、それがぜんぶなんだと思った。
◆◇
電車の窓に、自分の顔が映っている。
目の下に、隈は、まだ、ある。
頬の肉も、まだ、削げている。
しかし、目の光が、ちがっていた。
六歳のぼくと、二十二歳のぼく。
その間に、ぽっかり開いていた穴が、ほんのすこしだけ埋まっている気がした。
◆◇
窓の外、夕焼けが、線路の向こうに傾いていく。
ぼくは、目を閉じた。
明日、工場で、おじいちゃんに、会える。
明日も、生きていける。
◆◇
そして、一年後。
工場の前に見知らぬ黒いセダンが停まっていた、などということは、この時はまだ知らなかった。
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