第74話 喫茶店の、けんくん(4)
——あなたは、お金を、何のために、使っていますか。
二十六歳、駆け出しの気づかせ屋・ジオンが、絶望した若者と、
七十八歳の町工場の祖父を、繋いだ。
三世代を貫く、ささやかで、深い、物語。
「健斗」
「うん」
「お前、工場、来るか」
「え」
「営業、人手、足りひんねん」
「ぼくに、つとまるかな」
「つとまる、つとまらん、やってみんと、わからん」
「うん」
「やる、んやな」
「やる」
◆◇
慈恩さんは、糸目のまま、頷いていた。
ぼくは、頭を下げる。
「おじいちゃん」
「ん」
「あの、ひとつ、聞いていい?」
「ええよ」
「おじいちゃん、なんで、ぼくに、なにも、言わへんかったん? ぼくが、パチンコに、行ってるの、知ってたん、ちゃう?」
おじいちゃんは、すこし、目を伏せた。
「知ってたよ」
「なんで、言わへんかったん」
「言うても、聞かへんやろ」
「……」
「そういう時はな、健斗、人は、自分で、気づくのを、待つしか、ないんや」
◆◇
慈恩さんは、何も言わなかった。
ただ、コーヒーを飲んでいる。
糸目のまま。
でも、ぼくには、わかった。
慈恩さんは、ずっと、おじいちゃんの言葉を聞いていた。
◆◇
「おじいちゃん」
「ん」
「ぼくらの、家、戦争で、焼けたって、聞いたけど」
「そや」
「お父さん、戦死して、お母さんが、三人の子を、育てた、って」
「そや」
「そのときの、話、聞いてもええ?」
おじいちゃんは、コーヒーを置いた。
慈恩さんを、ちらっと見る。
慈恩さんは、糸目のまま、軽く頷いた。
◆◇
「ま、ええわ」
おじいちゃんは、椅子の背にもたれた。
「昭和二十年。八月十五日。終戦の日や」
「うん」
「おれは、十歳やった。堺の、町の外れに、住んでた」
「うん」
「お父さんは、その年の、春に、戦死した。南方や。骨も、戻ってこんかった」
◆◇
ぼくは、息を、ひそめる。
慈恩さんも、煙草を消した。
おじいちゃんの声は、淡々としていた。
しかし、声の奥に、なにかが、混じっている。
「終戦の夏、家、焼けてた。空襲やな」
「うん」
「お母さん、おれ、妹、弟。四人で、焼け跡の、隅に、寝とった」
「うん」
「食うもんが、なかった」
「……」
「お母さんが、闇市に、毎日、行きよった。なんか、買うてくる、いう日もあったし、なんも、無い日もあった」
◆◇
「ある日、お母さんが、卵を、一個、持って帰ってきたんや」
慈恩さんは、目を細めた。
「一個?」
「そや、一個」
「三人で、分けるんですか」
「いや、お母さん、ぜんぶ、おれにくれよった」
◆◇
「妹も、弟も、お腹、減ってるのに?」
「そや」
「なんで、ですか」
「おれが、三人のなかで、いちばん、栄養失調で、危なかったらしい」
「……」
「お母さん、自分は、食わへん。妹も、弟も、ちょっとだけ。卵は、おれが、ぜんぶ、もうた」
◆◇
おじいちゃんの声は、しずかだ。
「おれ、その卵、食えへんかった」
「え」
「お母さんに、返した。妹と、弟に、あげてくれ、いうて」
「お母さんは、どう、しました」
「黙って、卵、両手で、握っとった」
「……」
「それから、お母さん、こう、言いよった」
◆◇
「『お金の使い方が、大事や』」
「『お金は、自分のために、使うと、減る』」
「『でもな、大切な人のために、使うお金は、増えるんや』」
◆◇
おじいちゃんは、そこで、言葉を切った。
窓の外を、見ている。
慈恩さんは、糸目のまま、頷いていた。
ぼくは、何も、言えなかった。
◆◇
「お母さん、その卵、四つに、割って、おれら三人と、自分とで、分けた」
「四つに?」
「そや、四人で、ちょっとずつ。お母さん、ほんまに、一口だけや」
「……」
「でも、お母さん、笑とった。『これで、四人で、生きられるな』いうて」
◆◇
「お母さん、最後まで、その言葉、覚えとった」
「お母さん、亡くなる前にな、おれに、言うた。『信夫、お前は、お金を、大切な人に、使うんやで』、って」
◆◇
慈恩さんは、新しい煙草を出した。
しかし、火は、つけなかった。
ただ、指先で、回している。
「で、信夫さん」
「ん」
「いまの、田島町工場、あれ、何のために、続けてるんですか」
おじいちゃんは、慈恩さんを見た。
「うちの工場、もう、五年、赤字や」
「ええ」
「でも、潰せん」
「なぜです」
「町の、人らが、困るんや。うちが、加工してた、部品、ちっこいもんやけど、近所の、いくつかの工場の、生命線、いうやつでな」
「ええ」
「うちが、潰れたら、その工場も、潰れる」
「ええ」
「その工場の、社員も、潰れる」
「ええ」
「だから、潰せん」
◆◇
「『大切な人のために、使うお金は、増える』」
おじいちゃんは、もう一度、その言葉を口にした。
「赤字でも、続けるのは、それや。町の、人らのため」
慈恩さんは、しずかに、頷いた。
「信夫さんのお母さんの、言葉、田島町工場で、生きてるんですね」
「そや」
「ぼくね、これ、聞きたかったんですよ」
「聞いて、どうするんや」
「けんとくんが、ね、これを、引き継ぐ、はずですから」
◆◇
おじいちゃんは、ぼくを見た。
ぼくは、頷く。
「おじいちゃん」
「ん」
「ぼく、工場、手伝う」
「うん」
「すぐには、お金、生まれへんかも、しれん」
「うん」
「でも、ぼく、やる」
「うん」
おじいちゃんは、それだけ、言って、コーヒーを飲み干した。
——帰り道
ベルアミを出て、和光市駅まで、おじいちゃんと二人で歩いた。
慈恩さんは、店の前で別れた。
「ぼく、神宝町に戻ります」
「気をつけて」
「けんとくん、また、連絡してください」
「はい」
「あ、田島さん」
「ん」
「今日は、ありがとうございました」
「ジオンさん、いや、慈恩さん」
「はい」
「ええ顔、しとるな、お前も」
慈恩さんは、糸目のまま、軽く笑った。
「変、ですよ」
そう言って、煙草に火をつけた。
煙が、まっすぐ、立ち上る。
風があるのに、揺れない煙だった。
◆◇
おじいちゃんは、その煙をしばらく見ていた。
それから、駅の方へ歩き出した。
ぼくは、慈恩さんに、頭を下げて、おじいちゃんを追いかける。
◆◇
「健斗」
「うん」
「あの人な」
「うん」
「欲のない目、しとった」
「え」
「あの人の目、おれは、何回か、見たことがある」
「どこで」
「戦後、堺の闇市でや。たまに、おった。なんも、欲しがらへん目、しとる人。そういう人は、ええ仕事、しよった」
◆◇
「あの人は、本物や」
「うん」
「金、ちゃんと、返したれよ」
「うん、返す」
「お前の人生、変えてくれる人、やと、思う」
「うん」
◆◇
駅前で、おじいちゃんが、ふと、立ち止まった。
「健斗」
「ん」
「お父さんのこと、覚えとるか」
「……六歳、までの記憶、しか、ない」
「そうか」
「おじいちゃん、お父さんの話、いつも、しないね」
「うん、する気に、ならんかった」
「うん」
「でもな、お前、今日、立派やった」
「うん」
「お父さんの分まで、頑張れよ」
おじいちゃんは、それだけ、言って、改札の方へ歩き出した。
ぼくは、しばらく、その背中を見ていた。
背中が、すこし、曲がっている。
しかし、歩き方は、まっすぐ。
◆◇
夜、布団の中で、ぼくは考えていた。
おじいちゃんの、終戦の話。
お母さんの、卵の話。
「大切な人のために、使うお金は、増える」。
ぼくが、パチンコで、なくしたお金。
あれは、ぜんぶ、自分のために使ったお金だった。
だから、減ったんだ。
◆◇
もし、ぼくがおじいちゃんの工場のために、お金を使えたら。
もし、ぼくがおじいちゃんのために、働けたら。
その「お金」と「働き」は、増えるんだろうか。
わからなかった。
でも、やってみたい、と思った。
◆◇
ぼくは、目を閉じた。
慈恩さんの揺れない煙が、頭の中で立ち上っている。
欲のない目、と、おじいちゃんは言った。
あの人は、何を、見ていたんだろう。
ぼくの、何を、見たんだろう。
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