第73話 喫茶店の、けんくん(3)
——あなたは、お金を、何のために、使っていますか。
二十六歳、駆け出しの気づかせ屋・ジオンが、絶望した若者と、
七十八歳の町工場の祖父を、繋いだ。
三世代を貫く、ささやかで、深い、物語。
二十二歳の顔。
目の下に、隈。
頬の肉が、すこし、削げている。
しかし、ぼくの中で、その顔は二十二歳には見えない。
六歳のときのぼくの顔が、映っている気がする。
◆◇
さて、ぼくが六歳のとき。
夏の終わりの、夜。
台所で、父が一人でビールを飲んでいた。
母は、寝室のドアを、閉めていた。
父は、何も、言わなかった。
◆◇
ぼくは、廊下の向こうから、台所を覗いている。
寝間着だ。
水を、飲みたかっただけ。
父は、ぼくに気づかない。
いや、たぶん、気づいていた。
しかし、何も、言わなかった。
ぼくは、水を飲まずに、布団に戻った。
◆◇
翌朝、ぼくは、父がいないことに気づいた。
母は、いつも通り、朝ごはんを作っている。
「お父さん、いない」
「うん」
「どこ、行った?」
「出かけた」
「いつ、帰ってくる?」
母は、答えない。
目玉焼きを、ぼくの皿にのせる。
手が、震えていた。
◆◇
それから、十六年。
母は、一度も、父のことを話さない。
おじいちゃんも、一度も、父のことを話さない。
ぼくも、一度も、父のことを話さなかった。
三人で、ずっと、その夏の終わりの夜の続きを生きている。
◆◇
電車が和光市駅に着いた。
ぼくは降りる。
家まで、徒歩、十二分。
夜の住宅街を、歩く。
◆◇
頭の中で、慈恩さんの声が、響いた。
「明日、おじいちゃんを連れてきてもらえますか」
明日、おじいちゃんを、ベルアミに連れていく。
ぼくは初めて、おじいちゃんと、第三者を引き合わせる。
大丈夫かな、と、ぼくは思った。
◆◇
家の玄関を開けた。
台所に、母の姿がある。
お皿を、洗っている。
「ただいま」
「おかえり」
「お母さん」
「うん」
「明日、おじいちゃんと、和光市駅行くことになった」
「ふーん」
「相談したい人がいるんだ」
「ふーん」
母は振り返らない。
ただ、ひたすら、お皿を洗っていた。
ぼくは、それ以上、何も言わなかった。
◆◇
自分の部屋に入る。
借金の督促状の束を、机から引き出しに押し込んだ。
明日、慈恩さんが、整理してくれる。
今夜は、その紙、見たくない。
◆◇
布団を敷いた。
電気を消す。
暗闇の中で、目を、開けていた。
◆◇
気になったから、ですよ、と、慈恩さんの声が頭の中で響いた。
何が、気になったんだろう。
ぼくの、何が。
借金?
就活、失敗?
パチンコ?
ぜんぶ、ちがう、気がする。
◆◇
ぼくは、目を、閉じた。
明日の十時、ベルアミ。
おじいちゃんと、慈恩さん。
ぼくの知らない、何かが明日、始まる。
◆◇
その夜、ぼくは、夢を見た。
六歳の、夏の終わりの、夜の夢。
父が、台所で、ビールを飲んでいる。
ぼくが、廊下から、覗いていた。
父は、振り返らない。
ぼくは、水を、飲まずに、布団に戻る。
いつもの、夢だ。
しかし、その夜の夢は、すこし違う。
ぼくが布団に戻る前に、父が、ふっと振り返った。
でも、顔は、見えない。
黒い影だった。
ぼくは、目が覚めた。
夜中の三時だ。
第2章 ——欲のない目
——けんとの視点
翌朝、十時、五分前。
和光市、白子。
古い住宅街の中の、小さな喫茶店。
「喫茶 ベルアミ」。
ぼくは、おじいちゃんと、店の前に立っていた。
「ここか」
「うん」
「えらく地味な店やな」
「うん」
おじいちゃんは、関西なまりだ。
昭和十年生まれ。
終戦時、十歳。
大阪、堺の出身。
◆◇
ぼくは、ドアを押した。
ガラン、と、ベルが鳴る。
店内は、ベルアミの名前に似合わず、地味な内装だった。
古い木のテーブルが、四つ。
窓辺の席に、慈恩さんが座っている。
黒いジャケット。
黒いシャツ。
糸目。
煙草を、指先でゆっくり回している。
「慈恩さん」
「あ、けんとくん。おはようございます」
「すみません、お待たせして」
「いえ、まだ五分前、ですよ」
◆◇
おじいちゃんが、ぼくの後ろに立っている。
じっと、慈恩さんを見ていた。
慈恩さんは、糸目のまま、軽く頭を下げた。
「初めまして。慈恩、と申します」
「田島 信夫や」
「お忙しいところ、来ていただいて、ありがとうございます」
「いや、ま、孫がな、世話んなったらしいから」
おじいちゃんの目は、鋭い。
ぼくは知っている。
おじいちゃんは、人を観察するとき、目を細める。
工場の取引先と話すときも、こうだった。
慈恩さんは、糸目のまま、何も言わない。
二人は、しばらく、無言で向かい合っていた。
◆◇
「座って、ええか」
「どうぞ」
おじいちゃんは、慈恩さんの向かいに座った。
ぼくは、おじいちゃんの隣に座る。
マスターが、コーヒーを三つ、運んできた。
マスターは、無口だ。
「どうも」
と一言だけ言って、奥に戻る。
◆◇
「で、なんの話や」
おじいちゃんが、口火を切った。
慈恩さんは、コーヒーを一口飲む。
「けんとくんから、聞いてますか」
「気づかせ屋、っちゅう、変な肩書きの男に会うって」
「ええ」
「それだけや」
「そうですか」
慈恩さんは、糸目のまま、頷いた。
◆◇
「田島さん」
「ん」
「ぼく、けんとくんと、契約をしました」
「契約?」
「貸金契約と、業務委託契約です」
「金、貸したんか」
「ええ」
「いくら」
「百万、です」
おじいちゃんの眉が、ぴくり、と動いた。
「なんで、お前が、孫に金、貸すんや」
「けんとくんが、借金を整理するためです」
「ふん」
「無利息です。期限は五年」
「五年で、百万、返せると、本当に思てんのか」
「ええ、思ってます」
◆◇
おじいちゃんは、しばらく、慈恩さんを見ていた。
ぼくは、テーブルの下で、拳を握っていた。
おじいちゃんに、ぼくの借金のことを、まだ、ちゃんと話していなかった。
昨日、慈恩さんから「正直に話してください」と言われていた。
しかし、口に出せていない。
慈恩さんが、ぼくの方を見た。
糸目のまま。
でも、ぼくには、伝わった。
いま、話せ、と。
◆◇
「おじいちゃん」
「ん」
「ぼく、消費者金融から、お金を借りていました」
「いくらや」
「三百万、です」
おじいちゃんは、何も言わなかった。
慈恩さんも、何も言わない。
ぼくは、続けた。
「就活で失敗して、パチンコに行って、増やしました」
「ふん」
「だから、慈恩さんが、百万、貸してくれて、それで返済を組み直す予定で」
「お前、それ、なんで、おれに、言わへんかったんや」
声は、低かった。
しかし、怒鳴ってはいなかった。
「言えませんでした」
「なんでや」
「おじいちゃんに、合わせる顔が、なかったから」
◆◇
しばらく、沈黙が続いた。
窓の外で、車が一台、走っていった。
慈恩さんは、煙草を灰皿に置いた。
◆◇
「健斗」
「はい」
「お前、なんで、ここに来た」
「え」
「ぼくが、誘ったから、やろ。けんと自身は、なんで来たんや」
おじいちゃんの目は、まっすぐ、ぼくを見ていた。
ぼくは、答えに、詰まる。
なんで、来たんだろう。
慈恩さんに言われたから。
契約したから。
借金を整理したいから。
でも、ちがう、気がした。
「……たぶん、おじいちゃんに、会いたかったから」
言葉が、勝手に、口から出た。
「合わせる顔がないのに、おじいちゃんに、会いたかったから、来ました」
◆◇
おじいちゃんは、しばらく、黙っていた。
それから、ふっと、笑った。
「ええ顔、するようになったやないか、健斗」
「え」
「お父さんの顔やない。お前の顔や」
ぼくの胸が、すこし、熱くなる。
◆◇
「ジオンさん、やったか」
「慈恩、です」
「慈恩さん、お前、ええ人やな」
「いや、めんどくさいだけです」
「めんどくさい?」
「ええ、ぼく、めんどくさい仕事しか、しないんですよ」
「ふん。そうかい」
おじいちゃんは、コーヒーを一口飲む。
関西なまりが、ふと、やわらいだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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