第72話 喫茶店の、けんくん(2)
——あなたは、お金を、何のために、使っていますか。
二十六歳、駆け出しの気づかせ屋・ジオンが、絶望した若者と、
七十八歳の町工場の祖父を、繋いだ。
三世代を貫く、ささやかで、深い、物語。
AIはGoogleで調べものしてます。
第一話「ともだちのお母さん」——モラハラに苦しむ友達のお母さんを救いたい、
中学生リサの小さな勇気の物語。
第二話「夏のなか、ちーちゃん」——人気絶頂の若手歌手・三浦翔太と、
神宝町で出会った14歳の不思議な少女、ちーちゃんとの夏。
「壊れたまま生きる」という選択を、肯定する物語。
30〜50代の読者に贈る、現代ファンタジー人情ドラマ・ライトノベル文芸。なろうでも投稿してます。
慈恩さんが、糸目のまま煙草を灰皿に置いた。
しばらく、何も言わない。
ぼくも、何も、言わなかった。
窓の外を見る。
すると、夕陽が線路の向こうに傾いていた。
◆◇
「電話で、おじいちゃんの工場、って話、出てましたよね」
「あ、はい」
「教えてもらえます?」
ぼくは、姿勢を戻す。
「ぼくの祖父の工場です」
「ええ」
「田島町工場」
「ええ」
「和光市、白子にあります」
「ええ」
「金属加工の町工場です」
「ええ」
◆◇
「おじいちゃん、お一人で?」
「はい」
「お年は」
「六十七歳です」
「六十七」
「ええ、来年六十八」
「一人で、工場、回してるんですか」
「はい」
「働き手は」
「おじいちゃんだけです」
慈恩さんの糸目が、ほんのすこし開いた。
爪の半分くらい、だろう。
ぼくは、気づかない。
しかし、空気がほんのすこし変わった気がする。
◆◇
「お父さんが継ぐはずだったんですけど」
「ええ」
「家を出ていって……」
言葉が、そこで止まる。
いつもの止まり方だ。
ぼくはいつも、ここで止まる。
その先を、誰にも、話したことがない。
◆◇
慈恩さんは、待っている。
急かさない。
助け舟も、出さない。
ただ、糸目のままぼくを見ているだけ。
待つ、ということが、ぼくに伝わってくる。
「父が家を出たのは、ぼくが六歳のときです」
「ええ」
「それから、一度も会っていません」
「ええ」
「おじいちゃんは、父のことを話しません」
「ええ」
慈恩さんは、煙草の灰を灰皿に落とした。
ぼくの言葉に、何も付け足さない。
ただ、聞いている。
「母も、父のことを話しません」
「ええ」
◆◇
「ぼくも、父のことを考えないようにして、生きてきました」
「ええ」
「でも、おじいちゃんが工場を一人で回してるの見ると、ね」
「ええ」
「ぼくが、なんとかしないといけない気がして」
「ええ」
ぼくは、コーヒーカップの縁を、指でなぞった。
慈恩さんは、その指先を、見ていない。
糸目のまま、ぼくの声だけを聞いている。
「就活、頑張ったのも、たぶん、それで」
「ええ」
「でも、ぜんぶダメで」
「ええ」
「パチンコに行ったときも、頭の隅で、おじいちゃんのことがありました」
「ええ」
窓の外の夕陽が、もう、線路の向こうに沈みかけていた。
慈恩さんは、それでも、なにも、急がない。
水のコップを、ぼくの方に、ほんのすこし押した。
「ぼくは、おじいちゃんを助けたかったはずでした」
「ええ」
「でも、いまのぼくは、おじいちゃんに合わせる顔がありません」
◆◇
言い終えて、ぼくは深く息を吐いた。
話し過ぎたな、と思う。
初対面の相手に、ぼくの全部を渡しすぎた。
しかし、止まらなかった。
慈恩さんが、ずっと「ええ」と相槌を打ち続けたからだ。
その「ええ」は、慰めではない。
評価でも、なかった。
判断でも、なかった。
つまり、ただ、聞いている、という合図だった。
◆◇
慈恩さんが、コーヒーを最後の一口飲んだ。
「けんとくん」
「はい」
「明日、おじいちゃんを連れてきてもらえますか」
「え」
「ここじゃなくて、和光市の白子に『喫茶 ベルアミ』って店、ありますよね」
「あ、はい」
「そこで」
「おじいちゃん、なんて誘えばいいですか」
「『慈恩さんって人と話してきた』って、ふつうに言ってください」
「説明しないんですか」
「説明すると、来てくれない人ですね、たぶん」
ぼくは頷く。
たぶん、その通りだ。
§5 ——契約と、「気になったから」
慈恩さんは、契約書の空欄にペンで書き込み始めた。
「業務委託契約」
「貸金契約」
「ぼくが、けんとくんに、百万、貸します」
「無利息」
「返済期限、五年後」
ぼくは、契約書を覗き込んだ。
慈恩さんの字は、丁寧だった。
四角い、まっすぐな字。
「期限内に返済できれば、終わり」
「期限内に返済できなければ、ぼくはけんとくんに、損害賠償、請求できる」
「えええ……」
「冗談ですよ」
「冗談?」
「ええ、冗談です」
「冗談?」
「ぼく、損害賠償しません」
「じゃあ、なんで書くんですか」
「書いとかないと、契約書として効力、薄いんで」
「は、はい」
◆◇
慈恩さんは、糸目のまま、ペンを走らせる。
慣れた手つきだ。
契約書の書き方を、ふつう、知っている人なのだろう。
「成功報酬」
「四割」
「五年間」
「けんとくんが稼いだお金、月の収入の四割」
「ぼくに支払う」
「失敗時」
「ゼロ」
◆◇
「あの」
「はい」
「失敗、って、誰が判定するんですか」
「けんとくん、です」
「ぼく?」
「ええ」
慈恩さんは、ペンを置いた。
ぼくの目を、見ている。
糸目の、向こう側から。
「ぼくが、五年後『あ、人生、変わってないな』って思ったら」
「ええ」
「四割、払わなくていいんですか」
「いいです」
「えええ」
「つまり、ぼくが五年後にけんとくんから四割もらえるかは、けんとくんの判定しだいです」
◆◇
ぼくは、その説明をしばらく咀嚼した。
頭の警報は、もう鳴っていない。
しかし、わからない。
なんで、この人、こんな相手有利の契約を結ぶのか。
ぼくの、なにを、信じているのか。
◆◇
「もう一度、聞いていいですか」
「はい」
「なんで、ぼくと会う気になったんですか」
慈恩さんは、煙草をもう一本出した。
ライターをつける。
ジッ、と紙の燃える音。
ゆっくり煙を吐いた。
答えは、決まっている。
「気になったから、ですよ」
「気になった」
「ええ」
「何が気になったか、聞いていいですか」
「明日、おじいちゃんに会って、答えますよ」
◆◇
ぼくはペンを握った。
契約書の署名欄。
『田島 健斗』
まっすぐ書いたつもりだ。
でも、字は震えている。
慈恩さんは、それを見て、糸目のまま頷く。
「ありがとうございます」
◆◇
会計は、慈恩さんがした。
ぼくは止めようとする。
「いいんです、ぼくが呼んだので」
「あ、はい」
ぼくの財布には、千円札が二枚しか入っていない。
止めようとして、止め切れない自分が情けない。
しかし、慈恩さんは、その情けなさにも、何も言わなかった。
§6 ——帰り道の、六歳の、夜
店を出た。
夕方の五時半に入ったのに、もう、夜の八時近い。
ぼくは、二時間半、しゃべっていたらしい。
◆◇
慈恩さんは、駅までぼくと、いっしょに歩いた。
商店街の街灯が、ぽつぽつ、ついている。
「けんとくん」
「はい」
「明日、十時です」
「はい」
「『ベルアミ』、東武東上線、和光市駅から徒歩十二分です」
「あ、はい」
「迷ったら、電話してください」
「はい」
◆◇
駅の改札の前で、慈恩さんは止まった。
「ぼくね、神宝町に住んでます」
「神宝町」
「ええ」
「古い本屋の街の、ところですね」
「あ、はい」
「明日、ベルアミにぼくが行きますんで」
「すみません、わざわざ」
「謝らなくていいですよ」
「あの」
「はい」
「ありがとうございます」
「まだ、何もしてないですよ」
「でも」
「ええ、ええ」
慈恩さんは、糸目のまま頷く。
◆◇
ぼくは改札を通った。
振り返ったら、慈恩さんは、もう、いない。
◆◇
電車に乗った。
和光市行き。
成増駅のホームから、和光市まで、一駅。
窓の外を見ていた。
夜の線路。
黒い家々。
ぽつ、ぽつ、と灯る窓の明かり。
◆◇
頭の中が、ぐちゃぐちゃだ。
契約書にサインした。
借金整理のお金は明日、渡される。
明日、おじいちゃんを連れてベルアミに、行く。
ぜんぶ、決まった。
しかし、ぜんぶ決まったのに、ぼくの頭の中は別のことを考えている。
◆◇
父のことだ。
慈恩さんに、初めて、話した。
ぼくが、六歳のときに、出ていった人。
ぼくの中で、もう、いない人。
話したくない人。
でも、話してしまった、人。
◆◇
電車の窓に、自分の顔が映っている。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
二十六歳の、駆け出しの気づかせ屋・ジオン。
七十八歳の、町工場のおじいちゃん・信夫さん。
二十二歳から二十七歳へと、成長していく、けんと。
三世代を貫く、「お金の使い方」「託された使命」「壊れたまま生きる」
という、三層のテーマを、四万字に込めました。
信夫さんのお母様が、戦後、女手一つで四人の子を育てた時に言った言葉——
「お金は、本当に大切な人のために使うと、増える」——
これが、本作の核です。
五十年後、その言葉が、孫のけんとに、ジオンを介して、届いた。
揺れない煙、刀印、託された使命、——
ジオンの世界の符牒は、第二話・第三話・第四話で、より深くお楽しみいただけます。
特に、第二話「夏のなか、ちーちゃん」では、
本作で「孫の命の恩人」と呼ばれていたジオンが、
神宝町の一階を「事務所」と名乗るようになった、
その続きの物語が描かれています。
揺れない煙の下で、ジオンは、次の誰かを、待っています。




