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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
第3話「喫茶店の、けんくん」

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第71話 喫茶店の、けんくん(1) 気づかせ屋、ですよ

元々あったお話は外伝に移行しました。


——あなたは、お金を、何のために、使っていますか。


二十六歳、駆け出しの気づかせ屋・ジオンが、絶望した若者と、

七十八歳の町工場の祖父を、繋いだ。


三世代を貫く、ささやかで、深い、物語。

 二〇〇二年、六月。


 蒸し暑い夕方だった。


 東京、板橋区、成増。


 東武東上線の成増駅から、線路沿いに五分ほど歩いた場所に、その喫茶店はあった。


「珈琲 田中」


 昭和のまま置き忘れられたような看板だった。


 ぼくは、その店に来たことがない。


 電話で待ち合わせ場所として教えられただけだ。


「珈琲 田中、成増。ご存知ですか」


「あ、はい」


 知らなかった。


 けれど、はい、と答えてしまった。


 ぼくは昔から、知らないと言うのが下手だった。


 ガラスのドアを押す。


 ガラン、とベルが鳴った。


 店内は薄暗い。


 天井が低い。


 壁には油絵が二枚。


 奥の棚には、古いコーヒーミル。


 常連らしい老人が新聞を読んでいる。


 中年のサラリーマンが、文庫本を開いている。


 若い人間はいない。


 煙草の煙が、天井のあたりで薄く漂っていた。


 窓際の角の席に、男が座っていた。


 黒いジャケット。


 黒いシャツ。


 黒いスラックス。


 細い身体。


 糸目。


 煙草を指先でゆっくり回している。


 その人が、軽く手を上げた。


「田島けんとくん?」


「……はい」


 声は若かった。


 思っていたより、ずっと若い。


 ぼくと五つも違わないように見えた。


 田島健斗、二十二歳。


 就活に失敗して、パチンコに逃げて、借金が三百万円ある。


 それが、今のぼくだ。


 ぼくは向かいの席に座った。


 糸目の男は立ち上がらない。


 握手もしない。


 ただ、座っているだけだった。


「コーヒー、注文しておきました」


「あ、すみません」


「謝らなくていいですよ」


 その言い方が、少し変だった。


 責めてもいない。


 慰めてもいない。


 ただ、そう言っただけ。


 糸目の男は、ジャケットの内ポケットから白い名刺を出した。


 白い紙。


 余計な飾りはない。


 そこには、こう書いてあった。


 慈恩

 気づかせ屋


 電話番号だけ。


 住所はない。


「じおん、さん」


「はい」


「変わったお名前ですね」


「変ですよ」


 糸目の奥で、笑った気配がした。


 ぼくは名刺をしばらく見ていた。


 気づかせ屋。


 電話で聞いた時から、ずっと引っかかっていた言葉だ。


 会社名でもない。


 資格でもない。


 たぶん、本人が勝手に名乗っているだけ。


「あの」


「はい」


「気づかせ屋って、なんですか」


「電話で聞きましたよね」


「相談屋みたいなもの、って」


「はい」


「もう少し詳しく聞いていいですか」


 慈恩さんは、コーヒーを一口飲んだ。


 ゆっくりカップを置く。


「人の悩みを聞いて、その人が自分で気づいていない答えに気づく手伝いをする仕事です」


「……それだけですか」


「それだけです」


「お金、取らないんですか」


「成功報酬です」


「失敗したら」


「ゼロです」


 頭の中で警報が鳴った。


 マルチ。


 投資。


 勧誘。


 新興宗教。


 就活でいろんな会社の説明を聞いた。


 断れないお茶会にも行った。


 駅前で声をかけられたこともある。


 怪しい話の入口は、たいていこうだ。


 お金は取りません。


 成功報酬です。


 あなたに気づきを与えます。


 ぼくの警告灯は、派手に点滅していた。


「あの」


「はい」


「これ、マルチビジネスじゃないですよね」


「違います」


「投資とか、勧誘ないですよね」


「ないです」


「商品、買わされたりしないですよね」


「しません」


「最終的に、ぼくのお金、取られたりしないですよね」


「取りません」


 自分でもしつこいと思う。


 でも、確認せずにはいられなかった。


 借金、三百万円。


 これ以上どこかに絡め取られたら、ぼくの人生は本当に終わる。


「むしろ、逆です」


「逆?」


「最初にお金を出すのは、ぼくです」


「……は?」


「契約するなら、まず、ぼくがけんとくんに百万円を貸します。無利息で」


「ひゃく、まんえん」


「はい」


「なんでですか」


「借金整理に必要だからです」


 ぼくの頭が追いつかなかった。


「ちょっと待ってください」


「はい」


「ぼく、まだ契約するって言ってません」


「はい」


「なんで、お金を貸す話になってます?」


「説明しているだけです。嫌なら、ここで終わりです」


 慈恩さんが煙草を咥えた。


 ライターをつける。


 紙の燃える音が、ジッとした。


 ぼくの肩から、少しだけ力が抜けた。


 逃げ道はある。


 断れる。


 その確認だけで、警戒は半分ほど弱くなった。


「契約内容を説明します」


「はい」


「成功報酬は四割。五年間」


「四割」


「けんとくんが稼いだお金の四割を、ぼくがいただきます」


 ぼくは頭の中で計算した。


 月に二十万円稼いだら、八万円。


 月に五十万円稼いだら、二十万円。


「高くないですか」


「高いです」


「ですよね」


「でも、失敗したらゼロです」


「失敗って、誰が決めるんですか」


「けんとくんです」


「ぼく?」


「はい」


 慈恩さんは、糸目のままぼくを見ていた。


「五年後、けんとくんが『自分の人生は変わっていない』と思ったら、報酬は払わなくていいです」


「えええ」


「逆に、『変わった』と思ったら、払ってください」


「ぼくの判定で?」


「はい」


 わからなかった。


 なんで、この人はこんな契約を出すのか。


 相手が逃げたら終わりだ。


 ぼくが嘘をついたら終わりだ。


 それなのに、慈恩さんは平然としている。


「あの」


「はい」


「なんで、ぼくに会おうと思ったんですか」


 慈恩さんは煙を吐いた。


「気になったからです」


「何がですか」


「それを、今から確認します」


 そこから、ぼくは借金の内訳を話した。


 消費者金融、三社。


 A社、百二十万。


 B社、九十万。


 C社、九十万。


 月の返済、八万円。


 収入、ゼロ。


 最初は、就活の交通費が足りなくて五万円を借りた。


 次に、リクルートスーツを買い直すために十万円。


 四十社受けて、全部落ちた。


 家にいるのがつらくて、街へ出るようになった。


 気づいたら、パチンコ屋にいた。


 最初は勝った。


 次の月も勝った。


 その次から、負け続けた。


 気づいたら、三百万円になっていた。


 話しながら、自分の声がどんどん嫌いになった。


 情けない。


 みっともない。


 でも、慈恩さんは軽蔑しなかった。


 同情もしない。


 説教もしない。


 ただ、聞いている。


「けんとくん」


「はい」


「ご家族は」


「母と二人暮らしです」


「お母さんのお仕事は」


「スーパーのレジです。パートで」


「お父さんは」


「いません」


 声が、自分でもわかるくらい低くなった。


「家を出ていって、もう十六年です」


 慈恩さんは、煙草を灰皿に置いた。


 しばらく何も言わなかった。


 その沈黙が、妙に苦しくなかった。


「電話で、おじいちゃんの工場の話が出ていましたね」


「あ、はい」


「教えてもらえますか」


「ぼくの祖父の工場です。田島町工場。和光市の白子にあります」


「何の工場ですか」


「金属加工の町工場です」


「働いているのは」


「おじいちゃんだけです」


「お一人で?」


「はい。六十七歳です」


 慈恩さんの糸目が、ほんの少しだけ開いた気がした。


 空気が、わずかに変わる。


「父が継ぐはずだったんです」


「はい」


「でも、家を出ていって」


 言葉が止まった。


 いつもの止まり方だった。


 ぼくはいつも、ここで止まる。


 その先を誰にも話したことがない。


 慈恩さんは待っていた。


 急かさない。


 助け舟も出さない。


 ただ、糸目のままぼくを見ている。


「父が出ていったのは、ぼくが六歳の時です」


「はい」


「それから、一度も会っていません」


「はい」


「おじいちゃんは、父のことを話しません。母も話しません」


「はい」


「ぼくも、考えないようにしてきました」


「はい」


「でも、おじいちゃんが一人で工場を回しているのを見ると、ぼくがなんとかしないといけない気がして」


「はい」


「就活を頑張ったのも、たぶん、それです」


「はい」


「でも、全部ダメで」


「はい」


「パチンコに行っている時も、頭の隅にはおじいちゃんのことがありました」


 ぼくはコーヒーカップの縁を指でなぞった。


「ぼくは、おじいちゃんを助けたかったはずでした」


 口に出した瞬間、胸の奥が痛くなった。


「でも、今のぼくは、おじいちゃんに合わせる顔がありません」


 言い終えて、深く息を吐いた。


 話しすぎた。


 初対面の相手に、ぼくの中身を渡しすぎた。


 でも、止まらなかった。


 慈恩さんの「はい」は、慰めではなかった。


 評価でもない。


 判断でもない。


 ただ、聞いている、という合図だった。


 慈恩さんが、コーヒーを最後の一口まで飲んだ。


「けんとくん」


「はい」


「明日、おじいちゃんを連れてきてもらえますか」


「え」


「ここではなく、和光市の白子に『喫茶 ベルアミ』という店がありますよね」


「あ、はい」


「そこで会いましょう」


「おじいちゃんに、なんて言えばいいですか」


「慈恩さんという人と話してきた、と普通に言ってください」


「説明しないんですか」


「説明すると、来てくれない人ですね、たぶん」


 ぼくは頷いた。


 たぶん、その通りだ。


 慈恩さんは、契約書にペンで書き込み始めた。


 貸金契約。


 業務委託契約。


 百万円。


 無利息。


 返済期限、五年。


 成功報酬、四割。


 失敗時、ゼロ。


 慈恩さんの字は丁寧だった。


 四角くて、まっすぐな字。


「もう一度、聞いていいですか」


「はい」


「なんで、ぼくなんですか」


 慈恩さんは煙草をもう一本出した。


 火をつける。


 ゆっくり煙を吐く。


「気になったからです」


「何が気になったか、聞いていいですか」


「明日、おじいちゃんに会ってから答えます」


 ぼくはペンを握った。


 契約書の署名欄。


 田島健斗。


 まっすぐ書いたつもりだった。


 でも、字は震えていた。


 慈恩さんはそれを見て、糸目のまま頷いた。


「ありがとうございます」


 会計は慈恩さんがした。


 止めようとした。


 でも、財布には千円札が二枚しか入っていない。


 止めようとして、止めきれない自分が情けなかった。


 慈恩さんは、その情けなさにも何も言わなかった。


 店を出ると、もう夜の八時近かった。


 慈恩さんは駅まで一緒に歩いてくれた。


「明日、十時です」


「はい」


「迷ったら電話してください」


「はい」


 改札の前で、慈恩さんは止まった。


「ありがとうございます」


 ぼくが言うと、慈恩さんは首を傾げた。


「まだ、何もしていませんよ」


「でも」


「明日です」


 ぼくは改札を通った。


 振り返ると、慈恩さんはもういなかった。


 和光市行きの電車に乗る。


 一駅だけの夜の線路。


 窓の外には、黒い家々と、ぽつぽつ灯る窓明かりが見える。


 頭の中はぐちゃぐちゃだった。


 契約書にサインした。


 借金整理のお金は、明日渡される。


 明日、おじいちゃんを連れてベルアミに行く。


 全部決まった。


 なのに、頭の中は別のことを考えていた。


 父のことだ。


 六歳の時に出ていった人。


 ぼくの中で、もういない人。


 話したくない人。


 でも、話してしまった人。


 電車の窓に、自分の顔が映っている。


 二十二歳の顔。


 目の下に隈。


 頬の肉が少し削げている。


 それなのに、ぼくには六歳の時の自分の顔が重なって見えた。


 夏の終わりの夜。


 台所で、父が一人でビールを飲んでいた。


 母は寝室のドアを閉めていた。


 ぼくは廊下から台所を覗いていた。


 水を飲みたかっただけだった。


 父は、ぼくに気づかなかった。


 いや、たぶん気づいていた。


 でも、何も言わなかった。


 ぼくは水を飲まずに、布団へ戻った。


 翌朝、父はいなかった。


 それから十六年。


 母も、おじいちゃんも、父の話をしない。


 ぼくも、しなかった。


 三人で、ずっとあの夏の終わりの夜の続きを生きている。


 電車が和光市駅に着いた。


 明日、十時。


 ベルアミ。


 おじいちゃんと、慈恩さん。


 ぼくの知らない何かが、明日、始まる。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。


二十六歳の、駆け出しの気づかせ屋・ジオン。

七十八歳の、町工場のおじいちゃん・信夫さん。

二十二歳から二十七歳へと、成長していく、けんと。


三世代を貫く、「お金の使い方」「託された使命」「壊れたまま生きる」

という、三層のテーマを、四万字に込めました。


信夫さんのお母様が、戦後、女手一つで四人の子を育てた時に言った言葉——

「お金は、本当に大切な人のために使うと、増える」——

これが、本作の核です。


五十年後、その言葉が、孫のけんとに、ジオンを介して、届いた。


揺れない煙、刀印、託された使命、——

ジオンの世界の符牒は、第二話・第三話・第四話で、より深くお楽しみいただけます。


特に、第二話「夏のなか、ちーちゃん」では、

本作で「孫の命の恩人」と呼ばれていたジオンが、

神宝町の一階を「事務所」と名乗るようになった、

その続きの物語が描かれています。


揺れない煙の下で、ジオンは、次の誰かを、待っています。

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