第71話 喫茶店の、けんくん(1)
元々あったお話は外伝に移行しました。
——あなたは、お金を、何のために、使っていますか。
二十六歳、駆け出しの気づかせ屋・ジオンが、絶望した若者と、
七十八歳の町工場の祖父を、繋いだ。
三世代を貫く、ささやかで、深い、物語。
第1章 ——気づかせ屋、ですよ
——けんとの視点
§1 ——「珈琲 田中」、夕方の、五時半
二〇〇二年、六月。
蒸し暑い午後だった。
東京、板橋区、成増。
東武東上線、成増駅、徒歩五分。
線路沿いの古い喫茶店。
「珈琲 田中」。
ぼくは、その店に来たことがない。
待ち合わせ場所として、電話で教えられた一軒。
「珈琲 田中、成増、ご存知ですか」
「あ、はい」
知らなかったけど、「はい」と答えてしまった。
成増は、ぼくの住む和光市から東武東上線で一駅。
降りたことは、ある。
しかし、その喫茶店までは知らない。
◆◇
駅前の商店街を抜けた。
線路沿いの細い道。
古いレンガの店。
看板は小さい。
「珈琲 田中」。
昭和の書体だ。
ぼくはガラスのドアを押す。
ガラン、とベルが鳴った。
◆◇
店内は薄暗い。
天井が、低い。
壁に油絵が二枚。
奥の棚に古いコーヒーミル。
常連の老人が新聞を読んでいる。
さらに、中年のサラリーマンが文庫本を開いていた。
若い人間はいない。
BGMはジャズ。
煙草の煙が、天井のあたりで淡く漂っている。
◆◇
ぼくは店内を見渡した。
窓際の角の席。
そこに男が座っている。
糸目だ。
黒いジャケット、黒いシャツ、黒いスラックス。
細い身体。
煙草を、指先でゆっくり回している。
その人が、軽く手を上げた。
「あ、田島けんとくん?」
「……はい」
声は若かった。
ぼくと五つも違わないだろう。
◆◇
田島 健斗、二十二歳。
ぼくの名前。
就活に失敗して、パチンコに逃げて、借金が三百万円ある。
それがぼくの現状だ。
§2 ——白い、名刺
ぼくは向かいの席に座った。
糸目の男は立ち上がらない。
しかも、握手もしない。
ただ、座っているだけ。
「コーヒー、注文しときましたよ」
「あ、すみません」
「謝らなくていいんですよ」
ぼくは姿勢を正す。
糸目の男が、ジャケットの内ポケットから白い紙を出した。
名刺らしい。
白くて、シンプルな紙。
「慈恩 気づかせ屋」
電話番号だけ。
住所は、ない。
「じおん、さん」
「ええ」
「変わったお名前ですね」
「変、ですよ」
糸目の奥で、笑った気配がする。
◆◇
ぼくは名刺をしばらく見ていた。
気づかせ屋。
電話で聞いたときから引っかかっていた言葉だ。
なんなんだ、その肩書。
会社の名前でもない。
資格でもない。
たぶん、本人が勝手に名乗っているだけだろう。
◆◇
「あの」
「はい」
「気づかせ屋って、なんですか」
「電話で聞きましたよね」
「相談屋みたいなもの、って」
「ええ」
「もう少し詳しく聞いていいですか」
慈恩さんは、コーヒーを一口飲んだ。
ゆっくりカップを置く。
「人の悩みを聞いて、その人が自分で気づいていない答えに気づかせる仕事です」
「……それだけ?」
「それだけです」
「お金、取らないんですか」
「成功報酬だけです」
「失敗したら」
「ゼロです」
◆◇
ぼくは、その説明をしばらく咀嚼する。
頭の中で警報が鳴った。
マルチ、ビジネス。
投資、勧誘。
新興、宗教。
就活でいろんな会社の説明を聞いた。
断れないお茶会にも、行った。
しかも、駅前で声をかけられたこともある。
怪しい話の入口は、たいてい、こうだ。
「お金、取りません」
「成功、報酬、だけです」
「気づきを、与える、仕事」
ぼくの頭の中で、警告灯が点滅していた。
◆◇
「あの」
「はい」
「これ、マルチビジネスじゃないですよね」
慈恩さんが、一瞬、ぼくを見た。
「違いますよ」
短い返事だ。
ぼくはちょっとほっとする。
それでも、まだ警戒は解けない。
「投資とか、勧誘ないですよね」
「ないです」
「商品、買わされたりしないですよね」
「しません」
「最終的に、ぼくのお金、取られたりしないですよね」
「取りません」
ぼくは、自分でもしつこい、と思う。
しかし、確認せずには、いられなかった。
借金、三百万円。
これ以上どこかに絡め取られたら、ぼくの人生、終わる。
◆◇
「むしろ、逆ですよ」
「逆?」
「お金を出すのは、ぼくのほうです」
「……は?」
「契約するとね、まずはぼくが、けんとくんにお金を渡します」
「えええ?」
慈恩さんが、糸目のまま、コーヒーをもう一口飲む。
「貸金契約です」
「貸金?」
「百万円ね、最初に貸します。無利息」
「ひゃっ、まんえん」
「ええ」
「なんでですか」
「けんとくんの借金整理に必要ですから」
ぼくの頭が、追いつかない。
◆◇
「ちょっと待ってください」
「はい」
「ぼく、まだ契約するって言ってないですけど」
「ええ」
「なんで、お金貸す話になってます?」
「説明しますね、と言っただけです。けんとくんが嫌なら、ここで終わりです」
慈恩さんが、煙草を口に咥える。
ライターをつけた。
ジッ、と紙の燃える音。
ぼくの肩がすこし力を抜く。
逃げ道は、ある。
断れる。
その確認だけで、ぼくの警戒は半分、解けた。
§3 ——借金、三百万、と、パチンコ
「で、契約の内容ですけど」
「はい」
「成功報酬、四割。五年間」
「四割」
「ええ」
「五年間」
「ええ」
「けんとくんが稼いだお金の四割を、ぼくがいただきます」
ぼくはしばらく、頭の中で計算した。
四割。
月、二十万円、稼いだら、八万円。
月、五十万円、稼いだら、二十万円。
◆◇
「失敗したら?」
「けんとくんの人生が変わらなかったら、ゼロです」
「変わるって、どこからですか」
「ね、それを、いまから決めるんですよ」
「決める?」
「契約書に書きます」
慈恩さんが、ジャケットの内ポケットから、もう一枚、紙を出した。
契約書。
二枚、複写の市販のもの。
空欄が多い。
◆◇
「ちょっと聞いていいですか」
「ええ」
「なんで、ぼくに声をかけてきたんですか」
「気になったから、ですよ」
「気になった」
「ええ」
「何が気になったか、聞いていいですか」
慈恩さんが、煙草を灰皿に置いた。
糸目のまま、ぼくを見ている。
答えは、ない。
◆◇
「順番にね、聞いていいですか」
「はい」
「借金、三百万、と聞きました」
「はい」
「内訳、教えてもらえます?」
ぼくは、息を吸う。
恥ずかしい。
でも、隠す意味も、ない。
「消費者金融、三社です」
「ええ」
「最初は、就活で面接の交通費が足りなくて、五万、借りました」
「ええ」
「次は、リクルートスーツ買い直すために、十万」
「ええ」
ふつう、ここで、相手は引くはずだ。
ところが、慈恩さんは頷きもしない。
目も、見開かなかった。
ただ、相槌だけ打っている。
ぼくは続けた。
◆◇
「就活、ぜんぶ落ちました」
「ええ」
「四十社、受けて、ぜんぶダメで」
「ええ」
「家にいるの、つらくて、街に出るようになりました」
「ええ」
ぼくは、コーヒーを一口飲む。
冷めかけていた。
「気づいたら、パチンコ屋にいました」
「ええ」
「最初は、勝ちました」
「ええ」
「次の月も、勝ちました」
「ええ」
「その次から、負け続けました」
「ええ」
慈恩さんは、何も言わない。
軽蔑も、しなかった。
同情も、しない。
ただ、聞いている。
◆◇
「気づいたら、三百万円でした」
「ええ」
「内訳、A社、百二十万。B社、九十万。C社、九十万」
「ええ」
「月の返済、八万円」
「ええ」
「収入、ゼロ」
「ええ」
ぼくは、自分で自分が嫌になる声で説明した。
それでも、慈恩さんは軽蔑しない。
ふつう、こういう話をすると、相手は引くか説教するか、どっちかだ。
慈恩さんは、どちらでもなかった。
◆◇
「けんとくん」
「はい」
「ご家族は」
「母と二人暮らしです」
「お母さん、お仕事は」
「パートで、スーパーのレジをしています」
「お父さんは」
「いません」
ぼくの声が、すこし低くなる。
「いません?」
「家を出ていって、もう、十六年です」
§4 ——おじいちゃんの、工場
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
二十六歳の、駆け出しの気づかせ屋・ジオン。
七十八歳の、町工場のおじいちゃん・信夫さん。
二十二歳から二十七歳へと、成長していく、けんと。
三世代を貫く、「お金の使い方」「託された使命」「壊れたまま生きる」
という、三層のテーマを、四万字に込めました。
信夫さんのお母様が、戦後、女手一つで四人の子を育てた時に言った言葉——
「お金は、本当に大切な人のために使うと、増える」——
これが、本作の核です。
五十年後、その言葉が、孫のけんとに、ジオンを介して、届いた。
揺れない煙、刀印、託された使命、——
ジオンの世界の符牒は、第二話・第三話・第四話で、より深くお楽しみいただけます。
特に、第二話「夏のなか、ちーちゃん」では、
本作で「孫の命の恩人」と呼ばれていたジオンが、
神宝町の一階を「事務所」と名乗るようになった、
その続きの物語が描かれています。
揺れない煙の下で、ジオンは、次の誰かを、待っています。




