閑話⑥ ぼくは、いく
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
夏の、終わりだった。
来週、ぼくは、ドイツへ発つ。
母さんが、夜の定食屋のあいまに、何度も電話をかけて、書類を集めて、慈恩さんが、道を作ってくれた。
海の、ずっと向こう。
写真でしか見たことのない、海の、向こうの国へ。
言葉も、知らない。
知り合いも、いない。
それでも、行く。
その前に、ひとつ、試合があった。
少年団の、最後の試合。
区の、夏の大会。
負けたら、終わり。
グラウンドには、人がいた。
相手チーム。
応援の親たち。
そして、ぼくに、消えろ、と言った子たちも、おなじチームの、ベンチに、いた。
スタメンじゃないぼくを見て、ひとりが、鼻で、笑った。
ぼくが入ると、また、空気が揺れた。
視線が、いっせいに、ぼくに刺さった。
見られている。
いちばん、苦しくなる点。
胸が、ぎゅっと、鳴った。
でも、ぼくは、もう、知っていた。
この苦しさの、ほどき方を。
ぼくは、顔を上げた。
グラウンドの、いちばん遠く。
掲揚台の、旗の、いちばん上。
その一点を、見た。
鼻から、いち、に、さん、し。
口から、ゆっくり、六つ。
足の裏の、三点。
内もも。
尻の横。
ばらばらだった胸が、その点に、すっと、集まった。
見られている、んじゃない。
ぼくが、見るんだ。
どこを見るかは、ぼくが、決める。
試合が、始まった。
ぼくは、後半から、出た。
出てすぐだった。
ぼくは寄せられて、あわてて、足元を見た。
一瞬。
昔の癖が、出た。
ボールが、足から、こぼれた。
取られた。
「ほら」ベンチの声が、笑った。
「だから、言ったろ」
芝が、ぐるっと、回りかけた。
耳の奥で、古い声が、鳴りかけた。
下手くそ。
消えろ。
――でも、ぼくの目は、自分から、旗の、いちばん上へ、戻った。
誰に言われなくても、もう、戻れた。
鼻から、四つ。
口から、六つ。
声は、止まった。
芝が、止まった。
ぼくは、心の中で、ノートを開いた。
できたこと――顔を、すぐ、上げ直せた。
なおすこと――一つだけ。
寄せが来る、前に、出す先を、決めておく。
次は、踏まない。
覚えてるから。
ぼくは、走った。
ボールを追って。
守って。
また、追って。
息が、あがった。
胸が苦しくなるたびに、鼻で四つ、口で六つ。
そのたびに、芝が、止まる。
誰も、ぼくにパスを出さないのは、相変わらずだった。
でも、ぼくは、ボールがないところで、ずっと、動いていた。
次にボールが来る、その一点を、探して。
坂田さんが言っていた。
いいパスは、ボールを持つ前に、もう、決まってる、と。
残り、十分。
ボールが、ぼくのところへ、来た。
今度は、もう、顔が上がっていた。
寄せが来るのも、わかっていた。
肩の、角度まで。
ぼくは、尻を入れて――背中と、腹と、尻の横で、壁を作って――ボールを、隠した。
相手が、ぶつかって、止まった。
坂田さんの寄せに比べたら、軽かった。
何百回も、あの三階で、坂田さんの重い肩を、受けてきた。
それに比べたら、おなじ歳の子の寄せなんて、そよ風みたいなものだった。
ぼくの身体は、もう、知っていた。
どこに尻を入れれば、ボールが死なないか。
どこに力を通せば、倒れないか。
練習でやったことが、そのまま、出ていた。
本番は、練習の、続きでしかなかった。
顔を上げた、その先に、味方が、走っていた。
ゴールへ、まっすぐ。
その、走り込む先の、芝の、一点が、見えた。
何百回も、壁の前で、見てきた、あの一点だ。
ぼくは、軸足を、決めた。
足の裏の、三点。
内もも。
尻の横。
そして、蹴る、その瞬間――ぼくは、言った。
「じしん」
声に、出した。
壁当ての路地でも、半分しか言えなかった、あの言葉を。
一番星に向かって、やっと、震えながら言った、あの言葉を。
今度は、震えなかった。
グラウンドじゅうに、聞こえるくらい、まっすぐ、言った。
ボールは、ぼくの足を離れて、芝を、まっすぐ、滑っていった。
走り込んだ味方の足に、ぴたりと、収まった。
その子が、振り向きざま、蹴った。
ネットが、揺れた。
ゴールだった。
ぼくの、ゴールじゃない。
ぼくは、ただ、パスを出しただけ。
それでも、味方が、走ってきて、ぼくの背中を、ばん、と叩いた。
ぼくの背中を、叩いた子が、いた。
生まれて初めて、だった。
ぼくの名前を、呼ぶ声が、した。
「ナイス!」。
誰の声だったか、わからない。
でも、たしかに、ぼくに向かって、ナイス、と言った。
消えろ、でも、下手くそ、でもなく。
ぼくは、その声を、心の中の、ノートに、書きとめた。
できたこと。
――今日、ぼくは、誰かの、ナイス、になった。
勝ったかどうかは、よく、覚えていない。
たぶん、負けた。
点は、足りなかったと思う。
でも、ぼくは、最後まで、その場に、立っていた。
逃げなかった。
崩れなかった。
最後まで、自分の足で、自分の点を見て、立っていた。
覚えているのは、それだけだった。
それで、じゅうぶんだった。
試合のあと、グラウンドのすみに、坂田さんが、立っていた。
いつものジャージで。
腕を組んで。
「できたこと、ひとつ」とぼくは、自分から、言った。
「じしん、って、声に、出せました」
坂田さんは、ふ、と、口の端を上げた。
それから、いつもの短い声で、言った。
「向こうで、無理をするな。身体は、休んでるときに、強くなる。根性で、やるな。覚えて、やれ。――それだけ、覚えとけ」
「はい」
ぼくは、頭を、深く、下げた。
この人に、ぼくは、立ち方を、教わった。
見る場所を、教わった。
そして、無理をせず、休むことも、教わった。
海の向こうで、ひとりになっても、この三つさえ、忘れなければ、たぶん、ぼくは、立っていられる。
その隣に、慈恩さんが、いた。
ぼくの目の、奥を、しばらく覗き込んで、それから、言った。
「もう、灰じゃない、ですねー」
その語尾が、すこし、伸びていた。
慈恩さんが、そんなふうに話すのを、ぼくは、初めて聞いた。
なんで伸びたのか、そのときは、わからなかった。
ずっとあとで、知った。
あの人は、嬉しいのを隠すとき、ああやって、語尾を伸ばすんだ。
ぼくは、まっすぐ、二人を見て、言った。
「ぼくは、いく」
発つ日。
空港まで、慈恩さんが、送ってくれた。
母さんは、仕事で、来られなかった。
代わりに、慈恩さんの手を、小さな女の子が、握っていた。
あの、公園の、植え込みの子。
菜々子、というらしい。
六歳。
慈恩さんが、預かっている子だと言った。
その子は、ぼくのことを、おぼえているだろうか。
きっと、すぐ忘れるだろう、と思った。
六歳なんて、そういうものだ。
でも、それでも、よかった。
ぼくが、この子の前で、鼻で四つ、口で六つ、と息をして、まっすぐ立てたこと。
それだけは、ほんとうにあった、ことだから。
ぼくが、ゲートのほうへ歩きだすと、菜々子は、ぼくを見上げて、それから、こっそり、やった。
鼻から、いち、に、さん、し。
口から、ゆっくり、六つ。
いつか、ぼくが、公園でやっていたのを、覚えていたんだ。
ずっと、覚えていて、くれたんだ。
ぼくは、しゃがんで、その子と、目の高さを、合わせた。
「見ててね」と、ぼくは言った。
なんで、そう言ったのか、自分でもわからなかった。
ただ、誰かに、見ていてほしかった。
ぼくが、灰じゃ、なくなるところを。
「七年。ぼくが、ちゃんと、燃えるところを。……七年、見ててね」
菜々子は、まるい目で、ぼくを見て、こくん、と、うなずいた。
約束、というふうに。
ぼくは、立ち上がって、海の向こうへ、歩きだした。
もう、足元は、見なかった。
いちばん遠い、ひとつの点だけを、見て。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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