第70話 ぱたん、と来た 真相(1)
Part 1 - いつもどおりの朝
二〇一一年十一月二十八日、月曜日。
師走を前にした朝だった。
八時半。
慈恩オフィスビル十階。
いつものソファに腰を沈め、いつもの煙草に火をつけた。
窓の外では、東京の空がくすんでいた。
冬の曇り空は愛想がない。こっちに期待なんかしていない顔をしている。
その無表情さが、朝の気分にはちょうどよかった。
ストーブをつける。
部屋が温まるまでには時間がかかる。人間も同じだ。
もっとも、こっちは温まる前に壊れかけていた。
三十五歳。
直樹さんに「ある日、ぱたんと来るぞ」と言われた頃から、もう八年になる。
冗談みたいに聞こえた言葉が、妙に耳の底に残っていた。
本当のことを言えば、一年前にはもう兆候は出ていた。
息が切れる。胸が詰まる。眠れない。飯が入らない。
医者は、こちらの顔色を見もしないで言った。
「あなたは三十五歳なのに、七十歳の心臓をしている」
ついでに、こうも言った。
このままだと本当に倒れる、と。
そうですか、と答えた。
それだけだった。
休めと言われて休めるほど、世の中は親切にはできていない。
震災のあとだ。
心を壊した人間はいくらでもいた。
壊れた心は目に見えない。だから厄介だ。しかも、見えないくせに人をちゃんと食い潰す。
こっちがくたばりかけていようと、仕事は来る。
相談は減らない。
待ってくれない連中ばかりだ。
だから言う。
気のせいだ、と。
いつもどおりだ、と。
元気だ、と。
言葉ってやつは、案外ばかにならない。
言い続けていれば、自分まで騙せる時がある。
もっとも、身体のほうはそううまくはいかなかった。
二本目の煙草を抜いたとき、胸の奥で何かがきしんだ。
鈍い痛みじゃない。もっと重たいものだ。
濡れた毛布でも押し込まれたみたいに、肺が黙り込む。
「あれ」
声にしたところで、何かが変わるわけでもない。
気のせいだと決めつけて、煙を吸い込んだ。
その一口がまずかった。
胸が、さらに重くなった。
立ち上がろうとした。
その瞬間、視界が白く弾けた。
床が来るより先に、意識が落ちた。
Part 2 - ぱたん
直樹さんの言ったとおりだった。
来るときは、ぱたんと来る。
芝居気も前触れもない。
雨戸が閉まるみたいに、あっけなく終わる。
人間の身体なんてものは、案外その程度の作りらしい。
倒れる前に覚えているのは、胸の重さと、目の前が白くなったことと、わずかな目眩だけだ。
それから先は、暗い。
煙草は指から離れ、床を転がった。
黒いジャケットに黒いシャツ。いつもの格好。
ただ、立っていないだけだ。
午前八時四十五分。
十階の事務所には、ほかに誰もいなかった。
下の階じゃ、みんながいつもどおり仕事をしていたはずだ。電話を取り、書類を運び、愛想笑いを浮かべていたはずだ。
十階にいるぼくも、いつもどおりだと思われていた。
それで世の中は足りる。
誰かが倒れていようが、知られない限り、今日という日は正常運転だ。
九時。
十時。
十一時。
昼。
一時。
二時。
時間だけが、きっちり進んでいく。
倒れた人間を置き去りにしたままでも、時計は律儀だ。
ああいうものを、残酷というのかもしれない。
ぼくは床に伏せたまま、誰にも気づかれなかった。
Part 3 - 彼女の異変
九階の奥の部屋に、彼女がいた。
二十二歳。
腕の中には、生後四ヶ月の娘がいた。
夏に生まれた子だった。
小さくて、あたたかくて、まだ世界の仕組みなんか何も知らない顔をしていた。
午後三時半。
彼女は娘に乳をやり、寝息が整うのを待っていた。
ひと息ついたところで、違和感が顔を出した。
夫が降りてこない。
昼には一度、必ず顔を出す。
娘を抱いて、糸みたいに細い目をさらに細くして笑う。あれがいつもの流れだった。
今日は、それがない。
時計を見る。
昼はとっくに過ぎていた。
電話をかける。
呼び出し音だけが続く。
もう一度。
やはり出ない。
胸の奥で、嫌なものが目を覚ました。
理由のない不安というやつは、たいてい理由がある。
彼女は子どもの額をそっと撫で、部屋を出た。
一階分の階段。
たかがそれだけの距離なのに、心臓は妙に急いでいた。
十階の廊下。
事務所の前。
呼びかけても返事はない。
ノブを回す。
鍵はかかっていなかった。
扉が開く。
部屋の空気は静かだった。静かすぎた。
人が倒れている部屋というのは、どうしてああも音を失うのだろう。
ソファの下、絨毯の上に、ぼくはうつ伏せで転がっていた。
彼女は息を呑んだ。
名前を呼んだ声は、かすれていた。
ようやく見つけた、という安堵と、見つけてしまった、という恐怖。
たぶんその両方があった。
救急車は呼ばないでくれ。
前からぼくはそう言っていた。
気づかせ屋が倒れたなんて話は、あまり景気がよくない。
くだらない見栄だ。
だが、見栄で保っている商売というものもある。
彼女は扉を閉め、鍵をかけた。
ぼくを仰向けに返す。
顔色は悪い。だが息はある。脈もある。
まだ向こう岸じゃない。
その事実だけで、十分だった。
彼女はぼくの身体をソファに寝かせた。
入口には「本日休業」の札を掛けた。
それから椅子を引き寄せて、ぼくのそばに座った。
額に触れる手つきが静かだった。
ああいう手に、人は助けられることがある。
ぼくが小さく呻くと、彼女は低い声で言った。
「眠ってていい」
慰めでも命令でもない。
腹をくくった人間の声だった。
夕方四時半。
窓の外では、師走の空が赤く汚れていった。
Part 4 - 一週間
倒れてからの一週間、彼女は九階と十階を往復した。
子どもを抱き、乳をやり、ぼくの様子を見に来て、また下りる。
言葉にすると単純だが、実際は単純じゃない。
生活ってやつは、倒れた人間を中心にしても止まってくれない。
泣く子どもは泣くし、腹は減るし、洗うものは溜まる。
その上で誰か一人を看病するのは、根性だけじゃ続かない。
ぼくの意識は戻った。
だが、身体は言うことをきかなかった。
「身体が動かない」
そう言うと、彼女は騒がなかった。
泣きもしない。責めもしない。
ただ、「立たなくていい」とだけ言った。
粥を作ってきてくれた。
匙を持つ手がやけに頼もしく見えた。
人間、弱ると相手の輪郭がはっきりする。あれはあまり愉快な発見じゃない。
「お前がいてよかった」
口にすると、ひどく間抜けな台詞に聞こえた。
だが、そういう時に気の利いたことを言えるほど、ぼくはできた人間じゃない。
彼女は、当然みたいに言った。
自分がいるから大丈夫だ、と。
その一週間で、ぼくは立てるようにはなった。
だが、元には戻っていない。
そんなことは、自分がいちばんよく知っていた。
身体は細くなった。
煙草は減った。飯は入らない。
以前なら笑ってやり過ごせた疲れが、骨の内側に残るようになった。
それでも、外ではいつもの顔をした。
大丈夫だ。気のせいだ。いつもどおりだ。
そう言っていれば、相手は納得する。いや、納得したふりをしてくれる。
世の中は案外、真実より手触りを信じる。
元気そうに見えれば、それで話は済む。
だから演じる。こっちも、向こうも。
彼女もまた、演じていた。
いつもの夫を支える、いつもの伴侶を。
その芝居は二人だけの契約になった。
十階の慈恩オフィスは営業を再開した。
空の色も、街の雑踏も、客の顔も、表向きは何一つ変わらない。
変わったのは、内側だけだ。
それがいちばん始末が悪い。
Part 5 - 直樹さんの予言
倒れてから一週間後、ぼくは九階へ下りた。
ソファに腰を下ろし、娘を抱いた。
生後四ヶ月の赤ん坊は、こちらの都合も事情も知らず、ただ温かかった。
あの温度に触れると、自分がまだ死んでいないことを思い出す。
情けない話だが、ああいうものに救われる。
「お疲れさま」
彼女がそう言った。
ぼくは曖昧にうなずいた。
娘の額に手をやる。
小さな頭。軽い息。
この子には、まだ何一つ説明できない。
「ぱたんが来たよ」
独り言みたいに言った。
娘は「あー」と声を出した。
たぶん意味なんかない。だが、その無意味さがありがたかった。
「もう、前と同じじゃないかもしれない」
それは娘に向けた言葉というより、自分への通告だった。
壊れたものは直ることもある。だが、ひびの入った跡までは消えない。
直樹さんは正しかった。
ある日、ぱたんと来る。
そして、そのあとも人生は続く。
そこが厄介だ。
倒れたところで幕は下りない。
続きがある。食うための仕事があり、守る相手がいて、見ないふりをしてきた現実がある。
「ありがとう」
彼女に向かって言うと、目が少し揺れた。
その顔を見て、こっちのほうが参った。
ぼくは昔から、誰かに支えられる柄じゃないと思っていた。
そういうものは、もっとまっとうな人間に回ってくると思っていた。
だが、当てが外れたらしい。
彼女は、伴侶だと言った。
妙にまっすぐな声だった。
その一言で片がつくなら、世の中の契約書は半分いらない。
ぼくは笑った。
たぶん、いつものように。
だが本当は、もういつもどおりじゃなかった。
師走の夕方だった。
窓から差し込む光が、部屋の輪郭をやわらかく削っていた。
娘は腕の中で眠り、彼女はすぐそばにいて、ぼくはまだ生きていた。
それだけで十分だ、と思えれば楽だった。
だが人間は、そう簡単にはできていない。
一度ぱたんと来たものは、また来る。
次は今日より静かに、今日より確実に来るだろう。
そのときまで、ぼくはたぶん、いつもどおりの顔をして座っている。
煙草の火みたいに、残り時間を少しずつ削りながら。




