第4話 ともだちのお母さん(4)
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リサが生まれたのは春だった。
病室の窓から、白い光が差し込んでいた。
初めて抱いた娘は、驚くほど小さかった。
柔らかくて、温かくて、泣きそうになった。
「浩さん」
「うん」
「かわいいね」
浩さんも笑った。
その顔を見て、私は思った。
幸せだ。
きっと、この先もずっと。
そう思っていた。
どこで間違えたのか、今でもはっきりとは分からない。
リサはよく笑う子だった。
転んでも笑う。
失敗しても笑う。
泣いていたのに、次の瞬間にはもう笑っている。
その笑顔を見るだけで、どんな日も大丈夫だと思えた。
けれど、私の世界は少しずつ小さくなっていった。
友人と会う回数。
実家へ帰る回数。
外へ出る回数。
電話をする回数。
減っていった。
ゆっくり。
本当にゆっくり。
浩さんは相変わらず怒鳴らなかった。
暴力もなかった。
生活費も入れていた。
外から見れば、きっと理想的な夫だった。
だから、私もそう思おうとした。
リサが小学生になった頃、珍しく高校時代の友人と電話をした。
たった十分。
それだけなのに、電話を切ったあと、リサが私を見上げた。
「お母さん、今日は楽しそうだね」
私は笑った。
「そう?」
「うん。また電話すればいいのに」
「忙しいからね」
本当は違った。
電話しづらくなっていた。
会いづらくなっていた。
受話器を取る前に、浩さんの顔が浮かぶようになっていた。
何を話すのか。
何分話すのか。
そんなに楽しいのか。
そう言われたわけではない。
言われたわけではないのに、先に怖くなった。
授業参観の帰り、先生に言われたことがある。
「リサちゃん、お母さんのこと大好きなんですね」
嬉しかった。
隣で浩さんが言った。
「少し依存気味かもしれませんね」
私は笑った。
そうなのかな、と思った。
今なら分かる。
違った。
依存していたのは、私の方だった。
夕食の席で、浩さんが味噌汁を薄いと言った。
「私は好きだよ」
リサが言った。
本当に、何気なく。
ただ私を庇おうとして。
浩さんは静かに言った。
「大人の話に入るな」
リサは俯いた。
私は謝った。
いつものように、反射みたいに。
あの時、謝るべきだったのはリサではなかった。
私でもなかった。
でも私は、誰に謝っているのかも分からないまま、頭を下げた。
一度ではない。
「お母さん忙しかったんだよ」
「お母さん頑張ってたよ」
「私は好きだよ」
小さな声で、何度も。
私は気づかなかった。
娘が、母親を守ろうとしていることに。
気づきたくなかったのかもしれない。
母親は私なのに。
守る側は私なのに。
気づけば十三年が過ぎていた。
私は書くことを忘れた。
友人も減った。
実家へも帰らなくなった。
短歌を書いていた女の子は、どこにもいなかった。
残ったのは、間違えないように息をしている人間だけだった。
二週間前、鏡を見た。
知らない女がいた。
目の下の隈。
痩せた頬。
光のない目。
誰だろう、と思った。
それが自分だと分かって、少し笑った。
笑ったあとで、自然に言葉が出た。
「もう、いいかな」
今朝。
階段を降りてきたリサが、私の顔を見た瞬間、ほんの一瞬固まった。
その時、ようやく分かった。
この子は、ずっと前から気づいていた。
私より先に、私が壊れていることに。
夕方。
リサに手を引かれて、古いビルのエレベーターに乗った。
数字が上がる。
三。
四。
五。
心臓が鳴る。
六。
七。
帰りたい。
八。
まだ引き返せる。
何も話していない。
何も知られていない。
まだ、普通の母親のふりができる。
頭の中で、いつもの声がした。
帰れ。
恥を晒すな。
大人が人に泣きつくのか。
リサの手が、私の手を握り直した。
小さかったはずの手は、もう私より強かった。
チン。
扉が開いた。
最初に、コーヒーの匂いがした。
紙の匂い。
本の匂い。
木の匂い。
古い建物の、少し乾いた匂い。
病院ではなかった。
カウンセリングルームでもなかった。
拍子抜けするくらい、普通だった。
「着いたよ」
リサが言う。
廊下の先に、木製の扉がある。
相談事務所。
小さな文字。
リサがノックした。
返事は、少し遅れて来た。
「開いてますよー」
気の抜けた声だった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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