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燃えカス人生、リペア中  作者: K3
ともだちのお母さん
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第3章

夫の真の姿

 夕方、四時。

 私はまた、車に乗った。

 リサを迎えに行くために。

 午後の光が、車窓から静かに差し込んでいる。

 さっきまで暗いソファに沈んでいた身体には、その光が少し眩しかった。

 ——朝から、何をしていたんだろう。

 たぶん、何もしていない。

 ソファに座って、時計を見て。

 音を聞いて。

 ただ、それだけ。

 洗濯物は畳まれないまま残っている。

 夕飯の買い物にも行っていなかった。

 冷蔵庫の中を思い出す。

 昨日の煮物。

 卵。

 豆腐。

 ——なんとか、なる。

 そう思って、車を走らせた。

 神宝町の校門の前で、リサを待つ。

 しばらくして、制服姿のリサが見えた。

 髪が、少し伸びている。

 笑顔は、昨日より少しだけ小さかった。

「お帰り」

「ただいま」

 車に乗ると、リサは弁当箱を膝に抱えたまま、小さく言った。

「お弁当、半分残しちゃった。ごめんね」

「いいよ」

 リサは謝る。

 私は笑う。

 でも、ちゃんと笑えてはいなかった。

「お母さん、最近、大丈夫?」

 その瞬間、ハンドルを握る手が強ばった。

「……うん。大丈夫だよ」

「本当?」

「本当」

 答えながら、自分の声が遠く聞こえた。

 夕方の光が、揺れている。

 ——無理してる。

 リサの声ではなかった。

 頭の奥から、別の声が響いた。

 ——無理してるでしょ。

 え……?

 私はハンドルを握り直す。

 窓の外の景色が、一瞬だけ滲んで見えた。

 家に戻る。

 リサは二階へ上がり、私はキッチンに立った。

 煮物を温める。

 冷奴を切る。

 味噌汁を作る。

 そこで初めて、ご飯を炊き忘れていたことに気づいた。

 胸の奥に、焦げたような焦りが広がる。

 急いで米を研ぐ。

 ——七時半までに出さないと。

 “決まり”だから。

 時計を見る。

 また見る。

 秒針の音が、心臓の鼓動と重なっていく。

 急かされている。

 自分に。

 ——いや、誰かに。

 七時二十八分。

 玄関のドアが開いた。

「ただいま」

 ——きっちり。

 時計。

 秒針。

 靴音。

「今日も、ありがとう」

 穏やかな笑顔。

 けれど、その目の奥には、小さく冷たい光があった。

 ——ありがとう、なのに。

 その言葉は、胸に届かない。

 ただ、音として転がるだけだった。

 夕食が始まる。

「学校はどうだった?」

「リサ、友達とは仲良くしてるか?」

「うん!」

 リサが笑う。

 主人も笑う。

 ——お父さんは優しい。

 たぶん、リサにはそう見えている。

 それでいい。

 リサが、まだそう信じていられるなら。

「貴子」

「はい」

「味噌汁、今日は少し薄いな」

「あ……すみません」

「いや、いいんだ。次から気をつけて」

 ——次から気をつけて。

 その言葉が、また静かに胸へ落ちる。

 リサが、ちらりと私を見た。

 私は黙って頷く。

 味噌汁の味は、普通だった。

 でも、明日は少し濃くして。

 そうすると、きっと別のことを言われる。

 ——今日は濃いな。

 それも、もう分かっている。

 分かっているのに、変えられない。

 食後。

 リサが部屋へ戻り、家の中が静かになる。

 リビングには、私と主人だけ。

 テレビの青い光が、壁を冷たく照らしていた。

 食器を洗う音だけが続く。

「貴子」

「はい」

「先月の領収書、見たよ」

 レシートを畳む指が止まる。

「五千円。何に使った?」

「スーパーで……食材を」

「何を買った?」

「いつものものを……」

「いつもの、で五千円か」

 声は穏やかだった。

 だからこそ、怖かった。

 静かな水面の下に、薄い氷が張っているみたいに。

「……次から気をつけて」

 返事をしようとして、声が詰まる。

 その時だった。

 視界の隅に、黒いものが見えた。

 もや。

 煙のような、影のような。

 空気にできた裂け目みたいな黒。

 ——何……?

 目をこすっても、消えない。

「影……?」

 思わず声に出ていた。

 主人がこちらを見る。

「何か言ったか?」

「い、いえ……」

 喉が乾いていた。

 でも、水を飲もうという考えすら、途中で途切れてしまう。

 黒いもやは、ゆっくり動いていた。

 まるで呼吸しているみたいに。

 寝室。

 電気を消す。

 暗闇。

 ——それでも、見える。

 部屋の隅に、黒い影がある。

 主人の声がした。

「お前、最近おかしいな」

 心臓が跳ねる。

「変な顔をしている」

 静かな声。

「リサに影響する。気をつけろ」

 布団の中で、指先が冷えていく。

「離婚でも考えてるのか?」

 息が止まりそうになった。

「リサは俺が引き取る。お前には何も残らない」

 ——何も、残らない。

 その言葉が、部屋の壁に染み込んでいく。

 黒いもやが、形を変えた。

 人の形。

 笑っている。

 私の顔で。

 ——私……?

 息が苦しい。

 頭の奥で、音が鳴る。

 カチ、カチ、カチ。

 時計みたいな音。

 脈みたいな音。

 指先が、何かを探していた。

 包丁の柄。

 冷たい金属。

 ——届かない。

 光が、遠い。

「お前のお母さんにも連絡した」

「……え」

「最近、様子が変だって言っていたよ」

 優しい声だった。

 だから余計に、逃げ場がなかった。

 ——もう、逃げられない。

 その瞬間。

 頭の奥で、何かが小さく折れる音がした。

 黒い影が、近づいてくる。

 冷たい風みたいに、背中を撫でる。

 ——出ておいで。

 誰かの声。

 ——出ておいで。

 影が、私の顔で笑う。

 ——もういいかな。

 声が、増えていく。

 ——もういいかな。

 ——もういいかな。

 ——もう、いいかな。

 重なって、響く。

 ——いや。

 かすかに、自分の声が残っていた。

 私は、リサの名前を呼んだ気がした。

 その瞬間だけ、少し戻れた。

 朝。

 光。

 私は、生きていた。

 どうしてだろうと思う。

 身体は鉛みたいに重い。

 でも、動けた。

 だから、立ち上がった。

 味噌汁の出汁を取る。

 ——朝のお茶は七分後。

 昨日と同じ。

 でも、どこか少しだけ違う朝。

 階段を下りる音。

 リサが、降りてきた。

「お母さん」

「うん?」

「相談屋さん、って知ってる?」

「……え?」

「ちーちゃんのお父さんがやってるの。行ってみない?」

 リサの目を見た。

 そこだけが、はっきり色を持っていた。

 暗い部屋の中に残った、小さな光みたいに。

 希望。

 私は、小さく頷いた。

「……うん」

 そう答えていた。

 ——リサ、ありがとう。

 その言葉を、私は初めて心の中で言えた。

 ふと、部屋の隅を見る。

 黒いもやは、まだそこにいた。

 でも。

 その輪郭だけが、ほんの少し薄くなっていた。

 まるで、閉じ切っていた部屋に、細い光が差し込んだみたいに。

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