第3話 ともだちのお母さん(3)
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「味噌汁」
主人が言った。
箸が止まる。
私は反射的に背筋を伸ばした。
「はい」
「薄いな」
心臓が、すとんと落ちた。
「申し訳ありません」
「前も言ったよな」
「はい」
「覚えていて、これか」
新聞をめくる音がした。
ぱさり。
たったそれだけで、肩が縮む。
怒鳴られているわけではない。
叩かれているわけでもない。
主人はいつも静かだった。
静かなまま、逃げ場だけを消していく。
「俺は難しいことを言ってるか?」
私は一瞬、リサを見た。
見てしまった。
あの子が箸を握ったまま、息を止めている。
「いえ」
「普通のことだろう」
普通。
その言葉が出るたび、私は少しずつ小さくなる。
普通のことができない。
普通の妻になれない。
普通の母親になれない。
主人が言う前に、私の中の私がそう言う。
「お父さん」
リサが口を開いた。
「お母さんの味噌汁、私は好きだよ」
やめて。
声にはならなかった。
主人がゆっくり顔を上げる。
「リサ」
低い声だった。
「今、大人が話している」
「でも」
「聞こえなかったか?」
リサが黙った。
私は慌てて頭を下げる。
「申し訳ありません」
「貴子」
主人の視線が私に戻る。
「子供に気を遣わせるな」
「……申し訳ありません」
「母親だろう」
母親だろう。
何度聞いたか分からない言葉。
味噌汁を飲む。
味がしない。
自分で作ったはずなのに、何も分からなかった。
昔の私は、こんなふうに食卓で息を殺す人間ではなかった。
海の近くの小さな町で育った。
冬には雪が降り、夏には蝉が鳴いた。
父は市役所に勤め、母は小さな美容院をしていた。妹がひとり。特別裕福ではないけれど、不自由もなかった。
高校では文芸部に入った。
短歌を書くのが好きだった。
放課後、図書室の窓際に座って、ノートを開く。
それだけで心が落ち着いた。
「町田は字が綺麗だな」
顧問の先生がよく言った。
綺麗というより、整っている。
そう言われるのが好きだった。
卒業式の寄せ書き。
町内会のお知らせ。
母の美容院の案内状。
お礼状。
頼まれると嬉しかった。
専門学校を出て、歯科助手になった。
カルテ、請求、保険関係の書類。
細かい仕事ばかりだったけれど、苦ではなかった。
「町田さん、本当に仕事が早いね」
院長先生はそう言った。
「ミスも少ないし、助かるよ」
才能だ、と言われたこともある。
私は笑って首を振った。
そんなものではない。
ただ言われたことを、きちんとやっているだけ。
本気で、そう思っていた。
浩さんと出会ったのは、二十二歳の春だった。
九歳年上の銀行員。
東京から来た人。
靴が磨かれていて、スーツに皺がなくて、丁寧な人だと思った。
治療が終わった日、受付で呼び止められた。
「もしよかったら、お礼にお茶でも」
断ろうと思った。
けれど浩さんは、すぐに言った。
「迷惑なら断ってください」
その言葉が誠実に聞こえた。
初めて入った喫茶店で、二時間も話した。
家族のこと。
仕事のこと。
本のこと。
短歌のこと。
「貴子さんの話、面白い」
そんなことを言われたのは初めてだった。
交際が始まった。
浩さんは優しかった。
車道側を歩き、荷物を持ち、私の話を最後まで聞いた。
「貴子さんは優しいね」
そう言って笑った。
半年後、プロポーズされた。
「東京へ戻ることになった」
そう告げられたとき、胸が苦しくなった。
離れたくないと思った。
「貴子さん。結婚しよう」
未来が、眩しかった。
東京へ来て、小さなマンションで暮らし始めた。
新しい家具。
二人で選んだ食器。
カーテン。
夕食のカレー。
幸せだった。
最初の違和感は、本当に小さかった。
「その服、かわいいね。ただ、貴子さんなら、もう少し落ち着いた色の方が似合うかも」
優しい声だった。
責める声ではなかった。
だから翌月、私は地味な服を買った。
髪は長い方が似合うと言われて、切るのをやめた。
友人のことを、少し失礼な人だと言われて、会う回数を減らした。
実家へ帰るたび、今月も帰るのかと聞かれて、帰省を減らした。
仕事は、無理して働かなくていいと言われて辞めた。
ひとつずつ。
本当に、ひとつずつだった。
その頃には、東京で会う人がほとんどいなくなっていた。
でも、寂しくなかった。
浩さんがいたから。
私はまだ幸せだった。
少なくとも、そう思っていた。
そしてある日、初めて聞いた。
「次から気をつけて」
靴下の置き方だった。
それだけだった。
だから私は笑って謝った。
まさかその言葉が、十三年かけて私の中に住みつくなんて、まだ知らなかった。
その日から私は、少しずつ、自分の声を置いていった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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