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燃えカス人生、リペア中  作者: K3
ともだちのお母さん
3/23

第3話 ——侵食された日々

侵食された日々

私の故郷は、海の近くの小さな町だった。

冬は雪が降り、夏は蝉が鳴いた。

父は市役所勤めで、母は小さな美容院をしていた。

妹がひとり。


平凡な家だった。裕福ではなかったが、貧しくもなかった。

父は優しく、母はよく笑う人だった。

私は、その家で育った。


高校の頃、私は文芸部にいた。短歌が好きだった。

放課後、図書室の窓際でノートを開き、五七五七七を書き連ねていた。


「貴子は字が綺麗ね」

顧問の先生が言った。

「綺麗というより、整ってる、っていうのかな」


——整ってる。


その言葉が、なぜか嬉しかった。

私は書くのが好きだった。誰かの手紙の代筆をよく頼まれた。

卒業式の寄せ書き、美容院のお知らせ、お礼状、請求書。


「貴子に書いてもらうと、ちゃんとしてる気がする」

みんなそう言ってくれた。


私は、自分が書くのが好きなのか、頼まれることが嬉しいのか、わからなかった。

でも、書いていると心が落ち着いた。


——あの頃、私は何かに向かっていた、はずだった。


高校を卒業して、歯科助手の専門学校へ進んだ。

特に強い動機があったわけではない。

ただ、母が言った。

「手に職をつけときなさい」


歯科助手の仕事は、思っていたより書類が多かった。

カルテの管理、保険の請求、明細、患者さんへの案内。


「町田さん、書類得意よね」

院長先生によく言われた。

「いやぁ、苦手です」

私はそう答えた。


——本当は、苦手だと思っていた。


書類は嫌いだった。細かくて、間違えると怒られる。

それでも、なぜか私の書類はミスが少なく早かった。

保険会社からも「町田さんの書類は分かりやすい」と言われた。


ある日、新しく入った後輩が私のカルテを見て言った。

「字、綺麗ですね」

「あ……いえ、普通です」


“普通”という言葉を飲み込んだ。

喉に小さな塊ができた気がした。

でも、その時は、理由がわからなかった。


——苦手なんです。


心の中でつぶやいた。

書類仕事をやりたくてやっていたわけじゃない。

ただ、頼まれるからやる。それだけ。


ひろしさんと出会ったのは二十二歳の春。

歯医者に患者として来た人だった。


銀行員。東京から地方の支店に赴任してきた三十一歳。


最初の印象はよく覚えていない。

礼儀正しい人だった。姿勢が良く、靴は磨かれ、スーツに皺がなかった。


——きちんとした人。


そう思った。


治療が終わった日、浩さんが言った。

「あの、よかったら……お礼にお茶でも」

「いえ、そんな」

「お世話になったので」


真面目な表情に軽い誘いではないと感じた。断れなかった。

——きちんとした人だし。少しだけお茶を飲むだけ。


そう自分に言い聞かせて、頷いた。


喫茶店で浩さんはコーヒーを、私は紅茶を頼んだ。


「紅茶はダージリンが一番いいんです。普通、紅茶を頼むならダージリンなので」


——普通。


初めてその言葉を聞いた。嫌ではなかった。

ただ、詳しい人なんだな、と思った。


何度か会ううちに浩さんはいつも丁寧で、私の話をよく聞いた。

「貴子さん、本が好きなんだね」

「はい」

「短歌も書くって聞いたよ」

「あ、はい。高校の頃ですけど」

「いいね。教養がある人は、いい」


——教養。


そんなふうに言われたのは初めてだった。嬉しかった。


半年後、浩さんは言った。

「来月、東京の本店に戻る」

「あ……」

「貴子さん、結婚しよう」


——え。


「ぼくは貴子さんがいい。東京に来てくれ」

「貴子さん、こういう仕事、向いてないと思うよ。書類仕事とか、頭がよくないと大変だからね。君は家で落ち着いてる方がいい。ぼくが稼ぐから」


——そう、なんだろうか。


でも浩さんは私を思って言ってくれている。

きちんとした人。優しい人。東京の銀行員。

お母さんもきっと喜ぶ。


そう考えて、頷いた。

「はい」


それが、私の人生の分かれ道だった。


母は泣いて喜び、父は穏やかに笑い、妹は「お姉ちゃんおめでとう」と言った。

みんなが喜んでくれた。それだけで十分だった。


歯医者の先生は少し寂しそうに言った。

「町田さん、書類仕事、得意なのにね」

「苦手なんです」

私はそう返して、東京へ向かった。二十二歳の春だった。


東京の生活は、最初は楽しかった。

新しい街、新しい部屋、新しい家具。

浩さんは朝早く出て、夜遅く帰る。

ひとりで過ごす時間が増えたけれど、それも新婚の忙しさだと思っていた。


「貴子、これはこうしてくれ」

ある日、浩さんが言った。

「靴下は左右揃えて置く。これは君のお母さんに教わらなかったのか?」

「いえ、そんなことは……」

「いいよ。次から気をつけて」


——次から気をつけて。


夜、靴下を見つめた。その言葉が頭の中をぐるぐる回った。

それが最初の、小さな違和感だった。


その日から、浩さんはいろんなことを“教えて”くれた。

お風呂は42度。洗濯は白と色物を分ける。夕飯は七時半。味噌汁の出汁は煮干しと昆布。


最初は「丁寧な人」だと思っていた。

でも、半年、一年、二年と経つうちに、何かが削れていくようだった。


電話をかけようとすれば「夜の十時だよ、相手の家族に気を遣わせるな」。

ご近所と話していれば「付き合いはほどほどに」。

ママ友ができると「外食はお金がかかる」。


そのたびに私は頷いた。

頷くたびに世界は少しずつ小さくなった。


——浩さんは私を心配してくれている。守ってくれている。


そう信じていた。


リサが生まれたのは二十三歳の時。

産院で初めて抱いた小さな体は温かかった。


——この子のために生きよう。


そう決めた。


それからの十三年、私はリサのために生きた。

けれどその間に、自分を忘れていった。


書くことを、忘れた。

「整ってる」と言われた筆跡の感覚も、ペンを握る手の記憶も、全部、遠くなった。


——書類仕事は苦手。頭はよくない。家でゆっくりしているのがいい人間。


いつの間にか、それが本気で自分のことだと思うようになった。


「貴子は書類は無理だな」

浩さんが幼稚園の書類を書きながら言った。

「家計簿も数字合わないし」

「すみません」


家計簿の数字は合っていた。

違うのは浩さんの方だった。

でも言えば、「じゃあ見せて」と言われ、いくつか指摘して最後には、


「まあ、いい。次から気をつけて」


——もう、いいかな。


いつからか、その言葉が心に住みついた。

最初は小さな声。

年を重ねるごとに、大きくなった。


ある朝、鏡を見た。

知らない女がいた。目の下の隈、痩せた頬、死んだような目。


——誰、これ。


そして、それが自分だと分かったとき、笑った。

笑ったあとで、呟いた。


——もう、いいかな。


それは、二週間前のことだった。

その日から、朝も夜も、その言葉が自然に口をつくようになった。


リサに聞かれたら、「あ、独り言」と誤魔化した。

けれどリサは、たぶん気づいていた。


——リサ、ごめんね。お母さんが、こんなで、ごめんね。


気づいたら、十三年。


私はリビングのソファに座り、ぼんやり時計を見ていた。

カチ、カチ、カチ。


音だけが響く部屋の中で、考えていた。


もう、自分を知らない。

書くことが好きだった私も、「整ってる」と言われて喜んだ私も、

あの頃、何かに向かっていた自分も。


全部、どこかへ消えていった。


——もう、いいかな。


また、口の中で転がす。立ち上がろうとしたが、できなかった。


外では春の光が降っていた。

けれど、私の部屋は暗かった。

ずっと、暗いままだった。



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