第1章
幸福の断面
まどろみの薄皮を一枚ずつ剥ぐようにして、私はゆっくりと光を受け入れた。
眠った気がしない。
見上げた天井の白さの下で——今日も、生きていた。
カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいる。
その淡い明るさを、ただぼんやり見つめていた。
時計の針は、五時四十五分。
主人——あの人は、もう起きている。
書斎から、新聞をめくる乾いた音が聞こえた。
——また、今日が始まる。
私は、ゆっくり身体を起こした。
重い。
胸の奥に、見えない錘がぶら下がっているみたいだった。
「……もう、いいかな」
小さく漏れた言葉に、自分でぎょっとする。
最近、これが増えた。
朝、目を開けた瞬間、勝手にこぼれてしまう独り言。
誰に向けたわけでもない、空気みたいな言葉。
——もういいかな。
その「もう」が何を指しているのか、自分でもわからない。
キッチンに立つ。
鍋に水を入れ、火をつける。
昆布と煮干しを入れる。
この家の味噌汁の出汁は、煮干しと昆布。
味噌は信州。
お椀は塗り。
ご飯は左、味噌汁は右、焼き魚は頭を左に。
——全部、主人が決めた。
彼の口癖は、いつも、
「普通はこうする」
だった。
——普通って、なんですか?
結婚した最初の年、一度だけ聞いたことがある。
主人は、不思議そうな顔をして言った。
「みんな、こうしてるだろう」
その「みんな」が、誰なのかはわからなかった。
もう、それ以上は聞かなかった。
質問すると、もっと長くて、もっと冷たい説明が始まることを知っていたから。
「貴子」
書斎から声が飛ぶ。
「はい」
「お茶、まだか」
「すみません。すぐに」
——朝のお茶は、出汁を取り始めてから、ちょうど七分後。
それが、主人の“きまり”。
時計を見る。
まだ五分しか経っていない。
——また、間違えた。
急須に湯を注ぎ、湯呑みに移す。
書斎へ運ぶと、主人は新聞を広げたまま顔を上げた。
「今日のは、少し温度が高いな」
「すみません」
「いや、いいんだ。次から気をつけて」
——優しい。
そう、表面だけなら、いつも優しい。
怒鳴らない。
叱らない。
声を荒げることもない。
ただ、毎日、毎食、どこかが違う。
何かが足りない。
——“次から気をつけて”
その言葉を、私は何百回聞いただろう。
百回?
千回?
たぶん、もっと。
「お母さん」
廊下から、リサの声。
「あ、リサ。おはよう」
「……うん」
リサは、じっと私の顔を見ていた。
その目の奥が、何かを探している。
——気づかれてるかな。
私は、そっと目をそらした。
最近、リサが私を見る回数が、怖いくらい増えている。
言葉にならない謝罪が、いつも喉元まで浮かんで、消える。
——母親がこんなんで、ごめんね。
食卓に、朝の音が集まっていく。
炊飯器の湯気。
味噌汁の匂い。
新聞をめくる音。
「卵焼き、もう少し甘くてもいいな」
「すみません。明日は——」
「いや、いいんだ。次から気をつけて」
——ああ、また。
主人の声を聞きながら、自分の卵焼きを見つめる。
昨日と同じ味。
でも明日は、きっと、もう少し甘く作る。
そして明日も、また別の言葉が返ってくる。
「お父さん」
リサが箸を止めて言った。
「お母さんの卵焼き、私、好き」
——え。
思わず顔を上げる。
リサは私を見ないまま、ご飯を食べていた。
主人は新聞から目を離さず、ただ一言。
「そうか」
リサの「好き」と、主人の「そうか」が、食卓の上で宙に浮いたまま、どこにも着地しなかった。
私は味噌汁を口に運ぶ。
味が、しなかった。
七時半。
主人が玄関を出ていく。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
——あ。
今日は、先に言われなかった。
どうでもいいはずなのに、胸のどこかが、小さく軋んだ。
私は頭を振って、リサに声をかける。
「行こうか」
リサは、もう靴を履いていた。
車のエンジンをかける。
毎日同じ道。
十三年間、変わらない往復。
リサは窓の外を見たまま、小さく呟いた。
「お母さん、今日ちょっと食欲ないの?」
「お弁当、残してきていいよ」
「うん」
——リサ。
あなたは、私の唯一の光。
それは、嘘じゃない。
主人がいなくなったら、生きていけない。
でも、リサがいなかったら、生きようとも思わなかった。
——リサが、いてくれてよかった。
その想いのすぐ下で、別の声が静かに囁く。
——もう、いいかな。
私は答えなかった。
神宝町に入る。
古い書店。
木造の喫茶店。
東京の中に取り残されたみたいに静かな街。
毎朝ここを通るのに、降りて歩いたことは、ほとんどない。
——きれいな街だな。
そう思うだけで、通り過ぎる。
学校前でリサを降ろす。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
リサは車を降りて、それから振り返った。
「お母さん——いってきます」
二度、同じ言葉をくれたその目は、少し悲しそうだった。
胸の奥で、何かが崩れる音がした。
家に戻る。
誰もいない、静かな部屋。
ソファに座る。
時計は、八時四十分。
夕方まで、ひとり。
立ち上がれない。
家事のことを考えるだけで、呼吸が重くなる。
時計の音。
カチ、カチ、カチ。
気づけば、十一時を過ぎていた。
キッチンへ行く。
包丁の銀色が、窓の光を静かに跳ね返している。
——あ。
しばらく見つめたまま、私はその場にしゃがみこんだ。
冷たい床。
頬に触れるタイルの感触。
涙は、出なかった。
心の中で、何度も、何度も繰り返す。
——もういいかな。
——もういいかな。
——もういいかな。
外では、春の光が街に降っていた。
けれど。
私の部屋には、その光だけが、どうしても届かなかった。




