ともだちのお母さん(2)
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
リサの声は小さかった。
中庭の風に混じったら、そのまま掻き消えてしまいそうなくらいだ。
ミアが何か言いかけて、サラに肘で制された。
珍しく、ミアは口を閉じる。
「どう変なの?」
私が尋ねると、リサは膝の上のお弁当箱を見つめた。
「夜中に起きてるの」
「眠れないってこと?」
「たぶん。でも、ベッドにいないの。リビングに座ってる」
「テレビとか?」
「ついてない」
「スマホは?」
「持ってるだけ。見てない」
そこで、誰もすぐには言葉を返せなくなった。
テレビも見ない。
スマホも見ない。
ただ、暗い夜中のリビングに一人で座っている。
想像しただけで、背中のあたりが冷たくなる。
「お父さんには?」
ミアが小声で聞いた。
リサは首を横に振る。
「仕事で、ほとんど家にいないの。帰ってきても電話ばっかり」
「そっか」
ミアはそれ以上、何も言わなかった。
えらい、と思う。
リサは慌てたように言葉を継いだ。
「お父さんが悪いわけじゃないの。忙しいだけだから」
その言い方が、逆につらかった。
庇っている。
たぶん、本当は誰よりも寂しいはずなのに。
サラが静かに問いかけた。
「他には?」
リサは躊躇した。
それから、目を伏せたまま言う。
「この前ね」
リサは喉の奥で息を詰まらせた。
「『もういいかな』って、ぽつんと言ったの」
乾いた沈黙が落ちた。
中庭を吹き抜ける風が、ベンチの背もたれを冷たく揺らす。
さっきまで春の陽だまりだったはずの場所から、すうっと色が引いていくようだった。
それは中学生の私たちが日常で使う「もういい」とは、明らかに違う重さを持っている。
自分という存在を、世界からそっと片付けようとしているような響きだった。
喉の奥が凍りついていくような感覚がする。
「いつ?」
「三日前」
「聞き間違いじゃなくて?」
「最初はそう思った。でも、最近ずっと変なの。笑ってるのに、目が笑ってない」
リサの声が細かく揺れた。
先生に言う。
スクールカウンセラーに相談する。
病院へ行く。
正しい答えなら、頭の中にいくつか浮かぶ。
でも今のリサが求めているのは、たぶん正論じゃない。
まず、逃げずに話を聞いてくれる大人だ。
そのとき、不意に頭へ浮かんだ。
古いビルの最上階。
天井まで届く本棚。
コーヒーの苦い匂い。
積まれた紙の匂い。
そして、革張りの椅子に深く沈んだお父さんの姿。
私は片手で額を押さえた。
「最悪だ」
「何が?」
リサが不安そうに私を見る。
「今、お父さんの顔が浮かんだ」
ミアがぷっと吹き出した。
サラも本で口元を隠す。
リサまで、ほんの少しだけ唇を緩めた。
その顔を見て、私は決めた。
この子を、ここで終わらせちゃだめだ。
「なんでそこでお父さん?」
サラが呆れたように言う。
「私もそう思う。変な人だし、近寄りにくいし、だいたい年中疲れてるし」
「フォローする気ある?」
ミアが突っ込む。
「ある」
私はリサに向き直った。
「あの人、人の話だけはちゃんと聞く」
そういう人だ。
私には、あの人の仕事の詳しい中身は分からない。
お客さんが何を相談して、何を持って帰るのかも知らない。
でも、相談に来た人が少し顔を変えて帰っていくことだけは知っている。
ここへ来たときより、ずっと息がしやすそうな顔で。
「リサ」
「うん」
「お母さん、連れて来られそう?」
リサはしばらく沈黙した。
お弁当箱の縁を押していた指先が、白く強張っている。
「……分からない」
「じゃあ、まず聞いてみて」
「断られたら?」
「そのときは、そのときに考える」
私は言った。
「でも、何もしないよりは絶対にいい」
リサは小さく頷いた。
「お願いしてもいいかな」
「もちろん」
私は即座に答える。
「ただし、びっくりしないでね」
「そんなに?」
「初見だと、だいたい疲れてるおじさんだから」
「おじさん」
サラが真面目な顔で訂正した。
「そこは正確に言うべきね」
ミアが耐えきれずに笑い出す。
リサの口元にも、ようやく微かな笑みが戻った。
その笑顔はまだ薄紙のように頼りなかったけれど、さっきよりはずっと人間の表情に戻っていた。
数日後。
朝のホームルーム前、リサが私の席へやってきた。
目の下に、うっすらと青い影が差している。
「連れて行きたい」
「お母さんを?」
リサはしっかりと頷いた。
「今日、学校が終わったら」
「わかった」
頷き返した瞬間、背筋に鋭い緊張が走った。
お父さんが、何を言うのか。
リサのお母さんが、そこまで歩いて来られるのか。
そもそも、私たち中学生が踏み込んでいいことなのか。
何も分からない。
でも、ゼロだった針が、かすかに一へ動いた。
放課後、私たちはあの古いビルへ向かう。
そしてたぶん、そこで初めて知ることになる。
大人は、子どもが思っているよりずっと簡単に、壊れかけるのだと。
でも、その前に。
リサのお母さんが、どうやって消えかけていったのか――
私は知らない、十三年の話を先にしなくちゃいけない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




