第4章
ドアが開いた。
中は、静かな薄明かりに包まれていた。
廊下と同じように、やわらかな灯りが空気の中に滲んでいる。
暗いのに、不思議と息苦しくない。
最初に目に入ったのは、本だった。
壁一面の本棚。
古びた辞典。
擦り切れた詩集。
雑誌やノートの束。
それから、部屋の奥に漂うコーヒーの香り。
紙とコーヒーの匂いが重なり合って、この小さな空間そのものを形作っているみたいだった。
カウンターの向こうでは、男が椅子に深く沈み込んでいた。
眠たげな糸目。
気の抜けた姿勢。
なのに、どこか静かな人だった。
「えーと……初めまして、でしたっけー? 鈴木さん」
「はい……鈴木貴子と申します」
「はーい、どうもー。佐藤ジオンですー」
掠れた声。
力の抜けた喋り方なのに、不思議と警戒心を削がれる。
リサが、ぱっと前に出た。
「お邪魔します!」
「お、リサちゃん。ちーちゃんは元気ー?」
「うん。今日はテニス」
「あー、そっかー。明日は歌のレッスンだろー?」
「うん!」
——知り合いなんだ。
当たり前みたいに交わされる会話を聞きながら、貴子は胸の奥が少しざわつくのを感じていた。
この場所には、自分の知らない時間が、もう流れている。
「まあまあ、座ってくださいー。コーヒー飲めますー?」
「……いただきます」
差し出されたカップから、湯気がゆらりと立ち上る。
その香りだけで、喉の奥が熱くなった。
——誰かに淹れてもらったコーヒーなんて、いつ以来だろう。
それだけのことなのに、涙が出そうになる。
リサはココアを頼み、赤いカップを両手で包み込んだ。
その横顔を見て、貴子はふと思う。
——この子も、ずっと無理してたんだ。
最近、笑顔の奥に疲れが滲んでいた。
それなのに、自分は気づかないふりをしていた。
「飲み物、用意しといてくれたんだって。ちーちゃんが伝えてたみたい」
リサがそう言う。
その何気ない言葉に、張りつめていた心が少しだけゆるんだ。
ジオンは椅子に深く座ったまま、ぼんやりと貴子を見つめていた。
糸目の奥。
静かな視線。
まるで、何かを覗き込むみたいに。
その瞬間。
貴子の呼吸が、急に浅くなった。
喉が締まる。
胸の奥で、何かが軋む。
視界の隅で、黒いもやが揺れた。
——もういい。
ふいに、その言葉が頭を過る。
——今日で終わってもいい。
身体の奥で、何かが崩れ落ちていく感覚。
「お母さん……?」
遠くで、リサの声がした。
そのとき。
ジオンが、静かに右手を上げた。
人差し指と中指を揃え、空をそっと薙ぐ。
ただ、それだけ。
なのに。
ふ、と。
部屋の空気が動いた気がした。
胸の奥に吊り下がっていた重りが、音もなく落ちる。
——軽い。
深く、息が吸えた。
肺の奥まで、空気が入ってくる。
震えていた指先が、止まっていた。
視界の隅の黒いもやが、ゆっくりと薄れていく。
頬に、血が戻る。
世界が、ほんの少しだけ明るく見えた。
「……いま、何を?」
「んー、まあ、占いみたいなもんですよー。気にしないでくださいー」
ジオンは、へらっと笑った。
けれど、その声はどこか柔らかかった。
「貴子さん」
名前を呼ばれて、貴子は顔を上げる。
「もう、頑張らなくていいですよー」
その言葉が、静かに胸へ落ちてくる。
責める声じゃない。
期待する声でもない。
ただ、疲れ切った人に毛布を掛けるみたいな声音だった。
気づけば、涙がこぼれていた。
でも、その涙は、少し温かかった。
「頑張ることが、生きることだって思ってる人、多いんですけどねー」
ジオンはコーヒーをひとくち飲む。
「実際は逆でー」
からん、と氷が鳴る。
「生き延びるためには、頑張りすぎちゃダメなんですよー」
その言葉に、胸の奥がじんわりと痛んだ。
張りつめていた何かが、少しずつ剥がれていく。
本の匂い。
コーヒーの香り。
午後の光。
全部が、ゆっくり身体の中へ戻ってくる。
貴子は、隣のリサを見た。
リサは少し顔色が悪かった。
それでも、安心したみたいに笑っていた。
「お母さん、ちゃんと息してる」
その一言に、貴子は小さく笑った。
——ああ。
まだ、笑える。
そのことが、自分でも信じられなかった。
「書類仕事、得意でしょうー?」
唐突に、ジオンが言う。
「え……私、苦手です」
「いやいやー、得意ですよー。字に"整い"がある人は、だいたいできますー」
——整ってる。
高校時代。
文芸部。
窓際。
短歌。
顧問の先生の声が、遠い場所から戻ってくる。
『綺麗というより、整ってる字だね』
忘れていた記憶が、春の光みたいに胸へ差し込んだ。
「貴子さん、たぶん、ずっと"できること"を否定され続けてきたんですねー」
貴子は、何も言えなかった。
「でも、人って、不思議でー」
ジオンは、糸目のまま笑う。
「壊れたあとでも、生きてれば、ちゃんと形変わるんですよー」
窓の外で、春の光が白く揺れていた。
止まっていた鼓動が、少しずつ別のリズムを刻み始める。
——もう。
——死にたい、だけじゃない。
そんな感覚が、胸の奥に小さく灯る。
リサがココアを飲みながら、ほっとしたように笑った。
「お母さん、顔、ちょっと戻ったね」
貴子は頷いた。
その言葉が、何より嬉しかった。
ジオンは、そんな二人を見ながら、ぼそっと呟く。
「……めんどくせぇ」
なのに、その声は不思議なくらい温かかった。
リサの気づき




