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燃えカスの守り人  作者: K3
海斗日本滞在中

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閑話③ たのしい、って言ってみろ


 何日か、ぼくはビルの三階に通った。


 立ち方。


 歩き方。


 しゃがみ方。


 そのたびに、外の一点と、足の裏の三点と、内ももと、尻の横を、ひとつずつ確かめた。


 退屈だった。


 おなじことの、繰り返し。


 でも、不思議と、嫌じゃなかった。


 坂田さんは、ぼくが一つできるたびに、「いいぞ」とだけ言った。


 その一言を、もう一回、聞きたくて、ぼくは、通った。


 ビルの三階に通うことは、母さんにも、誰にも、言わなかった。


 やめる、と言った口で、また、サッカーみたいなことをしている、と知られるのが、こわかった。


 失敗したら、二回めは、もっと、笑われる。


 だから、これは、ぼくと、坂田さんと、慈恩さんだけの、秘密の練習だった。


 誰にも見られていないから、ぼくは、思いきり、下手でいられた。


 それが、よかった。


 下手でいられる場所が、世界に、ひとつだけ、できた。


 その日、部屋に入ると、坂田さんはボールを、ぼくの足元に、転がしてよこした。


「今日から、触っていい。ただし、条件がある。蹴るたびに、口で言え。――たのしい、と」


「……え」


「たのしい。声に出して、言いながら蹴る。それが今日のメニューだ」


 変な人だと思った。


 楽しくなんかない。


 下手くそで、嫌われて、やめたサッカーだ。


 それを、楽しいと、口で言え、という。


 ぼくは、壁に向かってボールを蹴った。


 インサイドで、軽く。


 しかも、蹴る瞬間、ぼくの目は、いつもの癖で、足元のボールばかり、見ていた。


 声は、出なかった。


「顔を上げろ」と坂田さんが言った。


「お前、蹴るとき、下ばっか見てる。下を見たら、心も下を向く。――蹴る先の、一点を見ろ。壁の、どこに当てるか、先に決めて、そこを見て、蹴れ」


 下を見たら、心も下を向く。


 その言葉は、慈恩という人の言葉と、おなじ場所に、刺さった。


 ぼくは、ずっと、足元の一点ばかり見て、生きてきた。


 ぼくは、顔を上げた。


 壁の、ひびの入ったところ。


 そこを、一点に決めて、見た。


 蹴った。


 ボールは、その一点の、すぐ近くに当たって、まっすぐ戻ってきた。


「声は」と坂田さんが言った。


「……言えません。楽しくないから。嘘は、つけません」


 言ってから、生意気だったかな、と思った。


 でも坂田さんは、怒らなかった。


 腕を組んで、ふん、と鼻で息をした。


「順番が、逆なんだ」と坂田さんは言った。


「楽しいから、言うんじゃない。言うから、あとで、楽しくなる。心は、いつも、言葉のあとを、のろのろ歩いてくる。だから先に、言葉のほうを、置いとくんだ。棒読みでいい。心は、まだ来なくていい」


 よく、わからなかった。


 でも、坂田さんの声は、嘘をついている声じゃなかった。


 ぼくは、壁のひびを見て、蹴った。


「……たのしい」


 棒読みだった。


 自分でも笑ってしまうくらい、平べったい声。


 戻ってくる。


 壁の一点を見て、軸足を決めて――足の裏の三点、内もも、尻の横――蹴る。


「たのしい」。


 戻る。


 蹴る。


「たのしい」。


 十回。


 二十回。


 目は、ずっと、蹴る先の一点。


 下を、見なかった。


 インサイドで蹴ると、足首の内側の、骨の出っぱったところに、ボールが当たる。


 そこで当てると、ボールは、まっすぐ転がる。


 坂田さんが、教えてくれた。


「面で押せ。つま先で、突くな」。


 ぼくは、足の内側の、平らな面を、意識した。


 たのしい、と言いながら、面で、押す。


 ボールが、すこしずつ、まっすぐに、なっていった。


 曲がらないボールは、ちゃんと、ぼくのところへ、帰ってくる。


 何回目だったか、わからない。


 ふいに、その言葉が、口より、ほんの少し先に出た気がした。


 蹴る前から、胸の浅いところが、すこし、あたたかくなっていた。


 棒読みのはずの「たのしい」に、ほんとうの「たのしい」が、ひとしずく、混じった。


 ボールが、まっすぐ、ぼくのところへ帰ってくる。


 誰も、消えろとは言わなかった。


 下手くそとも、言わなかった。


 ただ、ボールが、ぼくの足に、帰ってくるだけだった。


 蹴れば、帰ってくる。


 蹴れば、帰ってくる。


 それは、約束みたいだった。


 それが、すこし、楽しかった。


 気がつくと、ぼくは、汗をかいていた。


 息も、あがっていた。


 でも、いじめられて流す汗とも、走らされて流す汗とも、違った。


 自分から動いて、自分からかいた汗だった。


「お前、今、笑ってたぞ」と坂田さんが言った。


「……え」


「蹴りながら、笑ってた。気づいてないのか」


 ぼくは、自分の口に、手を当てた。


 ほんとうだ。


 口の端が、すこし、上がっていた。


 たのしい、と言いつづけたら、ほんとうに、顔が、たのしい、の形に、なっていた。


 心が、言葉のあとを、ちゃんと、追いついてきたんだ。


「いいぞ。もうひとつ、言ってみろ」と坂田さんが言った。


「じしん、だ。最後に一回だけ。じしん、って言いながら、蹴ってみろ」


 ぼくは、壁の一点を見た。


 軸足を決めた。


 蹴った。


「……」


 声が、出なかった。


「たのしい」は、棒読みでも言えた。


 なのに、「じしん」は、喉の途中で、つっかえて、出てこなかった。


 何度、口を開けても、その三文字だけは、空気にならなかった。


 自信。


 ぼくが、いていい、ってこと。


 ぼくが、いてもいい、って、思えること。


――消えろ、と言われたぼくには、それが、いちばん、遠かった。


 父さんは、ぼくがいても、いなくても、出ていった。


 チームのみんなは、ぼくがいないほうが、いい、と言った。


 母さんは、ぼくのことで、ため息をついては、すぐ、ごめんね、と謝った。


――ぼくが、ここにいて、いいんだ、と思える理由が、ぼくには、ひとつも、なかった。


 たのしい、は、ボールがあれば、言えた。


 でも、じしん、は、ぼく自身のことだ。


 ぼく自身を、いていい、と認める言葉だ。


 それが、いちばん、重かった。


 ぼくは、うつむいた。


 目が、また、足元に落ちた。


 やっぱり、ぼくには、向いてないんだ。


 坂田さんは、しばらく黙っていた。


 それから、静かに言った。


「言えないか」


「……すみません」


「謝るな」坂田さんは、組んでいた腕を、ほどいた。


「いいか。言えない言葉が、いちばん、欲しい言葉だ。お前が、いちばん欲しいものが、今、はっきりした。それだけで、今日は、上等だ。焦るな。じしん、は、たのしい、の、ずっとあとから来る。たのしい、を、千回言ったころに、ひょいと、出てくる」


 千回。


 ぼくは、心の中で、数えてみた。


 今日、何回、たのしい、と言っただろう。


 三十回くらいか。


 あと、九百七十回。


 気が遠くなる数だけど、なぜか、それなら、できそうな気が、した。


 一回ずつなら。


 一日ずつなら。


 明日も、あさっても、ここへ来て、たのしい、と言えば、いつか、千回に、なる。


 その言い方が、なんだか、慈恩という人と、似ていた。


 怒らない。


 慰めない。


 ただ、本当のことを、本当の重さで、置いていく。


 帰り道、人気のない路地で、ぼくは、立ち止まった。


 古本屋の、しまったシャッターの前。


 うつむきそうになって――やめた。


 ぼくは、顔を上げた。


 ビルの隙間の、せまい空に、一番星が、ひとつ、出ていた。


 いちばん遠い、ひとつの点。


 ゆうべ、慈恩さんと見たのと、おなじ星かもしれなかった。


 その点を、見て、ぼくは、小さく口を開けた。


「……じしん」


 言えた。


 声は、みっともなく震えていたけど、それでも、半分くらいは、ちゃんと、言えた。


 下を見ずに。


 遠くの、ひとつの点を、見ながら。


 誰にも、聞かれなかった。


 でも、ぼくは、自分の声で、それを聞いた。


 それで、じゅうぶんな気が、した。


 半分でも、昨日より、半分、進んだ。

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