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燃えカスの守り人  作者: K3
海斗日本滞在中

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閑話② 鼻で四つ、口で六つ


 隣町のビルは、古かった。


 エレベーターがなくて、ぼくは階段を三階までのぼった。


 一段ごとに、引き返そうか、と思った。


 すりガラスのドアに、白い字で、Sakata Performance Lab。


 読めない横文字を、しばらく見ていた。


 ノックすると、中から「開いてる」と低い声がした。


 広くない部屋だった。


 鏡が一面。


 床にゴムのマット。


 壁のラックに、重さの違う鉄の球が、大きい順に並んでいる。


 汗と、ゴムと、消毒液の匂い。


 窓の外には、隣町の駅と、ビルの影と、沈みかけた陽。


 その人は、鏡の前に立っていた。


 四十くらい。


 ジャージ。


 背は高くないけど、肩から腕にかけて、服の上からでも、ぎっしり詰まっているのがわかった。


 手が、大きかった。


 指の節が、太かった。


 長いあいだ、何かを教えてきた手だ、と思った。


 ぼくが脇に抱えたボールを見て、坂田さんは言った。


「それは、隅に置いとけ。今日は、蹴らない。立つ。それだけだ」


「……立つ、だけ?」


「立つ、だけだ」


 寡黙な人だった。


 言葉が、必要な分しか出てこない。


 ぼくはボールを隅に置いて、マットに立った。


「片足で立て。右でいい」


 ぼくは右足だけで立った。


 すぐ、ぐらついた。


 三秒も保たない。


 左足が、ぱっと床についてしまう。


 もう一度。


 やっぱり、保たない。


「ほら。お前、自分がどこで立ってるか、知らないだろう」


 知らない、と思った。


 立つなんて、生まれてから一度も、考えたことがなかった。


 考えてみれば、ぼくは、自分の身体のことを、何も知らなかった。


 手も、足も、ずっと、ぼくの言うことを聞かない、できの悪い道具みたいに、思っていた。


 走れと言っても遅いし、蹴れと言っても曲がる。


 だから、嫌いだった。


 自分の身体が、いちばん、ぼくの邪魔をする、敵みたいだった。


「まず、息を直す」と坂田さんは言った。


「鼻から、四つ数えて吸う。口から、六つ数えて吐く。吐くほうを、長く」


 鼻から、いち、に、さん、し。


 口から、いち、に、さん――途中で乱れた。


 さっきの試合のことを、身体が勝手に思い出して、胸が浅くなる。


 手が震えた。


「焦るな。数だけ数えてろ。試合は、今、ここにない」


 もう一度。


 鼻で四つ。


 口で六つ。


 三度目で、部屋の音が遠くなった。


 窓の外の、電車の音と、自分の息だけになった。


 震えが、止まった。


「人間は、吐くときに、ゆるむ。だから吐くほうを長くする。試合で固くなったら、それを思い出せ」


 ぼくは、すこし、驚いていた。


 サッカーを習いに来たのに、まだ、息のことしか、していない。


 でも坂田さんの言うことは、なぜか、聞いていたくなる声だった。


「もう一回、立て」と坂田さんは言った。


「今度は、目だ。どこか、動かない一点を、決めて、そこから目を、離すな」


 点。


――ぼくは、ゆうべの公園を思い出した。


 慈恩という人も、点の話をしていた。


 いちばん遠い一点を見ろ、と。


 心の点と、身体の点。


 べつべつの人が、おなじことを、言っている。


 ぼくは、正面の壁の、ネジの頭を、一点に決めた。


 そこだけを、見た。


 ぐらつきが、半分になった。


「人間はな、目で立ってる」と坂田さんは言った。


「目が泳ぐと、身体も泳ぐ。一点を見てれば、身体は、その点を軸に、勝手に静まる」


 ほんとうだった。


 目を、ネジから離して、きょろきょろすると、すぐ揺れる。


 点に戻すと、また、静まる。


 目と、身体が、糸で、つながっているみたいだった。


「その上で、今度は、身体の中を見ろ」


 坂田さんは、自分の足の裏を、指さした。


「足の裏に、三つ、点がある。親指の付け根。小指の付け根。かかと。その三角で、地面を踏め」


 言われて、足の裏に意識を落とした。


 今までただの足の裏だったところに、三つの点が浮かんで、体重の乗り方が、急にはっきりした。


 さっきまで、かかとだけに、乗っていたのがわかった。


「指で、地面を、軽く掴め」


 足の指に、ぐ、と力を入れる。


 揺れが、また半分に。


「ふくらはぎ。ここが、今、働いてる」坂田さんは自分のふくらはぎを、ぽん、と叩いた。


 ぼくも意識した。


 ぴくぴくと、細かく動いて、ぼくを支えていた。


 今まで、一度も、ありがとうと言ったことのない場所が。


「上。内もも。膝が内に倒れないように、内ももが引っぱってる」坂田さんが、ぼくの右膝の内側に、太い指を、軽く当てた。


「ここを、閉じる。膝は、まっすぐ前」


 内ももに、力が通る。


 揺れが、また半分に。


「いちばん奥。尻の横。片足のときは、ここが骨盤を水平に保ってる。眠ってると、お前は一生ぐらつく」


 お尻の横。


 そんなところに筋肉があることも、知らなかった。


 意識を向けると、たしかに、そこが固く張って、ぼくをまっすぐ立たせていた。


 目は、壁のネジ。


 足の裏の三点。


 ふくらはぎ。


 内もも。


 尻の横。


 外の一点と、中の四つの点。


 それが、いっぺんに、つながった。


 ばらばらだった脚が、一本の柱になった。


 ぼくは、十秒、揺れずに立っていた。


 生まれて初めて、自分の足で、ちゃんと、立った気がした。


「もう一回。今度は、左足だ」


 ぼくは、左足で立った。


 また、ぐらついた。


 でも、外の一点を決めて、足の裏の三点を踏んで、内ももを閉じて、尻の横を固める。


 順番に、ひとつずつ。


 さっきより、早く、柱になった。


 身体は、一度わかった場所を、ちゃんと、覚えていた。


「右と左で、ぐらつき方が、違うだろう」と坂田さんは言った。


「お前の身体は、左右で、別々のことを、覚えてる。どっちが楽をしてるか、自分で、わかるようになれ。それが、感じる、ってことだ」


「いいぞ」坂田さんは、それだけ言った。


 けど、その「いいぞ」は、なぜか、胸の真ん中に、落ちた。


「お前は、身体が悪いんじゃない。見る場所と、使う場所を、知らなかっただけだ。場所さえわかれば、身体は、ちゃんと働く。試合も、同じだ」


 ぼくは、自分の右足を見た。


 下手で、遅くて、嫌いだった脚。


 それが今、外の点と、中の点で、ぼくをまっすぐ立たせていた。


「身体は、追い込んでるときには強くならん。強くなるのは、休んでるときと――」坂田さんは、ぼくの足の裏を指した。


「自分の身体を、ちゃんと感じてるときだ。覚えとけ」


 神宝町に帰り着いたのは、夕方だった。


 陽菜を迎えに行く前に、ぼくは、いつもの公園に寄った。


 ツツジの茂みの裏、いつもの縁石。


 誰もいない。


 ぼくは、立った。


 右足だけで。


 目を、いちばん遠い街灯の一点に。


 足の裏に、三つの点。


 指で掴む。


 ふくらはぎ。


 内もも。


 尻の横。


 鼻から、いち、に、さん、し。


 口から、ゆっくり、六つ。


 揺れなかった。


 そのとき、茂みの奥で、葉っぱが、かさ、と鳴った。


 植え込みの陰から、小さな女の子が、こっちをのぞいていた。


 六歳くらい。


 よく日に焼けた、まるい頬。


 ぼくと目が合うと、慌てて葉の裏に隠れて、それから、こっそり、鼻から、いち、に、さん、し、と息を吸う真似をした。


 口から、ゆっくり、吐く。


 ちゃんと、吐くほうを、長く。


 ぼくは、なんだか、笑ってしまった。


 久しぶりに、笑った気がした。


「見てた?」と、ぼくは訊いた。


 女の子は、返事をしなかった。


 でも、葉っぱの陰で、こくん、と、うなずいたのが、わかった。


 その子は、それから、葉っぱのあいだから、まるい目だけ、出して、ぼくが帰るまで、ずっと、見ていた。


 誰かに見られるのは、こわいことのはずだった。


 なのに、その子の目は、こわくなかった。


 下手くそ、とも、消えろ、とも、言わない目だった。


 ただ、ぼくが立つのを、見ていてくれる、目だった。


 そういう目も、世の中には、あるんだ、と思った。


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