閑話① やめる、って言ったのに
一端没にしたものをブラッシュアップしました。
心が少し疲れている人や、毎日がしんどいと感じている人は、よかったら試してみてください。
公園のいちばん奥は、誰も来ない。
ツツジの茂みの裏に、低い縁石がある。
ぼくはそこに座って、ボールを膝の上に乗せていた。
蹴らなかった。
もう、蹴る理由がなかったから。
ぼくは、ずっと、地面を見ていた。
アスファルトのひび割れ。
蟻の行列。
自分のスパイクの、白く擦り切れたつま先。
――顔を上げるのが、こわかった。
顔を上げれば、誰かの目とぶつかる。
その目がまた、下手くそ、と言う気がして。
だからぼくは、いつも、足元の、おなじ一点だけを見ていた。
四日前のことだった。
区の大会の、一回戦。
ぼくのパスミスから、点を取られて、負けた。
試合のあと、体育館の裏に呼ばれた。
おなじチームの、三人。
下手くそ。
お前がいると負ける。
消えろ。
――言い返さなかった。
言い返す言葉を、ぼくは持っていなかった。
ボールを蹴る足が、その日から、鉛みたいに、重くなった。
神宝町は、古い本屋ばかりの町だ。
坂をのぼれば大学があって、路地のどこにでも、紙とインクの、少し饐えた匂いがしている。
ぼくのひいじいさんは漁師だったと、いつか母さんが言っていた。
けどそれは、ずっと昔の、海辺の、別の町の話だ。
海なんて、ぼくは写真でしか見たことがない。
今のぼくにあるのは、この狭い町と、擦り切れたスパイクのつま先だけだった。
家に帰って、母さんに、もう、サッカー、やめる、と言った。
母さんは昼の会社から帰って、夜の定食屋に出る前の、いちばん疲れた顔で、うん、とだけ言った。
引き止めもしなかった。
たぶん、引き止める余裕も、なかった。
父さんは、ぼくが小さいころ、借金だけを残して、いなくなった。
今どこにいるのかも知らない。
だから家の灯りを消さないようにするのが、ぼくの役目だ。
朝は、ぼくが陽菜を学童に送っていく。
五歳の手は、ぼくの指を、三本だけ、ぎゅっと握る。
横断歩道で、ちゃんと止まる。
翼の、小学校の上履きも、ぼくが洗う。
長男だから。
だから、ぼくが燃えていようが、いまいが、本当は、どっちでもよかった。
誰も、ぼくのサッカーなんて、見ていない。
昔は、好きだった。
ボールを蹴ると、身体の中の、重たいものが、ぜんぶ、足の先から、抜けていく気がした。
父さんがいなくなった日も、母さんが二つめの仕事を始めた日も、ぼくは、暗くなるまで、壁にボールを蹴っていた。
そうしないと、立っていられなかったから。
――でも、いつからか、ボールは、ぼくを、楽にしてくれなくなった。
蹴るたびに、下手くそ、という声が、ついてくるようになった。
好きだったものが、いちばん、こわいものに、なった。
燃えカス、と、ぼくは自分につけた。
火が消えたあとの、黒い、軽い、踏むと崩れるやつ。
ぼくはそれだ。
もう、灰だ。
「――その点じゃ、ない」
声がして、ぼくは顔を上げた。
知らない大人が立っていた。
痩せて、背の高い男の人。
ぼくの目を、まっすぐ見ていた。
「君、さっきから、足元の、おなじところばかり、見てるね」
図星だったから、ぼくは黙った。
男は縁石の、ぼくの隣に腰を下ろした。
膝に肘をついて、ぼくとおなじ高さに、目線を落として。
「ぼくはね、相談屋なんです。人の中身を、観る仕事です」
観る。
変な言い方だと思った。
「目を、上げてごらん。……むこうの、街灯。いちばん遠い、あの一点。そこだけを、見ていなさい」
ぼくは、顔を上げた。
路地の奥の、ともったばかりの街灯。
その光の点を、見た。
胸の中で、ぐるぐる回っていた何かが、すこし、止まった。
下手くそ、消えろ、負ける――ばらばらに渦巻いていた声が、その一点に吸い込まれるみたいに、静かになった。
「ね。すこし、楽になったろう」
なってた。
なんで、と思った。
ただ、遠くの、ひとつの光を、見ただけなのに。
「人の心はね、目のいくところに、ついていくんです。ばらばらの方を見れば、心も、ばらばらになる。ひとつの点を決めて、そこを見れば、心も、ひとつに戻る。――今のが、君を、楽にする点です。覚えておきなさい」
「もうひとつ、やってみようか」と男は言った。
「目を、ゆっくり、右から左へ、動かしてごらん。急がなくていい」
ぼくは、言われたとおり、ゆっくり目を動かした。
公園の木。
ベンチ。
砂場。
――と、左の、すべり台のあたりで、ふいに、胸が、ぎゅっと、苦しくなった。
体育館の裏の景色が、なぜか、そこに重なって見えた。
三人の、笑った顔。
「……そこ」と男は、静かに言った。
「今、苦しくなった。顔に、出たよ」
ぼくは、びっくりして、男を見た。
なんで、わかるんだろう。
ぼくは、何も、言っていないのに。
「見る場所で、感じることが、変わる。苦しくなる点が、人には、ある。君は、ずっと、その点ばかり見てきた。胸の中の、いちばん苦しい景色を。――だから、自分を、灰だと、思い込んだ」
灰。
また、心の中だけの言葉を、当てられた。
「逃げなくて、いい」と男は言った。
「その点は、消さなくていい。消そうとするほど、こびりつく。ただ、ひとりで見つめるのが、つらいだけなんです。だれかが隣にいて、いっしょに見れば、苦しい点は、すこしずつ、ゆるむ。……今、ぼくが、隣にいる。もう一度、さっきのところを、見てごらん」
ぼくは、もう一度、すべり台のあたりを見た。
胸は、まだ苦しかった。
でも、さっきより、ほんのすこし、息ができた。
隣に、だれかがいる、というだけで。
逃げずに、見ていられた。
それは、四日ぶりの、ことだった。
ぼくは、ふしぎだった。
さっきまで、こんなに近くにあった苦しさが、見る場所を、ほんの少し、ずらしただけで、こんなに、軽くなるなんて。
胸の景色は、何も、変わっていない。
変わったのは、ぼくの、目の、向きだけだった。
男は、ぼくのボールを見て、それから、ぼくの脚を見た。
「君の中身は、灰じゃない。――それに、海の匂いがする」
ぼくは、びくっとした。
「ひいじいさんが、漁師だったろう。血は、町を出ても、残るんですよ。海を見たことが、なくても、ね」
それから男は、ふ、と息を抜くように笑った。
「ね、お兄さん。君、まだ、本気で、やってないでしょう」
心臓を、指で押されたみたいだった。
本気を出して、それでもダメだったら――そう思うと、こわくて、ぼくは、いつも、半分だけ、力を抜いていた。
出し切る前に、やめれば、灰にならずに、すむと思って。
「いい目だ。逃げてる人間の目は、もっと濁ってる。君のは、ただ、行き先と――見る場所を、知らないだけです」
そして立ち上がった。
「隣町に、ビルがある。三階に、坂田さんという人がいます。元は海の向こうで、選手の身体を作っていた人だ。明日、行きなさい。彼が教えるのは、自分の身体の、感じ方です。――どこの筋肉で立つか。君は、見る場所も、立つ場所も、知らないまま、自分を振り回してきた。ひとつずつ、覚えればいい」
「ぼくの名前は、慈恩。じおん、です。また、会いますよ」
男は背を向けて、夕暮れの路地のほうへ歩いていった。
古本の匂いの中を、迷いもせずに。
立ち上がった。
夕方だ。
陽菜を、迎えに行かなきゃいけない。
公園を出る前に、ぼくは、もう一度、空を見上げた。
いちばん遠い、ひとつの点を、探して。
一番星が、ひとつ、出ていた。
その光を、見た。
胸の、ぐるぐるが、また、すこし、静かになった。
蹴らなかった。
でも、明日、ビルの三階に、行ってみよう、と思った。
灰のままでもいい。
灰のまま、ただ、一段だけ、階段をのぼってみるだけ。
ぼくは、足元じゃなく、まっすぐ前を見て、歩きだした。
noteを始めてみました。
https://note.com/happy_duck8972/n/na7b1e6aeb287
といっても新しいことを書いているわけではなく、これまでに書いた作品や文章を少しずつ載せているだけです。
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