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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
歌う男は、死の淵を歩いた人

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第36話 夏のなか、ちーちゃん(22)

時間ができた時にも随時更新します!


ぜひお楽しみに!


それでは、本編をお楽しみください。

 ——お疲れさま。


 そんな感じで。


 中野のおじさんと裕子さんは、こちらには来なかった。


 美月が眠っているうちに、静かに帰るつもりなんだろう。


 遠くから見守る人たち。


 大人の距離感。


 その距離が、なんだかあたたかい。


 でも——


 後ろが、なんだか騒がしい。


 振り向くと、ロビーのあたりに人が増えていた。


 スーツ姿。


 革ジャン。


 眼鏡。


 スカーフ。


 男の人も女の人もいて、みんな名刺を片手にしている。


 ——え?


 観客は二十人くらいだったはずなのに。


「ライブ終わってから、外から入ってきた人たちですよ」


 慈恩さんが、穏やかに言った。


「外?」


「ええ。業界の人たち。噂を聞きつけて来たみたいです」


「噂……もう?」


「お兄さんのライブ、最初の十分で。外で聴いてた誰かが、きっと電話したんですよ」


「えっ?」


「ヤバい新人が出た。今すぐ来い、って」


「えええ」


 ロビーは、さっきまでと別の場所みたいになっていた。


 狭い入口に、大人たちが押し寄せている。


 目が、みんな違う。


 さっきの観客みたいに、歌を聴いていた目じゃない。


 値段をつけようとしている目だった。


「あ、お兄さん、こちら来ますね」


 慈恩さんが糸目のまま、翔太さんをそっと前に立たせた。


 群衆の方を向いて、ふわりと笑う。


 いらっしゃい、という感じの笑顔。


「SHOさん、はじめまして。○○レコードの——」


「僕、△△エンタテインメントの——」


「すごいライブでした。ぜひ、うちで契約を——」


「あの田舎っぽい感じ、消せばもっと売れますよ」


「ロック色を強くしたほうがいい」


「いや、Jポップ寄りのメロディにですね」


「海難事故の話は重いので、もっと明るく」


「ギターも新しいのを買って、映える感じで」


「全部プロデュースします。こちら契約書です」


 名刺の洪水だった。


 翔太さんの両手が、名刺で埋まっていく。


 目が回りそうになる。


 翔太さんが、困ったように慈恩さんを見た。


 慈恩さんは、にこっと笑った。


「皆さん」


 声のトーンが、少し落ちる。


「お兄さん、ぼくが業務委託で預かってますんで。お話は、ぼくに通してください」


 群衆が、次々に名刺を差し出す。


 慈恩さんはすべて受け取り、静かに、一呼吸おいた。


 そして。


 笑顔を消した。


 糸目が、開く。


 獣のような眼差し。


 一瞬、空気が凍った。


 低い声で、言う。


「お兄さんは、変えません」


 沈黙。


「田舎くささ、消しません」


「ギター、替えません」


「歌詞、変えません」


「メロディ、変えません」


「皆さんの話、聞きません」


 静寂が落ちた。


「お兄さんは、お兄さんのままで、世界に出ます」


 その一言で、誰も言葉を続けられなくなった。


「だから、変えようとする契約は、すべて断ります」


 慈恩さんは、ふたたび糸目に戻った。


「めんどくさいんで」


 ふわっと笑う。


「皆さん、お疲れさまでした」


 群衆がざわめき、少しずつ引いていった。


「ヤバい、あの人、何者?」


「社長でも勝てないタイプだ」


 そんな声が、遠くに聞こえた。


 慈恩さんは、百人近い大人たちを、一瞬で抑えた。


 剣道でいえば、大将戦を、一人で制したようなもの。


「お兄さん、大丈夫?」


「あ、はい」


「ぼく、こういうの嫌いなんで、全部追っ払いました」


「ありがとうございます」


「はい」


 そのとき、最後尾に、ひとりだけ残っている人がいた。


 四十代くらいかと思ったけれど、違う。


 二十代半ばくらい。


 ジーンズに、白シャツ。


 中肉中背で、髪はやや長め。


 センスのいい服装。


 関西風の、軽やかな雰囲気。


 静かに佇んで、ステージを見つめている。


「あ、その人だけ別ですよ」


 慈恩さんが、また笑った。


 ——え。


 別、って。


 慈恩さん、知ってる人なんだ。


 そう思った瞬間、その若い男の人がふっと顔を上げた。


 そして、慈恩さんに向かって軽く手を上げた。


「先輩!」


 ——え。


 先輩?


 慈恩さんに、先輩って呼ぶ人?


 慈恩さんが、糸目のままふっと笑った。


「海、来てくれましたね」


 ——海。


 その人の名前。


 朝日海、というらしい。


 その人は、軽く頭を下げた。


 関西風の、軽やかなお辞儀。


「翔太さん、はじめまして。朝日海です」


「あ、はじめまして。三浦翔太です」


「Tide Recordsっていう、新しいレーベルを立ち上げました」


「Tide……?」


「潮、です。先輩との出会いの場所が、海のある国だったので」


 ——海のある国?


 朝日さんは、ふっと笑った。


「SHOさんの歌、最初の十秒で惚れました」


「えええ、十秒?」


「歌ですから。十秒で、ぜんぶわかります」


 朝日さんの言い方は、慈恩さんにちょっとだけ似ていた。


 なんとなく、わかった。


 この人と慈恩さんは、似た種類の本物だ。


「翔太さん、契約のお話は、後日、先輩の事務所で」


「は、はい」


「楽しみにしております」


 朝日さんは、もう一度、関西風の軽いお辞儀をして、ふらりと出口の方へ歩いていった。


 なんか、慈恩さんと違って軽やかな大人。


 でも、慈恩さんと同じで、ただ者じゃない感じがする。


「お兄さん」


 慈恩さんが、糸目でにこっと笑った。


「あの人、ぼくの古い友人です」


「は、はい」


「あの人なら、信じてもいいですよ」


「うん」


「後日、ちゃんと話しましょうか」


「はい」


 慈恩さんは、最初から、あの人を選んでいた。


 百人の中の、一人。


 でも、それは後で知ることになる。


 ライブハウスを出ると、夜はもう深く沈んでいた。


 お盆明けの風は、ほんの少しだけ涼しい。


「ちーちゃん、家まで送ります」


「あ、ありがとうございます」


 慈恩さんと、わたしと、翔太さんは、夜の新宿を並んで歩いた。


 ネオンはまだ明るいのに、どこか夏の終わりの匂いがしていた。


「ちーちゃん」


「はい?」


「ありがとうございます」


「え?」


「ちーちゃんが来てくれたから、お兄さん、本気の歌を歌えたんだと思いますよ」


「えええ、わたし、全然なにもしてないですよ」


「ちーちゃんがいるってこと、それだけで、お兄さんは力をもらえたんです」


「えええ」


 隣で、翔太さんが静かに頷いた。


「慈恩さんの言ってること、わかるよ」


「え?」


「俺、ステージでちーちゃんの顔見えた瞬間、肩の力抜けた」


「なんで……?」


「ちーちゃんってさ。俺のこと、全部知ってる人だから」


「うん」


「酔いつぶれた夜も、全部」


「うん」


「俺が吐き出したことも、全部」


「うん」


「ギター取り戻した瞬間も見てたし、契約した夜も立ち会ってた」


「うん」


「ちーちゃん、俺の夏を全部知ってる人なんだよ」


 翔太さんは、そこで少しだけ目を潤ませた。


「だから、ちーちゃんが見てる場所で、俺、歌えたんだ」


 胸の奥が、ふっと温かくなる。


「お兄さん、感動してますね」


 慈恩さんが、糸目のままにこっと笑った。


「俺、感動してる」


「はい」


「慈恩さん、俺の人生変えてくれた人」


「はい」


「ちーちゃん、俺の夏を見届けてくれた人」


 わたしは、ぐっと頷いた。


 翔太さんが、こんなふうに言ってくれるなんて。


 夏は、まだ続いている。


 でも、もう終わりの気配も見えていた。


 その終わりへ向かいながら、わたしたちは、それぞれの夏を生きている。


 そんな気がした。


 家に着いた。


 神宝町の、どこにでもある普通の家。


 慈恩さんと翔太さんは、玄関の前まで送ってくれた。


「あ、ちーちゃん、お疲れさま」


「ありがとうございます」


「明日も夏期講習?」


「うん」


「あんまり無理しないで」


「うん」


「じゃ、また」


 二人は夜の神宝町を並んで歩き、闇の向こうへ消えていった。


 わたしは、しばらく慈恩さんの背中を見つめていた。


 いつものように、だらっと力の抜けた歩き方。


 でも、わたしは知っている。


 あの気の抜けた雰囲気の奥で、慈恩さんは世界を変えている。


 一人ずつ、人生を救いながら。


 わたしは、その瞬間に、立ち会わせてもらった一人だった。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


notoやってます。

マガジンお仕事物

https://note.com/happy_duck8972/m/m87f735c2539e


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