第34話 夏のなか、ちーちゃん(24)
——わたしは、その瞬間に、立ち会わせてもらった一人だった。
そう思いながら、玄関のドアを開ける。
「あら、ちーちゃん、お帰りー」
「ただいまー」
「お風呂、沸いてるよ」
「ありがとう」
いつも通りの夜。
だけど、わたしの中では、特別な夜だった。
そんなことを思いながら、わたしは風呂場へ向かった。
数日後。
夏期講習の最終日を終えた夕方、わたしはまた、NAKANOに立ち寄った。
慈恩さんは、いつもの席で、アースクエイクをちびちび飲んでいる。
翔太さんは奥で、皿を拭きながら、鼻歌を歌っていた。
また、新しいメロディだった。
わたしは、慈恩さんの隣に腰を下ろした。
「あ、ちーちゃん、お疲れさまでした。夏期講習」
「うん、終わりました」
「ちーちゃんに、ちょっと、報告がありまして」
「報告?」
慈恩さんは、にこっと笑った。
「あのライブの夜、覚えてますか」
「もちろん」
「あの群衆、百人くらいいたじゃないですか」
「うん」
「あれ、本当はお兄さんを見に来た人たちじゃ、なかったんです」
「え?」
ライブの最後に出ていた、メインバンド。
そのボーカルには、有名な芸能人の知り合いがいたらしい。
その人が業界関係者に声をかけ、大勢を集めていたのだという。
「『うちのバンド、本気で売り出すから、見に来てほしい』って、ことで」
「へえ……」
「で、業界の人たち、その顔を立てて、集まったんです」
つまり、あの百人は——翔太さんを見に来ていたわけじゃ、ない。
「お兄さん、ただの前座だったんで、誰も気にしてなかったんですよ」
「えええ」
「普通、前座って、お客さん、お酒飲みながら、ぼーっと流し聞きするレベルですから」
でも、と慈恩さんは、続けた。
「お兄さんの歌、始まった瞬間、空気変わったでしょう」
「……うん」
「あの百人、全部、お兄さんに引き込まれたんです」
メインバンドを見に来ていたはずの人たちが、気づけば全員、翔太さんを見ていた。
ライブが終わる頃には、業界関係者が一斉に群がっていた。
——前座なのに。
主役を、全部、持っていったんだ。
「で、みんな急に欲、出したわけです。"自分の事務所に欲しい"って」
「えええ……」
「メインバンド置き去りで」
思わず、苦笑いが漏れる。
少しかわいそうだ。
でも、業界って、きっと、そういう場所なんだろう。
お金になるものへ、一気に流れていく。
「で、ぼく、群衆見た瞬間、ピンときたんです」
「ピンと?」
「こんな普通のライブハウスの前座に、業界人百人も来るわけ、ない、って」
そこで慈恩さんは、本来の目的が別にあることを察した。
そして、群がる人たちから翔太さんを遠ざけ、本当に信用できる一人だけを選んだ。
「あの、海さん」
「うん」
「百人の一番後ろで、ぽつんと立ってたんですよ」
「うん」
「他の人たち、お金の匂いで群がってたけど。海さんだけ、ちゃんと、歌を聞いてた」
「……」
「お兄さんの値打ちを、本気で見抜いた人だったんです」
百人の中で、たった一人。
慈恩さんは、それを一瞬で見抜いた。
——いや、違う。
慈恩さんは、最初から、海さんを呼んでいた。
「良かったら、聞いてみて」って。
——百人の中で、海さんだけが、本物だってこと。
慈恩さん、最初から、知ってた。
剣道でいう"起こり"を読む感覚に、似ている。
ほんのわずかな空気の違いで、本物と偽物を見分ける。
「慈恩さん」
「はい?」
「すごいですね」
「いや。めんどくさいの嫌いなんで、目利きしないと、余計めんどくさいんですよ」
——絶対、嘘だ。
この人は、本気で、人を見ている。
「はい。頼られすぎると、めんどくさいんで、ぼく、ちゃんとやりますよ」
そんなふうに軽く笑いながら、結局、ちゃんと守る人なのだ。
わたしは、奥で鼻歌を歌う翔太さんを見た。
業界の汚さを知っても、それでも、歌い続けている。
慈恩さんが守ってくれると、信じているから。
そして、わたしは、それを見届けている。
「ちーちゃん」
「うん」
「世の中って、けっこう、大人ぐちゃぐちゃなんですよ」
「うん」
「ちーちゃん、十四なのに、それ見ちゃってるんで、ちょっと、申し訳ない気もします」
わたしは、首を横に振った。
「わたし、見れて、よかったです」
「……そうですか」
「だって、慈恩さん、これからそれと、毎日戦うんでしょ」
慈恩さんが、ほんの少しだけ目を開いた気がした。
「知らないまま見るより、知ってて見てたほうが、いい」
しばらく、沈黙が落ちる。
そして慈恩さんは、静かに笑った。
「ちーちゃん」
「うん」
「ありがとうございます」
わたしも、小さく、頷いた。
——ああ。
わたしたち、また少し、深いところで、繋がったんだ。
そんな気がした。
奥では、翔太さんが、また新しいメロディを口ずさんでいる。
夏の夕方のNAKANO。
その時間は、静かに続いていった。
布団の中で、わたしは、考えていた。
夏は、もうすぐ終わる。
夏期講習も終わった。
夏休みも、半分過ぎた。
なのに、もう全部終わってしまったような気も、する。
翔太さんのライブを見届けて、わたしの夏は、頂点を越えた気がした。
これからは、ゆっくり終わりへ向かっていく。
翔太さんは、本格的に、活動を始める。
慈恩さんは、また、出張が増える。
わたしは神宝町の中学へ戻り、剣道部の部長を続ける。
でも、この夏は、きっと、人生で一番大事な夏になった。
なぜだろう。
慈恩さんと、翔太さんと、過ごしたからだろうか。
慈恩さんの本気の目を、見たからだろうか。
翔太さんの歌を、最初に聞いた人に、なれたからだろうか。
たぶん、全部だ。
外では、まだ、セミが鳴いていた。
でも時々、その声が、ふっと止む。
虫の声が、混ざり始めている。
——夏の終わりの音だった。
わたしは、目を閉じる。
夏は、終わる。
でも、わたしの夏は、きっと、終わらない。
翔太さんが世界へ出ても。
慈恩さんが遠くへ行っても。
わたしが少しずつ大人になっても。
この夏だけは、ずっと、心の中で続いていく。
そんな確信が、あった。




