第33話 夏のなか、ちーちゃん(19)
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
わたしは、写真を撮っただけのつもりだった。
翔太さんが名前を書くところ。
中野のおじさんが証人欄に名前を書くところ。
ただ、それをカメラで撮っただけ。
でも、慈恩さんは言った。
「ちーちゃん、いい立会人です」
「……え」
わたし、立会人?
十四歳なのに?
「ちーちゃん、書面に名前は書かないですけど」
慈恩さんは、糸目のまま言った。
「写真を撮った、っていう事実。それが、立ち会った証拠になるんですよ」
「……」
「だから、ちーちゃんがここにいるってこと。ぼくにとって、すごく大事なんです」
あ。
慈恩さん、これが言いたかったのか。
ちーちゃんに見ててもらいたいんですよ、って。
あれには、ちゃんと意味があった。
わたしの、十四歳の立ち会い。
慈恩さんは、ちゃんと計算している。
でも。
それだけじゃない気もした。
気づかせ屋の慈恩さんが、わたしに任せた。
それは、たぶん。
信頼だった。
契約書の黒い文字を見ながら、わたしは思う。
契約って、お金だけじゃないんだ。
この人なら信じる、という約束で。
この人は信じてもらえる、というしるしなんだ。
「慈恩、これでいいか?」
「ええ、ありがとうございます」
中野のおじさんが、契約書を慈恩さんに戻した。
「お兄さん、やってこい」
「はい」
「慈恩、お前も、しっかりな」
「はい」
中野のおじさんは、カウンター越しに、ぐっと翔太さんの肩を叩いた。
そして、またグラスを磨きはじめる。
慈恩さんが、書類をまとめた。
その手つきは、いつもより少しだけ丁寧だった。
「あ、お兄さん」
「はい?」
「最後にひとつだけ、約束しておきましょうか」
「約束?」
「契約書には書かない約束です」
店の空気が、少し静かになる。
慈恩さんが、糸目で翔太さんを見た。
「お兄さん、これから、いろんな人が寄ってきますよ」
「うん」
「お前の田舎くさいところを消せ、って、また言う人が出てきます」
「……うん」
「新しいギターを買え、って言う人も出てきます」
「うん」
「その髪を切れ、って言う人も出てきます」
「うん」
「ぼく、ひとつ約束してほしいんです」
「うん」
「ぜんぶ、無視でお願いします」
「えええ?」
「はい。ぜんぶ無視で」
翔太さんが、思わず笑った。
「慈恩さん、それ、業界で生きていけます?」
「生きていけますよ」
「ほんとに?」
「お兄さんのファンが、たぶん世界中でいっぱいできますから」
「えええ」
「だから、業界の変な人は、無視でいいんです」
「マジで、ですか」
「ええ」
慈恩さんの声が、少しだけ低くなった。
「お兄さんの根っこ、そこなんで」
店の空気が、また静かになる。
「根っこを切ったら、お兄さんの歌、死にます」
わたしは、慈恩さんを見ていた。
慈恩さんは、たぶん全部わかっている。
翔太さんがレーベルの人に言われたこと。
田舎くさいと言われたこと。
古いギターを買い替えろと言われたこと。
それを、今ここで全部否定している。
ぼくは、お兄さんの根っこを信じてる。
そう言っている。
——あ。
わたし、また慈恩さんを好きになった。
でも、それは口に出さない。
絶対に。
翔太さんが、目を伏せた。
それから、小さく頷く。
「うん。約束する」
「はい、ありがとうございます」
「俺、ぜったい、変えない」
その返事は、前よりずっと強かった。
慈恩さんは、満足そうに頷くと、いつもの空気に戻った。
「あ、ちーちゃん、お腹減りました?」
「あ、はい」
「うどん、頼みましょうか」
「うん」
戻った。
いつもの、だるそうな慈恩さんに。
でも、わたしは知ってしまった。
あの人が本気で誰かを信じる時。
糸目の奥で、ちゃんと目を開けることを。
その夜。
事務所の奥の部屋で、翔太さんは一人、ギターを抱えていた。
薄暗い部屋。
窓の外では、まだセミが鳴いている。
翔太さんは、ベッドの端に座ったまま、契約のことを思い返していた。
慈恩さんの四割。
あれは、絶対に業界の相場じゃない。
東京で潰れかけた半年を思い出す。
原盤印税、一パーセント。
二パーセント。
夢を食わせて、骨まで削る契約。
そんなものばかり、見てきた。
なのに、慈恩さんは違った。
業界の相場を知らないふりをしていたけれど。
たぶん、全部わかっている。
わかっていて、翔太さんに有利な条件を出してきた。
慈恩さんが生活を回せるのは、別の依頼の収入があるから。
翔太さんの稼ぎは、慈恩さんの生活費じゃない。
翔太さんの稼ぎは、翔太さんのもの。
——慈恩さんは、本気で俺に勝たせる気だ。
——本気で、世界に出す気だ。
四割という数字は。
慈恩さんの、本気のしるしだった。
翔太さんは、ギターをもう一度抱えた。
絶対、応える。
あの人の四割を、絶対に稼ぐ。
そして、世界へ行く。
翔太さんは、コードをふっと押さえた。
ジャラーン。
部屋に、優しい音が響いた。
潮の匂いがした気がした。
遠い漁港の夕方。
祖父の背中。
酔っぱらって歌っていた父。
ぜんぶ、まだ自分の中にある。
——磯の匂い、まだする。
——じいさん、聞こえてるか。
——親父、聞こえてるか。
——ひいじいさん、聞こえてるか。
俺、戻ってきた。
もう、二度と売らない。
もう、二度と捨てない。
四代の思いを、ぜんぶ抱えて、世界へ行く。
翔太さんは、ぐっとギターを抱きしめた。
「……絶対、行く」
小さく呟く。
「世界」
ジャラーン。
音が、夏の夜に溶けていった。
その頃。
布団に入ったわたしは、天井を見ながらぼんやりしていた。
——今日、契約した。
翔太さん、これから本当に始まるんだ。
わたしは、その最初を見た。
胸が、少しだけ熱かった。
でも同時に、少し寂しかった。
翔太さんは、きっと遠くへ行く。
世界に行く。
わたしは、神宝町に残る。
そう思った時。
ふっと、別の顔が浮かんだ。
——でも、慈恩さんは、ここにいる。
思わず、自分で笑ってしまう。
なにそれ。
わたし、安心材料みたいに思ってる。
やばい。
でも。
なんか、安心する。
布団にもぐる。
窓の外では、まだセミが鳴いていた。
夏は、終わらない。
わたしの夏も。
翔太さんの歌も。
まだ、始まったばかりだった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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