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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
歌う男は、死の淵を歩いた人

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第32話 夏のなか、ちーちゃん(18)

時間ができた時にも随時更新します!


ぜひお楽しみに!


それでは、本編をお楽しみください。

 数日後。


 夏期講習が終わり、町にはお盆の空気が流れはじめていた。


 神宝町の商店街も、いつもより少し静かだった。


 東京は、お盆になると急に人が減る。


 みんな、帰省してしまうからだ。


 けれど、うちは代々この町に住んでいる。


 お盆だからって、特別どこかへ行くこともない。


 朝の稽古を終えたあと、わたしは汗だくの胴着を脱いで、シャワーを浴びた。


 髪を乾かしながら、鏡の前でぼんやり考える。


 ——今日、翔太さんと慈恩さん、契約するんだ。


 また、立ち会いに来てほしい、と言われた。


 慈恩さんは、いつも説明が足りない。


 来てください、とだけ言って、人を巻き込む。


 でも、不思議と断る気にはならない。


 理由がわからなくても、行ったほうがいい気がする。


 そう思わせる人だった。


 それに。


 翔太さんが、もう一度ちゃんと立つための約束なら。


 見ておきたい。


 わたしは白いTシャツに着替えて、NAKANOへ向かった。


 店の扉を開けると、昼前の薄いジャズが流れていた。


「いらっしゃ——あ、ちーちゃん」


 カウンターの奥から、裕子さんが笑う。


「こんにちは」


「慈恩さんと翔太くんなら、あそこ」


 視線を向けると、カウンター席に、二人が並んでいた。


 中野のおじさんは、その向こうでグラスを磨いている。


 翔太さんは、黒いTシャツにジーンズ。


 それだけなのに、前よりずっとちゃんとして見えた。


 髪を後ろで結んで、背筋を伸ばして座っている。


 前みたいな、どこか沈んだ空気がない。


 ——あ。


 翔太さん、戻ってきたんだ。


 ちゃんと、自分の芯のところに。


 慈恩さんは、相変わらずだった。


 糸みたいに細い目。


 だるそうな姿勢。


 アースクエイクをちびちび舐めるみたいに飲んでいる。


 けれど、その前には、きっちり書類が並べられていた。


「あ、ちーちゃん、来ましたね」


「こんにちは、慈恩さん」


「お兄さんの隣、座って」


「はい」


 少し高いカウンター椅子に、よじ登る。


 すると慈恩さんが、ふっと笑った。


「十四歳でカウンター席って、ちょっと不良っぽいですね」


「ええっ」


「冗談、冗談です」


 中野のおじさんが、わたしの前にオレンジジュースを置いた。


「ほら、未成年はこっちな」


「ありがとうございます」


 グラスが、カラン、と小さく鳴った。


 それから、わたしはカウンターの書類に目を落とした。


 きっちりした文字で、こう書かれていた。


『業務委託契約書』


 そして、もう一枚。


『金銭消費貸借契約書』


 ——貸借契約。


 あ、これ、おじいちゃんのところで見たことある。


 うちのおじいちゃんは、昔から変な教育をする。


「契約書は、大人になってから急に読むな。子どものうちから見慣れろ」


 そう言って、テナント契約だの管理契約だのを、たまにわたしに見せていた。


 だから、なんとなくわかる。


「契約、二本なんですね」


 わたしが言うと、慈恩さんが少し眉を上げた。


「ちーちゃん、ほんと変な中学生ですね」


「褒めてます?」


「褒めてます」


 翔太さんが、小さく笑った。


 その笑い方も、前より自然だった。


 慈恩さんは、書類を軽く叩いた。


「こっちは、ぼくとお兄さんの仕事の契約。もう一個は、この前の五十万の貸し付けですね」


 翔太さんが、真剣な顔で頷く。


「必ず、返します」


「はい。焦らなくていいですよ」


 軽い声。


 でも、その軽さが、逆に翔太さんを安心させているのがわかった。


 慈恩さんは、続ける。


「で、当面、お兄さんには、事務所の奥を使ってもらいます」


「……家賃、払います」


「いらないですよ」


「いや、でも」


「立て替え扱いでいいです。細かいこと気にしてると、歌う前に疲れちゃいますから」


 翔太さんは、言葉を失ったみたいに黙った。


「その代わり」


 慈恩さんは、糸目のまま書類を一枚めくる。


「仕事はしてもらいます」


「はい」


「まず、NAKANOの手伝い。皿洗い、配膳、閉店作業。これは中野のおじさんと裕子さんの指示に従ってください」


「はい」


「それから、ぼくの事務所の雑務。荷物運び、掃除、資料整理。たまに依頼現場についてきてもらうかもしれません」


「はい」


「あと、曲を作ること」


 翔太さんの顔が、少しだけ止まった。


「……それも、仕事ですか」


「仕事です」


 慈恩さんは、さらっと言った。


「お兄さん、歌で返すって言いましたよね」


「はい」


「なら、歌を作るのも仕事です」


「……」


「遊びじゃなくて、罰でもなくて、仕事として歌ってください」


 店の空気が、少し静かになった。


 翔太さんは、書類を見つめる。


 それから、小さく頷いた。


「……わかりました」


「よろしい」


 慈恩さんは、今度は金銭消費貸借契約書の方を指で叩いた。


「五十万は、無利息です」


「え」


「利息つけたら、ぼくが悪徳業者みたいじゃないですか」


「いや、でも」


「返済期限は、一応、三年」


「三年……」


「ただし、収入が安定するまでは猶予。焦って身体を壊したら意味ないので」


 翔太さんが、ゆっくり息を吐いた。


「……慈恩さん、甘すぎませんか」


「甘くないですよ」


 慈恩さんは、にこっと笑った。


「契約違反したら、怖いですよ」


 その瞬間。


 わたしは、楽器屋で見た慈恩さんの目を思い出した。


 糸目が開いた、あの本気の目。


 ——あ。


 これ、冗談じゃないやつだ。


 翔太さんも、たぶん同じことを思った。


 背筋が、少し伸びた。


「何が契約違反ですか」


「逃げること」


 慈恩さんは、静かに言った。


「お金から逃げるのは、まあ、まだいいです。ぼくが追いかけます」


「追いかけるんだ……」


「でも、歌から逃げるのは、なしです」


 翔太さんが、顔を上げた。


「歌いたくない日があるのはいい。書けない日があるのもいい。しんどい時は休んでいい」


「……」


「でも、自分を罰するために歌を捨てるのは、もう禁止です」


 翔太さんは、何も言わなかった。


 慈恩さんは、いつもの眠そうな顔で続ける。


「契約って、大人の約束です」


「……」


「紙に書いて、逃げ道を減らす。めんどくさいですけど、たまに人を助けます」


 わたしは、カウンターの上の書類を見た。


 白い紙。


 黒い文字。


 印鑑を押す場所。


 大人の約束って、こういう形になるんだ。


 それは、少し怖くて。


 でも、少しだけ、頼もしかった。


「ちーちゃん」


「あ、はい」


「読んでみます?」


「え、いいんですか」


「もちろん。立ち会いですから」


 書類を渡される。


 わたしは、ゆっくり読んだ。


 難しい言葉は多い。


 でも、全部が冷たいわけじゃない。


 その中に、ちゃんと慈恩さんらしい逃げ道があった。


 休んでいい。


 相談していい。


 無理に返さなくていい。


 でも、逃げるな。


 そう書いてあるような契約だった。


「……慈恩さん」


「はい」


「これ、やさしい契約ですね」


 慈恩さんは、少しだけ目を丸くした。


 それから、ふっと笑った。


「変なこと言いますね、ちーちゃん」


「そうですか?」


「でも、ありがとうございます」


 翔太さんは、書類を見ていた。


 しばらくして、ペンを取る。


「俺、やります」


「はい」


「働きます。返します。曲、作ります」


「ええ」


「歌います」


 その言葉だけ、少し震えていた。


 でも、逃げてはいなかった。


 翔太さんは、契約書に名前を書いた。


 ゆっくり。


 丁寧に。


 自分の名前を、もう一度取り戻すみたいに。


 慈恩さんも、隣に名前を書く。


 それから、印鑑を押した。


 ぽん。


 小さな音。


 でも、その音が、妙に大きく聞こえた。


「はい。成立です」


 慈恩さんが言った。


「お兄さん、これからよろしくお願いします」


「……よろしくお願いします」


 二人が頭を下げる。


 中野のおじさんが、にやっと笑った。


「じゃ、契約祝いに一曲だな」


「え、今ですか」


「今だろ」


 裕子さんも笑う。


「美月も聴きたいって」


「美月ちゃん、まだ喋れないですよね」


「たぶん言ってるわ」


 翔太さんは、困ったように笑った。


 でも、嫌そうじゃなかった。


 ハードケースを開ける。


 ギターを取り出す。


 肩にかける。


 もう、その動きに迷いはなかった。


 ジャラーン。


 古い木の音が、昼のNAKANOに広がる。


 夜の海みたいだった声が、今日は少しだけ、昼の光を含んでいた。


 歌詞は、まだない。


 でも、約束はあった。


 仕事として。


 罰ではなく。


 逃げ道ではなく。


 翔太さんは、もう一度、歌うことを選んだ。


 わたしは、オレンジジュースのグラスを両手で持ったまま、その音を聞いていた。


 ——これが、大人の約束。


 紙に書いて。


 名前を書いて。


 それでも最後は、声で確かめる。


 翔太さんの歌が、NAKANOの昼に溶けていく。


 夏は、まだ終わらない。


 でも、少しだけ思った。


 この夏が終わっても。


 この歌は、きっと続いていく。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


notoやってます。

マガジンお仕事物

https://note.com/happy_duck8972/m/m87f735c2539e


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