第32話 夏のなか、ちーちゃん(22)
彼が、わたしを上から下まで見て、
「あれ、君いくつ?」
「十四です」
「え、十四!?」
びっくりした顔で、言った。
「うちのライブハウス、未成年だけじゃ、入れない決まりなんだ」
「あ……」
——え、入れない?
そう思った、瞬間——
「ちーちゃん、来ましたね」
背後から、慈恩さんの声。
ゆるやかな笑顔で現れて、
「あ、すいません。彼女、ぼくの保護者同伴で。入場、お願いします」
「あ、SHOさんの関係者ですか?」
「ええ、まあ」
「では、どうぞ」
慈恩さんは、わたしを奥に導いた。
——わたし、慈恩さんの"保護者同伴"扱い。
なんか変だけど、ちょっと、嬉しい。
ライブハウスの中は、天井が低く、壁は黒く塗られ、床はコンクリート。
狭いけれど、ちゃんとした機材が並んでいる。
——あ、翔太さん、いる。
ステージで、ギターのチューニングをしていた。
横に置かれた、ハードケース。
肩に掛けた、あのES-150。
——ライブの、翔太さん。
あの人、本当に、ミュージシャンだ。
「お兄さん、ちーちゃん来ましたよ」
慈恩さんの声に、翔太さんが顔を上げた。
そして、にこっと笑った。
「あ、ちーちゃん。ありがとう」
「うん」
——少し緊張してる。
でも、目が明るい。
"歌なんてもう無理"って言ってた頃とは、全然違う。
慈恩さんは、わたしを一番見やすい場所まで連れて行った。
「ちーちゃん、ここから見てあげてください」
「うん」
「お兄さんの、最初のライブですから」
「うん」
「ちーちゃんの目、お兄さんに必要なんですよ」
「え?」
「まあ、はい」
——慈恩さん、またふんわり説明。
でも、わかった。
わたしがここにいることで、翔太さんはきっと、力をもらえる。
"見届けてくれる人がいる"って、感じるはず。
慈恩さんは、それを知ってる。
だから、わたしを呼んだ。
ふと、後ろを振り向くと——
——あ。
少し離れた後方の席に、中野のおじさんと裕子さん。
抱っこ紐の中で、美月がすやすや寝ていた。
——家族だ。
来てる。
おじさんと裕子さんが、わたしと目を合わせ、ふっと微笑んで、軽く手を振った。
——「あ、ちーちゃん」って感じで。
わざわざ近づかず、静かに見守る距離。
翔太さんの時間を、邪魔しないように。
——大人の距離感。
——なんか、いいな。
慈恩さんは、ステージ脇の暗がりに立ち、腕を組んで見ていた。
——"見守る"姿。
お客さんがぽつぽつと入り、二十人ほどの空間は、もういっぱいだった。
七時ちょうど。
会場が、ふっと暗くなった。
ざわめきが止まり、空気が湿る。
——夏の夜の湿気が、地下に降りてきたようだった。
——いま、翔太さんの人生が変わる瞬間。
わたし、ここにいる。
立ち会っている。
きっと、一生忘れない。
ライトがふっとついて、翔太さんがマイクの前に立った。
「こんばんは、SHOです」
——うわ、低い声。
マイクを通しても、深い。
「初めてのライブです。ちょっと緊張してるんで、まあ、気楽に聴いてください」
——自然な軽口。
いい感じ。
「最初の曲は、最近書いた曲。『家族の声』ってタイトルです」
——あのメロディ、曲になったんだ。
NAKANOで口ずさんでた、あれ。
翔太さんが息を吐き、弦を鳴らした。
ジャラーン。
——アンプから出てる音。
あの古いGibsonが、低く、温かく響く。
——四代の声。
そして、翔太さんが、歌いはじめた。
「磯の匂いが まだする夜に
俺はひとり ギター鳴らす
親父は海へ 出たきり戻らず
じいさん笑って これを渡した」
——え。
歌詞、できてる。
いつの間に。
——翔太さんの人生が、そのまま、歌になってる。
その声が、ライブハウス中に広がった。
——うわ……お腹が、震える。
剣道で本気のおじさんと向かい合う時の、あの感覚。
でも、違う種類の"本気"だ。
——慈恩さんが言ってた、「ロックの肉体に、ジャズの精神」。
いま、それが、わかった。
翔太さんは、ロックを鳴らしている。
でも、奥に、ジャズが息づいている。
——こんな歌、どこにもない。
アメリカにも、日本にも。
翔太さんだけの、新しい音。
翔太さんの歌は、続いていく。
「ひいじいさん 戦争超えて
網と舟で 命を繋いだ
家族 四代 潮の音の中で
誰もが 風のように 生きてきた」
——四代の歴史。
戦争を越えて、海と一緒に生きてきた家族。
——それが、いま、東京の地下のライブハウスに、響いてる。
「磯の匂い まだする
港の風が 胸を打つ
俺はまだ 戻れる
この音の向こうに 家族の声」
——あ、サビ。
「家族の声」。
曲のタイトルが、サビの最後に、ちゃんと回収されてる。
翔太さんの目が、ぐっと、潤んだ。
それでも、歌は、途切れなかった。
ライブハウスの観客は、二十人ほど。
誰もしゃべらず、誰も動かず、ただ、翔太さんの歌を聴いていた。
——空気が、変わっている。
翔太さんが、ライブハウス全体を、自分の世界へ引き込んでいる。
そう感じながら、わたしはステージを見つめていた。
ステージ脇の暗がりで、慈恩さんが糸目のまま、微笑んでいた。
腕を組み、その笑みの奥に、うっすらと光るものがある。
——嬉しそう。
でも、いつもの笑顔の奥に、違う目が見える。
「東京の街じゃ 空が狭い
ビルの影で 星は見えない
でも ギターの弦が 震えるたびに
潮騒が 胸の奥で鳴る」
——東京で、心が潰れかけた、翔太さんの本音。
「空が狭い」「星は見えない」。
——でも、ギターを鳴らせば、潮騒が聞こえる。
お父さんが死んだ漁港の、潮の音が。
そして、ブリッジ。
「じいさんの手のひら 塩で荒れて
親父の背中 波に消えて
それでも聞こえる 夜の底で
『おまえは おまえで、ええ』
って声」
——ブリッジ、いちばん深い。
「おまえは、おまえで、ええ」って声。
——これ、家族からの肯定だ。
——「田舎くささ、消すな」って、慈恩さんが言ったこと。
翔太さんの根っこは、家族から、ちゃんと、肯定されてる。
そして、最後のサビ。
「磯の匂い まだする
俺はもう 戻った
ひとりじゃない このリズムの中
家族の声が 鳴っている」
——戻った。
——慈恩さんと契約した夜、心の中で決めた言葉。
「変わるんじゃなくて、戻る」。
いま、歌になった。
最後の、アウトロ。
「ギターひとつで 波を刻む
港のブルース 夜明けまで」
「——家族の声、いまも、響いてる」
最後のコードが、ジャラーンと、響いた。
静寂。
拍手は、まだ起きない。
翔太さんは目を閉じ、しばらく、動かなかった。
そして——
拍手の、嵐。
二十人の観客が全員立ち上がり、手を鳴らし、口笛が響いた。
誰かが「ブラボー」と、叫んだ。
——ライブハウスで「ブラボー」って言う人、本当にいるんだ。
心の底から感動したときに、出る言葉なんだ。
翔太さんは深く頭を下げ、「ありがとうございます」と言った。
「次の曲、行きます」
ギターを構え直す姿には、もう、迷いがなかった。
——翔太さん、戻ってきた。
本当に、戻ったんだ。
そう、思った。
ライブが、終わった。
ステージを降りた翔太さんは、汗びっしょりで、それでも、目が輝いていた。
「お兄さん、お疲れさまでした」
慈恩さんが、いつもの糸目で、笑う。
「慈恩さん」
「はい」
「俺、戻った感じ、しました」
「よかったですね」
「ぜんぶ、聞こえました」
「家族の声?」
「うん」
「磯の匂いも?」
「うん、地下なのに、ね」
「ふふ」
慈恩さんが、ふっと笑った。
後ろの席を見ると、中野のおじさんと裕子さんが、立ち上がっていた。
美月は、抱っこ紐の中で、まだすやすやと眠っている。
おじさんと目が合い、軽くうなずかれた。
——「いい歌だった」っていう目。
裕子さんも微笑み、軽く手を振ってくれた。




