第30話 夏のなか、ちーちゃん(20)
——え。
わたし、立会人?
十四歳、なのに?
「ちーちゃん、書面に、名前は書かない、けど。写真を撮った、っていう事実。それが、立会人、ってことに、なるんですよ」
「……」
「だから、ちーちゃんが、ここにいる、ってこと。ぼくにとって、すごく大事、なんですよ」
——あ。
慈恩さん、これが、言いたかったのか。
——「ちーちゃんに、見ててもらいたいんですよ」、って。
意味、ちゃんと、あった。
——わたしの、十四歳の、立ち会い。
慈恩さん、ちゃんと、計算、してる。
——でも。
「気づかせ屋」の慈恩さんが、わたしに任せた、っていうこと。
それは、計算だけじゃ、ない。
——たぶん、信頼。
その字を見ながら、わたしは思う。
——ああ。
契約って、お金だけじゃ、ないんだ。
——この人なら信じる、っていう約束で。
そして、この人は信じてもらえる、っていう、しるしなんだ。
「慈恩、これでいいか?」
「ええ、ありがとうございます」
「お兄さん、やってこい」
「はい」
「慈恩、お前も、しっかりな」
「はい」
中野のおじさんは、カウンター越しに、ぐっと翔太さんの肩を叩いた。
そして、またグラスを磨きはじめた。
慈恩さんが、糸目で、わたしを見て、
「ちーちゃん、立ち会い、ありがとうございます」
「うん」
「ちーちゃん、まあ、十四歳で契約に立ち会うって、めずらしい、けど」
「うん」
「ちーちゃんが、ここにいる、ってことが、ぼくにとっては、大事、なんですよ」
「うん」
——慈恩さん、なんで、わたしが必要だと思ったんだろう。
——「気づかせ屋」の慈恩さんに、わたしの何が、必要なんだろう。
そう思いながら、わたしは、頷いた。
慈恩さんは、書類をふっとまとめた。
そして。
「あ、お兄さん、最後にひとつだけ、約束しておきましょうか」
「はい?」
「契約書には、書かない、約束です」
「はい」
慈恩さんが、糸目で、翔太さんを見た。
「お兄さん、これから、いろんな人、寄ってきますよ」
「うん」
「『お前の田舎くさいところ、消せ』って、また言う人、出てきます」
「うん」
「『新しいギター、買え』って、また言う人、出てきます」
「うん」
「『その髪、切れ』って、また言う人、出てきます」
「うん」
「ぼく、ひとつ、約束、してください」
「うん」
「ぜんぶ、無視で、お願いします」
「えええ?」
「はい。ぜんぶ、無視で」
「慈恩さん、それ、業界で生きていけます?」
「お兄さんのファンが、たぶん、世界中で、いっぱいできるんで」
「えええ」
「だから、業界の変な人は、無視で、いいんですよ」
「マジで、ですか」
「ええ」
「お兄さんの根っこ、そこなんで」
店の空気が、静かになる。
慈恩さんは、ゆっくり言った。
「根っこ切ったら、お兄さんの歌、死にます」
——わたしは、慈恩さんを、見ていた。
——慈恩さん、こういうこと、ぜったい見抜く人。
——翔太さんが、レーベルの人に言われたこと。
慈恩さん、たぶん、ぜんぶ知ってる。
で、それを、ぜんぶ否定してる。
「ぼくは、お兄さんの根っこを、信じてる」って。
——あ。
わたし、また、慈恩さん、好きになった。
——でも、それは、口に出さない。
翔太さんが、目を伏せた。
それから、小さく頷いた。
「うん、約束する」
「はい、ありがとうございます」
「俺、ぜったい、変えない」
その返事は、前よりずっと、強かった。
慈恩さんは、満足そうに頷くと、いつもの空気に戻った。
「あ、ちーちゃん、お腹減りましたか?」
「あ、はい」
「うどん、頼みましょうか」
「うん」
——戻った。
いつもの、だるそうな慈恩さんに。
でも。
わたしは、知ってしまった。
あの人が本気で誰かを信じる時、糸目の奥で、ちゃんと、目を開けることを。
その夜。
事務所の奥の部屋で、翔太は、一人、ギターを抱えていた。
薄暗い部屋。
窓の外では、まだ、セミが鳴いている。
——慈恩さんの、四割、っていう数字。
翔太は、ふっと、ギターをベッドに置いた。
——あれ、絶対、業界の相場じゃない。
東京で潰れかけた、半年を思い出す。
原盤印税、一パーセント。
二パーセント。
夢を食わせて、骨まで削る契約。
そんなものばかり、見てきた。
なのに、慈恩は、違った。
——あの人、たぶん、ぜんぶ知ってる。
業界の相場、知らないフリしてるけど。
わかってる。
わかってて、俺に有利に、出してくる。
——慈恩さんが生活回せるのは、別の依頼の収入が、たくさんあるから。
俺の稼ぎは、慈恩さんの生活費じゃない。
俺の稼ぎは、俺のもの。
——慈恩さんは、俺に、本気で勝たせる気だ。
本気で、世界に、出させる気だ。
——四割、っていうのは。
慈恩さんの、本気のしるし、なんだ。
翔太は、ギターをもう一度抱えた。
——絶対、応える。
あの人の四割、絶対、絶対、絶対、稼ぐ。
そして、世界、行く。
翔太は、コードをふっと押さえた。
ジャラーン。
部屋に、優しい音が響いた。
潮の匂いが、した気がした。
遠い漁港の、夕方。
祖父の背中。
酔っぱらって歌っていた、父。
全部、まだ、自分の中に、ある。
——磯の匂い、まだ、する。
——じいさん、聞こえてるか。
親父、聞こえてるか。
ひいじいさん、聞こえてるか。
——俺、戻ってきた。
もう、二度と、売らない。
もう、二度と、捨てない。
——四代の思い、ぜんぶ抱えて、世界、行く。
翔太は、ぐっと、ギターを抱きしめた。
「……絶対、行く」
小さく、呟く。
「世界」
ジャラーン。
音が、夏の夜に、溶けていった。
セミは、まだ、鳴いていた。
その頃。
布団に入ったわたしは、天井を見ながら、ぼんやりしていた。
——今日、契約した。
翔太さん、これから、本当に始まるんだ。
わたし、その最初を、見た。
胸が、少しだけ熱かった。
でも同時に、少し寂しかった。
——翔太さん、きっと、遠くへ行く。
世界に行く。
わたしは、神宝町に、残る。
そう思った、時。
ふっと、別の顔が浮かんだ。
——でも、慈恩さんは、ここにいる。
思わず、自分で笑ってしまう。
——なにそれ。
わたし、安心材料みたいに、思ってる。
ヤバい、ヤバい。
——でも、なんか、安心する。
布団に、もぐる。
窓の外では、まだ、セミが鳴いていた。
夏は、終わらない。
わたしの夏も。
翔太さんの歌も。
まだ、始まったばかりだった。




